高円宮家当主の久子さまは、皇族の中でもその明るい性格や温かい人柄で愛される存在です
この記事では、久子さまの実家や家族、家系図、若い頃の画像、性格や卓越した英語力や話題になった五輪招致でのスピーチ、旦那さんの憲仁親王との結婚と3人の子供、現在についてまとめました。
この記事の目次
- 久子さまのプロフィール
- 久子さまの実家は香川県三豊郡笠田村の旧家
- 久子さまの家系図
- 久子さまの家族① 曽祖父と祖父は大地主で多額納税者
- 久子さまの家族② 父の鳥取滋治郎はフランス三井物産社長や東海観光会長
- 久子さまの家族③ 母の二三子は外交官・友田二郎の長女
- 久子さまの若い頃の画像
- 久子さまの性格は明るく快活で周囲を和ませる温かい人柄も話題
- 久子さまは英語力が卓越しておりスピーチも話題
- 久子さまと旦那の高円宮憲仁親王
- 久子さまと旦那の高円宮憲仁親王との結婚と馴れ初め
- 久子さまと旦那・高円宮憲仁親王の子供① 長女・承子女王
- 久子さまと旦那・高円宮憲仁親王の子供② 次女・千家典子さん
- 久子さまと旦那・高円宮憲仁親王の子供③ 三女・守谷絢子さん
- 久子さまの現在
- まとめ
久子さまのプロフィール
久子さまのプロフィール
旧名 :鳥取久子(とっとり・ひさこ)
生年月日:1953年7月10日
出身地 :東京都港区白金
身位 :親王妃
敬称 :殿下
お印 :扇
勲等 :勲一等
憲仁親王妃(のりひとしんのうひ)久子さまは、上皇陛下(第125代天皇昭仁)の従兄弟にあたる高円宮憲仁(たかまどのみや・のりひと)親王の妃で高円宮家の第2代当主です。
久子さまは、1953年7月10日に東京都港区白金で、三井物産に勤務していた父の鳥取滋治郎さんと、母の二三子さんの長女として誕生しました。
聖心女子学院附属幼稚園に入園してから約1年後、父の鳥取滋治郎さんが米国三井物産に転勤となり、家族でアメリカ・ニューヨークのウェストチェスターに転居しママロネック・スクールに入学されています。
アメリカに4年ほど滞在後に帰国し、聖心女子学院初等科に入学し中等科2年まで在学した後、再び父の仕事の関係でイギリスやフランスに在住。
この頃に父が欧州三井物産ロンドン支店次長に任命されたのを機に家族でイギリスへと渡り、英国、ノースヨークシャーのカトリック系の女子校であるメアリーグラマー女子修道院校を卒業。その後はケンブリッジ大学ガートン・カレッジへと進学し中国学や人類学・考古学を学び、1975年に卒業されています。
大学卒業後は帰国して翻訳会社に就職し活躍された後、再び渡英して法律を学び、1982年に帰国された後は、翻訳会社「株式会社アイディ」とフリーの翻訳者として活躍し、英語とフランス語の翻訳者・通訳として活躍されました。
1984年12月に通訳の仕事を通じて縁のあった、憲仁親王と結婚し、それに伴って高円宮家が創設されました。同日付で勲一等宝冠章を受章されています。
その後は、日本サッカー協会の名誉総裁に就任された高円宮憲仁親王と共に、国内のサッカー振興に尽力されました。
2002年に旦那の高円宮憲仁親王が47歳の若さで薨去した後は、久子さまは高円宮家の当主の座につき、日本サッカー協会、全日本軟式野球連盟、日本水難救済会などの憲仁親王が務められていた総裁・名誉総裁職を引き継ぎ活躍されています。
久子さまの実家は香川県三豊郡笠田村の旧家
出典:https://livedoor.blogimg.jp/
久子さまの実家は香川県三豊郡笠田村(現在の三豊市豊中町笠田笠岡)を在所とする旧家です。
久子さまの実家の鳥取家は、江戸時代以前から続く豪農の家系で、近代に至ってからも、地主、篤農家、実業家として地域に根ざし、香川県の多額納税者として高い地位を築いていました。
久子さまの叔父にあたる鳥取綱太郎氏は四国・コカコーラボトリングの元社長を務められた方です。
そんな久子さまの実家の鳥取家の本家の住宅は、2021年に国の登録有形文化財に指定され話題になりました。
