「赤報隊」を名乗る犯人が起こした「赤報隊事件」ですが、その後も犯人逮捕には至っていません。
今回は朝日新聞社襲撃など一連の事件をわかりやすく解説し、なぜ捕まらないのかの原因、真犯人の誤報、現在の状況もまとめました。
この記事の目次
- 赤報隊事件とは
- 赤報隊事件が起きた原因
- 赤報隊事件と「日本民族独立義勇軍」の関係とは
- 赤報隊事件をわかりやすく解説① 朝日新聞東京本社銃撃事件
- 赤報隊事件をわかりやすく解説② 朝日新聞阪神支局襲撃事件
- 赤報隊事件をわかりやすく解説③ 朝日新聞名古屋本社社員寮襲撃事件
- 赤報隊事件をわかりやすく解説④ 朝日新聞静岡支局爆破未遂事件
- 赤報隊事件をわかりやすく解説⑤ 中曾根・竹下両元首相脅迫事件
- 赤報隊事件をわかりやすく解説⑥ 江副元リクルート会長宅銃撃事件
- 赤報隊事件をわかりやすく解説⑦ 愛知韓国人会館放火事件
- 赤報隊事件のその後と現在:真犯人不明のまま時効を迎えた
- 赤報隊事件は誤報もあった
- 赤報隊事件の犯人はなぜ捕まらなかった?原因を検証
- 赤報隊事件の真犯人とは?
- まとめ
赤報隊事件とは
1987年(昭和62年)から1990年(平成2年)にかけて、「赤報隊」を名乗る犯人が以下の事件を起こしたことを総称して「赤報隊事件」と呼びます。
1987年1月24日(土曜日)…「朝日新聞東京本社銃撃事件」
1987年5月3日(日曜日)…「朝日新聞阪神支局襲撃事件」
1987年9月24日(木曜日)…「朝日新聞名古屋本社社員寮襲撃事件」
1988年3月11日(金曜日)…「朝日新聞静岡支局爆破未遂事件」
1988年3月11日(金曜日)消印…「中曽根康弘・竹下登両元首相脅迫事件」
1988年8月10日(水曜日)…「江副浩正リクルート会長宅銃撃事件」
1990年5月17日(木曜日)…「愛知韓国人会館放火事件」
この7つの事件の中で特に注目を集めたのが「朝日新聞阪神支局襲撃事件」であり、就業中だった記者が2名殺傷される惨事となりました。
警察庁は散弾銃を使った襲撃事件4件と、時限爆弾を使った未遂事件1件の合わせて5件を、「広域重要指定116号事件」と指定。
これは、オウム真理教による「地下鉄サリン事件」や、1995年に発生した「警察庁長官狙撃事件」と並び、社会に重大な脅威をもたらすテロ事件として認定されたことを意味します。
警察庁は長年にわたって捜査を続けてきましたが、犯人の手掛かりは全く掴めないまま、2003年に公訴時効を迎え、未解決事件として迷宮入りしました。
「赤報隊事件」の犯人像
警察庁は「赤報隊事件」を起こした犯人像について、非常に銃の扱いに慣れた人物で、大胆かつ冷静な行動が取れる極めて知能が高い人物と推測しました。
幕末に活動した「赤報隊」を模倣した犯行とみられますが、一連の事件は同一人物による犯行なのか、同一グループの犯行なのかも不明です。
ただ、テロの標的にされた朝日新聞社は、犯人を凶悪で執念深い性格をしていると特徴付けました。
また、兵庫県警警備課次席は、犯人が「日本民族独立義勇軍」とも名乗ったことから、よく勉強している右翼だとし、その他の著名人らも右翼による犯行の可能性が高いとしています。
赤報隊事件は憲法記念日に起きている
犯人は約3年にわたって「赤報隊」を名乗り、襲撃事件や脅迫事件を繰り返しました。
最も凄惨な事件である「朝日新聞阪神支局襲撃事件」では、朝日新聞阪神支局に散弾銃を持った男が押し入り、無言のまま発射。記者1名殺害、1名に重傷を負わせました。
この日は1987年5月3日の憲法記念日であり、右翼にとってはとても意味のある日でした。
この事件の他に、5件のテロ事件を起こし、さらに時の内閣総理大臣である中曽根康弘や竹下登の処刑予告を含む脅迫事件など8件を起こしました。
