戦場カメラマンの鴨志田穣さんは西原理恵子さんとアルコール依存症からのDVが原因で離婚しましたが、死因や最期も話題です。
今回は鴨志田穣さんの経歴、元嫁・西原理恵子との馴れ初めや結婚生活、子供、離婚原因や死因をまとめました。
この記事の目次
鴨志田穣は戦場カメラマン
鴨志田穣
生年月日:1964年7月2日
没年月日:2007年3月20日
出身:北海道札幌市
職業:戦場カメラマン、フリージャーナリスト
鴨志田穣さんは戦場カメラマンやフリージャーナリストとして活躍していた人物です。
神奈川県川崎市に生まれ、北海道札幌市で育ちます。
・北海道教育大学附属札幌中学校
・東海大学付属第四高等学校
高校卒業後は大学進学を志しますが、2浪して予備校に通った時点で大学進学をあきらめて上京します。そして、新宿の焼き鳥屋でアルバイトしていました。
戦場カメラマンとして活動
出典:amazon.co.jp
元々、戦場カメラマンに憧れていた鴨志田穣さんはアルバイトで貯めたお金でカメラを買い、23歳の時にタイに渡りました。そして、カメラを持ってアジア各国を放浪します。
そして放浪している時に、報道写真家の橋田信介氏に出会って弟子入りします。
その後、世界各国の紛争地域を訪れ、戦場カメラマンとして活躍しました。カンボジアのクメール・ルージュの捕虜になったこともあります。
帰国後はエッセイストとしても活動していた
出典:hmv.co.jp
日本を23歳で出国して9年間、日本に戻ることはなかった鴨志田穣さん。
海外で戦場カメラマン、フリージャーナリストとして活動している時に西原理恵子さんと出会い、9年ぶりに帰国します。
その後は、以前のような戦場カメラマンとして活動することはなく、エッセイストとしての活動に重きを置いていくことになります。
結婚後、鴨志田穣さんが書いた著作はこちらです。
・『日本はじっこ自滅旅』(2005年)
・『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』(2006年)
・『遺稿集』(2008年)
・『ラブ&ピース』(2010年)
<共著>
・『アジアパー伝』(2000年)
・『どこまでもアジアパー伝』(2001年)
・『煮え煮えアジアパー伝』(2002年)
・『もっと煮え煮えアジアパー伝』(2003年)
・『カモちゃんの今日も煮え煮え』(2003年)
・『最後のアジアパー伝』(2004年)
・『最後のラブレター ばらっちからカモメール 続』(2004年)
・『鳥頭紀行 くりくり編 – どこへ行っても三歩で忘れる』(2001年)
・『ばらっちからカモメール』(2003年)
また、写真家として関わった作品もあります。
- ・ゲッツ板谷『タイ怪人紀行』(1998年)
- ・ゲッツ板谷『ベトナム怪人紀行』(1999年)
- ・ゲッツ板谷『インド怪人紀行』(2000年)
「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」は東陽一監督によって映画化されています。
鴨志田穣の元嫁は西原理恵子
西原理恵子
生年月日:1964年11月1日
出身:高知県高知市
職業:漫画家
鴨志田穣の元嫁は漫画家の西原理恵子さんです。
西原理恵子さんは高知県高知市出身で、高校時代に飲酒で退学処分を受けますが、高校側の一方的な言い分に不服を申し立て、学校側を訴えました。
その後、大検に合格して、予備校に通い、武蔵野美術大学に合格します。
その後、パチンコ誌や麻雀誌などのギャンブル誌で連載を持ったり、旅行体験レポなどの本を出版していきます。
代表作には次のようなものがあります。
・できるかな
・ぼくんち
・パーマネント野ばら
・鳥頭紀行
・恨ミシュラン
・上京ものがたり
映画化された作品も多いです。