今年国の登録有形文化財に指定されたばかりの鳥取家住宅(香川県三豊市)。現在はゲストハウスになっています。#庭園 #近代和風建築 #香川県 pic.twitter.com/SVjOCm8OnG
— Linus (@MackerelTaby) November 14, 2021
久子さまの家系図
久子さまの家系図です。
久子さまの母親の二三子さんの母方の家系図を辿ると江戸時代後期の関白・九条尚忠に連なる歴史的な名家である事がわかります。関白・九条尚忠は昭和天皇の曾祖父にあたります。
また父方の鳥取家は前述のように香川県の旧家で、久子さまの祖父の鳥取為三郎の四女ののぶは、神崎製紙創業者で、王子製紙の副社長などを歴任した加藤藤太郎の次男の加藤威二に嫁いでいます。
旦那の高円宮憲仁親王の父親の三笠宮崇仁親王は昭和天皇の弟です。当たり前ですが、今上天皇の家系図や秋篠宮家の家系図にも連なっています。
久子さまの実家の家族については次の見出しから、旦那さんの高円宮憲仁親王との結婚や子供については後半で改めて紹介します。
久子さまの家族① 曽祖父と祖父は大地主で多額納税者
久子さまの曽祖父の鳥取治郎八、祖父の鳥取為三郎は、香川県三豊郡笠田村の大地主で多額納税者です。
祖父の鳥取為三郎は実業家としても活躍し、讃岐煉瓦会社や仁尾塩田会社の取締役を歴任しました。また、長男の鳥取綱太郎(とっとり・つなたろう。久子さまの伯父)は四国コカ・コーラボトリングの社長を務めました。
久子さまの家族② 父の鳥取滋治郎はフランス三井物産社長や東海観光会長
久子さまの父親は鳥取滋治郎(とっとり・しげじろう)という1924年2月1日生まれの人物です。
久子さまの父親の滋治郎氏は、東京帝国大学法学部を卒業後に三井物産(旧・第一通商)に入社し、ロンドン支店次長、フランス三井物産社長、本店非鉄金属第三部長、海外業務部長を経て、東邦物産の専務、ワールド・インポート・マート社長、東海観光会長、株式会社スマイル会長などを歴任されました。
2013年2月10日に急性白血病で89歳で亡くなっています。
久子さまの家族③ 母の二三子は外交官・友田二郎の長女
久子さまの母親は二三子さんという女性で、宮内庁式部官を務めた友田二郎の長女です。
久子さまの母方の祖父にあたる友田二郎は、1915年に外務省に入省し、パリ、ロンドンの大使館、マルセイユ、リヨン各領事館での勤務を歴任し、本省では外務大臣秘書官を務めました。
第二次大戦終戦直後に外務大臣秘書官を退官し、以後は、外務省研修所講師と宮内庁式部官を兼任され活躍されました。1969年2月5日に死去されています。
久子さまの母の二三子さんは、外交官の父・友田二郎さんの赴任先であるマルセイユやリヨンで幼少期から子供時代を過ごしフランス語を習得されました。
旦那さんの鳥取滋治郎氏が欧州三井物産社長に就任すると再渡仏してパリで過ごし、流暢なフランス語で現地要人と親交を結び日仏友好の架け橋となりました。
帰国後にフランス語婦人会の事務局長、会長、特別顧問を歴任してフランス文化、言語の国内での普及に尽力されました。
この縁から久子さまはフランス語婦人会の名誉総裁も務められています。
この久子さまの母親・二三子さんの母親(久子さま母方の祖母)の盛子さんは、子爵・曽我祐邦の娘で、母方は関白・九条家に連なる家系です。(久子さまの家系図参照)
久子さまの若い頃の画像
久子さまの若い頃の画像を当時の雑誌画像などから引用して紹介します。
若い頃の久子さま① 28歳、イギリス留学時に雑誌掲載された芸者ガール写真
上の画像は、28歳当時イギリスに留学されていた頃の久子さまの若い頃の画像です。
英国の有名雑誌「TATLER(タトラー)」に掲載されたグラビアで、芸者の姿に扮されています。イギリス国民向けに日本文化のイメージを紹介する写真の一環として掲載されたものです。
若い頃の久子さま② 31歳、憲仁親王との婚約時