現在は漫画家としての活動を続けながら、高須クリニックの高須院長と事実婚状態にあり、一般財団法人高須克弥記念財団理事長も務めています。
大富豪で知られる高須克也氏と事実婚というと「遺産目的?金目当て?」と言われそうなものですが、西原理恵子さんの場合はご本人もしっかり稼いでいて、自立しています。
そのため、「自立していてお金に余裕がある大人の2人が余生を一緒に過ごしている」という関係のようですね。
鴨志田穣と元嫁・西原理恵子の馴れ初め
鴨志田穣さんと西原理恵子さんの馴れ初めは、タイでの取材です。
この時、鴨志田さんはタイでジャーナリストとして活動していました。そして、勝谷誠彦氏の紹介でタイを取材していた西原理恵子さんと知り合います。
その後、西原さんの「鳥頭紀行」のアマゾン取材に同行し、意気投合して、帰りの飛行機の中でプロポーズします。
そして、結婚を機に9年ぶりに日本に帰国することになりました。
鴨志田穣と元嫁・西原理恵子の子供は2人
鴨志田穣さんには子供が2人います。
鴨志田穣さんと西原理恵子さんの間の2人の子供は毎日かあさんの読者なら子供の頃から知っているおなじみの2人という感じですよね。
長男:西原雁治
出典:twitter.com
鴨志田穣さんの長男は西原雁治さんです。
高校の時にアメリカに留学していましたが、現在は日本に戻ってきているようです。時々、西原理恵子さんと一緒にメディアに顔を出すこともあります。
かなり鴨志田穣さんに似ていますよね。
長女:西原ひよ
出典:natalie.mu
鴨志田穣さんの長女は西原ひよさんです。これは確定情報ではありませんが、ほぼ間違いないと言って良いでしょう。
西原ひよさんは現在は舞台女優として活動しているようです。マームとジプシーの作品に出演しています。
西原ひよさんはお母さんそっくりですよね。
鴨志田穣と元嫁・西原理恵子の離婚原因はアルコール依存症からのDV
鴨志田穣さんは2003年に西原理恵子さんと離婚しています。
離婚原因は鴨志田穣さんのアルコール依存症とDVだったと言われています。離婚原因を詳しく見ていきましょう。
鴨志田穣はアルコール依存症だった
鴨志田穣さんは重度のアルコール依存症でした。それは、西原理恵子さんと出会う前からです。
戦場カメラマンとして活動している時、目の前で人が死んでいく、自分にも銃口が向けられる、子供達も銃を持たざるを得ない状況などを目の当たりにして、強いストレスを感じます。
そのストレスから、アルコール依存症になったようです。また、鴨志田穣さんの父親もアルコール依存症だったようですので、遺伝的な要因も少しあったのかもしれません。
アルコール依存症から脱却するために、タイにいた時は出家して、「ピーニャソーダ(聡明なる者)」という出家名も授かったこともあります。
ちなみに、結婚する前に西原理恵子さんの漫画に出てきた時の説明文には「タイ案内人 鴨ちゃん 出家坊主及びヘロイン中毒者」となっていました。
西原理恵子の出産後にそれが顕著に
出典:orionfdn.org
アルコール依存症患者のDV(暴言・暴力)はあるあるです。鴨志田穣さんも、その例に漏れずに、DVをするようになりました。
それが顕著になったのは、西原理恵子さんが長男を出産した後だったようです。
ウチも生後1週間の赤ちゃんを抱いているところでずっと怒鳴られ続けたり、描いた原稿を破られたこともありました…。必ず反抗できない時を選ぶ、そして自分より弱いもののところにいく。だからいくら病気と聞いていても、おそろしく卑怯でどうしようもない人間だと思っていました。
自分よりも弱い立場の者にDVをするのが、アルコール依存症患者のあるあるです。
だから、生後すぐで赤ちゃんを抱いている状態の西原理恵子さんにDVを始めたようです。
DVを原因に離婚
ただ、鴨志田穣さんがDVを初めてすぐに離婚したわけではありません。西原理恵子さんはDVを受けながらも、原稿を破られながらも、離婚をすることはありませんでした。