上の画像は、憲仁親王と婚約後のデートの場を捉えた週刊誌写真です。当時31歳の久子さまと憲仁親王が、東京五反田簡易保険ホールでのニューヨークフィルの公演を鑑賞され、公演後に指揮者のスービン・メータと歓談されている時の様子を捉えた写真となっています。
若い頃の久子さま③ 31歳、婚約発表記者会見
上の画像は、1984年8月1日の宮内庁で開かれた、当時31歳の久子さまと当時29歳の憲仁親王の婚約発表記者会見の写真です。
この婚約会見は、久子さまの31歳の誕生日の1ヶ月後に開かれたこともあり、憲仁親王から誕生日プレゼントに何をもらったかという質問がされ、久子さまがこれに「十二神将のウマをかたどった根付をもらった」と答えられた事が話題になりました。
久子さまは結婚前から根付に興味があったそうで、結婚後も収集や研究を熱心にされ、2012年には、大阪芸術大学より、根付に関する研究で博士号(芸術文化学)を授与されています。
若い頃の久子さま④ 31歳、結婚式ドレス姿の久子さま
1984年12月の結婚時、ドレス姿の若い頃の久子さまの画像です。
憲仁親王から「Will you marry me?」と英語でプロポーズされ、久子さまが「Yes.」と受けたエピソードが明かされて話題になりました。
若い頃の久子さま⑤
1990年2月4日、「関東・東海花の展覧会」を訪れた若い頃の久子さま(写真正面から見て右)です。隣は旦那の憲仁親王の兄である寬仁親王の妃の三笠宮信子さまです。
若い頃の久子さま⑥ 37歳、三女の絢子さまを抱く久子さま
1990年9月21日、生まれたばかりの三女・絢子さま(現・守谷絢子さん)を抱く若い頃の久子さまです。
若い頃の久子さま⑦ 39歳、宮廷の庭での家族写真
1992年に宮廷の庭で撮影された若い頃の久子さまの家族写真です。
久子さまの性格は明るく快活で周囲を和ませる温かい人柄も話題
久子さまの性格は、明るくて快活な事で知られ、周囲に気を配りその場の空気を和ませるような温かい人柄も評判になっています。
@kaijyuu 高円宮一家は久子さまの性格が反映してるのかハキハキと明るいイメージですね。さっきもツイートしましたが、お別れの時、最後普通にバイバイって手を振ってるのが素敵でした♪
— 小梅(手洗い大事) (@shinonkoume) October 5, 2014
高円宮憲仁親王がまだご存命だった頃、久子さまは自ら車を運転し、3人の子供たちの稽古ごとの送迎をし、三女の絢子さまが幼稚園を卒園されたときの謝恩会で保護者達が「三匹の子ぶた」の寸劇を演じた際には、久子さまは自らオオカミの親分役を買って出て、かぶり物をして真剣に演じられたエピソードなどが関係者から明かされています。
久子さまは自らハンドルを握られ、お子さまがたのお稽古ごとの送迎もされていましたよ。 また絢子さまが幼稚園を卒園された際、謝恩会で保護者が『三匹の子ぶた』の寸劇をしたんですが、このとき久子さまは自ら“オオカミの親分”の役を買って出られて…。かぶりものまでお召しになって、“オラ! オラ!”なんて真剣に演じてくださいました。そんな久子さまに、出席した保護者はみんな感激していましたよ」
上のエピソードの他にも、久子さまが子供達の小学校の運動会を観戦しに訪れた時には、子供達のチームの色が黄色だった事にちなんで全身黄色のスーツ姿で、卵焼きやたくあんなど黄色一色の手作りのお弁当を持参したというユニークなエピソードも明かされています。
お昼には他の保護者や子供達と同じように運動場にビニールシートを広げてお弁当を召し上がられていたそうです。こうしたエピソードからは、久子さまの一切飾らない魅力的な性格が窺えます。
また、2018年11月には「全日本中学校英語弁論大会記念レセプション」に、当時の皇太子夫妻(今上天皇と雅子さま)と共に出席されています。
この時にも、久子さまが雅子さまと2人で声を出して笑う姿が見られたそうです。雅子さまは皇太子妃(当時)という立場での様々なプレッシャーもあり、「適応障害」を公表されていましたが、久子さまの明るく、周囲を和ませる優しい性格によって肩の力が抜けたような様子を見せられていたという事です。
雅子妃と久子妃は、11月の「全日本中学校英語弁論大会記念レセプション」で再会された。 会場には、中学生約150人を含む800人近い参加者が集まって、ユーモアを交えながら自分の考えを英語で主張した。中学生ならではの斬新な内容に、雅子妃と久子妃は声を出して笑われていた。久子妃のご性格は明るい。その場を和ませる力があるといわれるだけに、雅子妃も肩の力が抜けるのだろう。
引用:「ご病気なのに来ていただいて…」雅子さまの苦しい日々が財産になった“瞬間”〈愛子さまのご成長が宮内庁との架け橋に〉
久子さまは英語力が卓越しておりスピーチも話題
久子さまは、三井物産に勤めていた父親の鳥取滋治郎氏の米国や英国勤務などにより、幼少期から大学卒業までにかけて、長くアメリカやイギリスで過ごし英語に親しまれました。
ケンブリッジ大学を卒業後に日本に帰国した後も、その英語力を活かして翻訳会社に勤め、その後再び渡英して英語力にさらに磨きをかけています。
こうした経歴から久子さまの英語力は日本人全体で見ても最も高い水準だと言われています。
2013年9月8日の東京五輪招致を目指すIOC(国際オリンピック委員会)の総会の場で、久子さまが英語とフランス語でのスピーチを行い、2011年に発生した東日本大震災の時にIOCから受けた支援への感謝の言葉などを述べられました。
この時にも久子さまの英語力の高さが大きな話題となりました。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=qJigaI3BJhQ]
久子さまの英語力が想像以上だった
— 鰹節 (@ktw_bt) September 8, 2013
雅子さまが語学力でトランプ大統領ご夫婦との外交で評価が上がってきますが、日本で英語力が一番高い人は高円宮妃久子さまと言われている。三笠宮さまに認められるほどの実力があり、それなりの翻訳能力が高くないと本当の意味での語学力が出来ないと思う。https://t.co/UwzJR81ehr
— lotus heart (@lotus_heart) June 28, 2019
久子さまと旦那の高円宮憲仁親王
久子さまの旦那・高円宮憲仁親王のプロフィール
生年月日:1954年12月29日
没年月日:2002年11月21日(享年47歳)
出身地 :東京都品川区上大崎
久子さまの旦那である高円宮憲仁親王は、昭和天皇の実弟の三笠宮崇仁親王の三男として生まれました。
松濤幼稚園、学習院初等科、学習院中等科、学習院高等科を経て、学習院大学法学部へと進学し1978年に卒業されています。
大学卒業後はカナダのクイーンズ大学に留学し1981年に帰国。以降は国際交流基金に嘱託勤務し、公務の傍らで一般の職員と同じように働かれました。
1984年に久子さまと結婚後は、スポーツの振興・発展に力を注ぎ、特にサッカーには注力され、1987年から2002年11月に薨去されるまで日本サッカー協会の名誉総裁を務め、2002年のサッカー・ワールドカップ日韓大会では久子さまと共に韓国を公式に訪問され19試合を観戦されました。
2002年11月21日、カナダ大使館にてスカッシュの練習をしている最中に心不全を起こして倒れ、直ちに慶應義塾大学病院に緊急搬送されました。
この時には既に心肺停止の状態で蘇生措置がとられ一時は心拍が確認されたものの、夜半に容態が悪化しそのまま回復する事なく薨去されました。まだ47歳という若さでした。
久子さまと旦那の高円宮憲仁親王との結婚と馴れ初め
久子さまと旦那の高円宮憲仁親王の結婚までの馴れ初めを紹介します。
久子さまは、2度目の渡英から帰国され翻訳会社と契約しフリーの翻訳家・通訳として活躍されていました。