鴨志田穣さんは何度もアルコール依存症の専門病院に入院し、西原理恵子さんは献身的に治療に協力していました。「卑怯でどうしようもない人間」と思いつつ、しっかり支えていたんです。
それでも、鴨志田穣さんは何度も酒を飲んでしまい、DVが自分だけでなく子どもたちにも及ぶことを恐れた西原さんは2003年に離婚を選択します。
「結婚する前からアルコール依存症だったなら、何で結婚したの?」と思いますよね。
でも、結婚前はDVをしなかったし、アルコール依存症もそれほど目立つ状態ではなかったようです。
すなわち自分の妻である西原にだけしかその凶悪な面を見せない狡猾さまで持ち合わせていた。
引用:アルコール依存症の夫に原稿をサクサク破られる日常。西原理恵子、吾妻ひでお『実録! あるこーる白書』 – エキサイトニュース
アルコール依存症患者はうまく立ち回ることができ、自分がアルコール依存症であることを隠すことができるようです。
だから最初は、鴨志田穣さんは西原さんにアルコール依存症の悪い面・DVなどを見せなかったのでしょう。
鴨志田穣の死因は腎臓がん
鴨志田穣さんは2007年に死去しました。死因は腎臓がんです。
鴨志田穣は入退院を繰り返していた
2003年にアルコール依存症からのDVが原因で離婚した鴨志田穣さんは、離婚後は1人でアルコール依存症の治療を進めていました。
アルコール依存症の専門病院に入院して治療し、退院後にまたお酒を飲んでしまう…そういうことを離婚前から繰り返していたんです。
そして、肝硬変から食道静脈瘤破裂で、吐血を10回も繰り返していました。
もう鴨志田穣さんの身体はボロボロの状態だったんです。
回復途上でがんが発覚
出典:ameblo.jp
身体はボロボロなのに、それでもお酒をやめられなかった鴨志田穣さんでしたが、2006年になってようやくアルコール依存症の治療が進み、お酒と縁を切ることができました。
しかし、そのタイミングで腎臓がんが発覚するんです。
腎臓がんであることは、2006年に出版された『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』で公表されました。
腎臓がんが見つかった時は、既に手の打ちようがなかったようです。
鴨志田穣は西原理恵子と復縁後に死去
高須院長の勧めで復縁
出典:orionfdn.org
2003年に離婚していた鴨志田穣さんと西原理恵子さん。ようやく鴨志田穣さんがアルコール依存症との戦いに勝ったと思ったら、腎臓がんで余命半年の宣告を受けることになります。
普通だったら、鴨志田穣さんは1人で死を待つだけの生活になりますが、元嫁の西原理恵子さんは高須克也氏の勧めもあり、復縁することにします。
またDVを受けるかもしれないという恐怖がありながらも、西原さんは鴨志田穣さんを看取る覚悟を決めて、復縁したようです。
ただし、入籍するわけではなく、事実婚状態でした。
最後の半年は家族として過ごす
鴨志田穣さんは西原理恵子さんと復縁し、最後の半年は家族4人で本当の「家族」として過ごすことができました。
鴨志田穣さんは2007年3月20日に亡くなりますが、亡くなる前に西原理恵子さんに次のように伝えたとのことです。
子供を傷つけずにすんだ。人として死ねることがうれしい。
西原理恵子さんは鴨志田穣さんを看取った後に、元嫁として喪主を務めています。そして3ヶ月間、漫画家としての活動を休止しました。
この時の様子は「毎日かあさん」に詳しく描かれています。
鴨志田穣のまとめ
鴨志田穣さんのプロフィールや経歴、元嫁の西原理恵子さんとの馴れ初めや結婚生活、子供、離婚原因、死因や最期をまとめました。
鴨志田穣さんの人生を見ていると、なんだか切なくなります。そして、西原理恵子さんの器の大きさに感動すら覚えますね。