そんな頃の1983年8月31日に第31回国際アジア・北アフリカ人文科学会議が開かれましたが、この総裁を務めていたのが、高円宮憲仁親王の父である三笠宮崇仁親王(みかさのみや・たかひとしんのう)でした。
久子さまはこの三笠宮崇仁親王の通訳・助手を任される事となり、その関係で三笠宮邸にも出入りする事となり、その時に三笠宮親王の子息である憲仁親王をはじめてご覧になったという事です。
そして、久子さまの優秀な仕事ぶりや、快活で明るい性格を三笠宮様がとても気に入られ、1984年4月23日のカナダ大使館のレセプションパーティーの場で息子の憲仁親王に久子さまを紹介されました。
そのすぐ後の5月上旬頃から、久子さまは憲仁親王との結婚の意思を尋ねられるようになります。
当初、久子さまは「私の実家は皇族の方と結婚できるような家柄ではありません」と仰ったそうですが、三笠宮様は「そんな事はない」と言って、用意していた久子さまの家系図のコピーを出されたそうです。
三笠宮様は、その家系図を見せながら、久子さまの曽祖母の晃子さんが、大正天皇の妃である貞明皇后の従姉妹にあたる事を丁寧に説明されたそうです。この事実は久子さま本人も知らなかったそうでとても驚かれたそうですが、これを示されては結婚を断る理由はなく、久子さまも憲仁親王との結婚に前向きになられたという事です。
そして、それからすぐ後のフランス室内管弦楽団のパーティで同席した際に久子さまは憲仁親王から結婚を意識した積極的なアプローチを受けます。久子さまはこれに「でもまだ正式にプロポーズをしていただいてませんし」とおずおずと答えたところ、憲仁親王はすかさず「Will you marry me?」と結婚を申し込まれたそうです。
これに久子さまも「Yes」と返します。これを受けた憲仁親王は、なんとその日の深夜に久子さまの実家を電撃的に訪問し、眠っていた久子さまの父の鳥取滋治郎氏を起こすと「例え皇族として生活できなくなる時が来ても、必ず何らかの形で生活できるよう、久子さんをお守りします。」と情熱的に結婚の許しを求められたそうです。
親王にこうまでされては、滋治郎氏も「そうですか、よろしくお願いいたします」と答えるしか無かったという事です。
そして、同年8月に婚約発表会見が開かれ、9月17日に納采の儀が執り行われ、12月6日に結婚の礼が行われ2人は正式に結婚されたのでした。
その後、久子さまと高円宮憲仁親王は仲睦まじい結婚生活を送られ、3人の子供にも恵まれています。久子さまと旦那さんの憲仁親王の子供については次の見出しから紹介していきます。
久子さまと旦那・高円宮憲仁親王の子供① 長女・承子女王
久子さまの長女・承子女王のプロフィール
生年月日:1986年3月8日
出生地 :東京都港区芝浦
久子さまと憲仁親王の1人目の子供は長女の承子女王(つぐこ・じょうおう)です。
承子女王は、松濤幼稚園、学習院初等科、女子中等科、女子高等科から、学習院女子大学国際文化交流学部に入学。在学中の2004年4月からイギリスのエディンバラ大学へと留学し犯罪心理学などを学ばれています。
2005年に学習院女子大学を退学し、正式にエディンバラ大学人文科学・社会学部に入学されています。
2008年7月1日、エディンバラ大学を中退して帰国し、同年9月21日から早稲田大学国際教養学部に1年生として入学しています。
2013年3月、早稲田大学を27歳で卒業され、同年4月から日本ユニセフ協会の常勤嘱託職員として勤務し、現在も国際的な活躍を続けられています。
久子さまと旦那・高円宮憲仁親王の子供② 次女・千家典子さん
久子さまの次女・千家典子さんのプロフィール
生年月日:1988年7月22日
出生地 :東京都港区芝浦
久子さまと高円宮憲仁親王の2人目の子供は次女の千家典子(せんげ・のりこ)さんです。
久子さまの次女の千家典子さんも、姉の承子女王と同様に松濤幼稚園、学習院初等科、女子中等科、女子高等科に通われています。2007年3月に学習院女子高等科を卒業後、4月から学習院大学文学部心理学科に入学し臨床心理学を学ばれました。
2011年3月に学習院大学を卒業後の2014年5月27日、出雲大社禰宜だった千家国麿氏との婚約が発表され、同年7月4日に納采の儀が執り行われ、10月5日に出雲大社にて結婚式が行われました。
この結婚により、千家典子さんは皇族の身分を離れ、現在は民間人として生活されています。
久子さまと旦那・高円宮憲仁親王の子供③ 三女・守谷絢子さん
久子さまの三女・守谷絢子さんのプロフィール
生年月日:1990年9月15日
出生地 :東京都港区芝浦
久子さまと旦那さんの高円宮憲仁親王の3人目の子供は三女の守谷絢子(もりや・あやこ)さんです。
久子さまの三女の守谷絢子さんも2人の姉と同様に松濤幼稚園、学習院初等科、女子中等科、学習院女子高等科と進み、2009年3月に卒業されています。4月からは城西国際大学福祉総合学部へと進学し子ども福祉コースで学ばれています。
大学では保育士と社会福祉士の資格を取得し、カナダへの海外研修にも行かれています。
2013年3月に城西国際大学を卒業し、4月からは同大学大学院福祉総合研究科へと進まれ2016年3月に同大学院を修了し修士(福祉社会)の学位を授与されています。2017年6月からは同大学福祉総合学部に研究員として在籍。
そして、2017年12月に日本郵船の社員で、NPO法人「国境なき子供たち」の理事も務めていた守谷慧さんと出会い関係を育まれました。
2018年1月15日には、母の久子さまから引き継ぐ形で日加協会名誉総裁に就任されています。
2018年4月、守谷慧さんからのプロポーズを受け、同年6月26日に宮内庁は絢子さんと守谷慧さんの婚約を発表し7月2日に正式に結婚が内定しました。8月12日に納采の儀が9月19日に告知の儀が執り行われ、10月29日に明治神宮にて結婚式が行われました。
その日に婚姻届が提出され、絢子さんは皇室の身分を離脱して民間人となりました。
2019年11月17日、第一子となる長男の穣さんが誕生。久子さまにとっては初孫となりました。
久子さまの現在
久子さまは現在も皇族として精力的に公務にあたられています。
久子さまは2022年10月の現在69歳を迎えられていますが、かなり公務で多忙な日々を送られています。
直近でも、ざっと挙げるだけでも、2022年10月15日に「住まいフェスin北海道」への出席、10月14日に札幌市北区の北九条小学校の授業を視察、10月12日に日本とインドの国交樹立70周年記念の植樹祭に臨席、10月9日に山口県立美術館の展覧会「唐絵の系譜」展を視察、10月8日に「日本の祭りinやまぐち」への出席など、1日刻みで日本全国を飛び回るような多忙な日々を送られています。
まとめ
今回は、高円宮家の第二代当主である、憲仁親王妃久子さまについてまとめてみました。
久子さまの実家は香川県三豊市豊中町笠田笠岡を在所とする旧家で、江戸時代以前から続く篤農家、実業家、大地主の家系です。家系図を辿ると母方の祖先は関白の九条家にも連なる名家です。
幼い頃から父親の仕事の都合で家族でアメリカやイギリスで過ごし、イギリスのケンブリッジ大学を卒業後に帰国して翻訳会社に勤め、その後再び英国へと渡って法律を学ばれました。
こうした経歴から、久子さまは卓越した英語力を持ち、東京への五輪招致に向けたIOC総会での英語とフランス語での見事なスピーチは世界でも大きな話題を呼びました。
また、明るく快活、周囲を和やかな気持ちにさせる性格も評判で、国民から愛され尊敬される存在としてよく知られています。
そんな久子さまは、2度目の英国留学からの帰国後にフリーの翻訳家・通訳として活躍していた頃に憲仁親王と出会い、熱烈なアプローチを受けて1984年に結婚。3人の子供に恵まれました。結婚して皇室を離れた三女の守谷絢子さんには2019年に第一子となる男児が誕生し、久子さまにとっては初孫となりました。
現在も久子さまは皇族として公務に多忙な日々を送られており、1日刻みで全国を飛び回り活躍されています。