しかし、延べ124万人の捜査員を投入したものの、いずれも未解決のまま時効を迎えています。
これら「赤報隊事件」は、昭和の重大テロ事件として知られるグリコ森永事件(警察庁指定第114号事件)と並んで、戦後の重要未解決事件として有名になりました。
赤報隊事件が起きた原因
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戦後の日本は左翼が幅を利かせていましたが、それに対抗して愛国主義の右翼の活動も活発化していきました。
「赤報隊事件」はそれを象徴する事件であり、売国新聞社として朝日新聞社を敵対視して一連のテロ事件が実行されました。
犯人が時事通信社などに郵送した複数の犯行声明の中には、骨の髄まで右翼思想に浸っていないと書けない内容もあったことから、右翼・新右翼犯行説が有力視されています。
「われわれは日本人である。/日本にうまれ 日本にすみ 日本の自然風土を母とし/日本の伝統を父としてきた。/われわれの先祖は みなそうであった。/われわれも われわれの後輩も そうでなければならない。」
この文章を読むと、三島由紀夫思想からも色濃く影響を受けているように見て取れます。
また、何度も犯行を行いながら全く痕跡を掴ませなかったのは、犯人の知能が極めて高かった可能性が高いと言えるかもしれません。
赤報隊事件と「日本民族独立義勇軍」の関係とは
犯人は一度だけ「日本民族独立義勇軍」と名乗った
犯人はテロ事件を起こす度に、時事通信社などに犯行声明文を送りつけていました。
そして、幕末時代に活躍した幕末志士になぞらえて「赤報隊」と名乗りましたが、一度だけ「日本民族独立義勇軍 別動 赤報隊 一同」 と名乗ったことがありました。
それは、1987年1月24日に起きた事件である朝日新聞東京本社に散弾銃を発砲した事件の時で、それ以降の事件は「赤報隊 一同」と名乗っています。
この名称を使い分けた理由は分かっていませんが、「赤報隊」という名前を印象づけるために「日本民族独立義勇軍」を省いた可能性があります。
また、「赤報隊」は「日本民族独立義勇軍」から派生したグループであり、「日本民族独立義勇軍」の実態を解明すれば事件が紐解ける可能性があると睨んだ捜査幹部もいたようです。
「日本民族独立義勇軍」はゲリラ事件を起こしていた
「日本民族独立義勇軍」は、一連の「赤報隊事件」より前に、国内にある米英の関係施設を狙って火炎瓶などを使ったテロ事件を複数起こしていました。
これらの事件も犯行声明が出ていたものの、犯人特定にはつながっておらず、未解決事件となっています。
しかし時間が経つにつれて、 時事通信社に郵送されてきた犯行声明文や公的に出版された資料などから、「日本民族独立義勇軍」の実態を解明するカギが次第に明らかになってきました。
関東の新右翼団体が発行していた機関誌には、「日本民族独立義勇軍」が出した犯行声明が掲載されていました。
この新右翼団体は「日本民族独立義勇軍」を指して、”まだ見ぬ同志”と呼び、その活動を高く評価していました。
このことから、警察庁ではこの2つの組織を同一組織である可能性も指摘されましたが、この新右翼団体は一貫して関係ないと主張していたようです。
他の非公然組織もゲリラ事件を起こす
1981年12月、神戸市にある米国総領事館に松明が投げ込まれた事件が起こりました。
「日本民族独立義勇軍」は時事通信社に対し、「ワガグンは西南日本において米国外コウ公館をコウゲキせり」と犯行声明を出しますが、実は別の組織も同様に犯行声明を出していました。
実際には存在しない隊名を名乗っていたこの組織ですが、1982年5月、新右翼団体は機関紙にこの組織の「告」と題した声明文を掲載しました。
そして、その声明文の中に「米国総領事館攻撃は、我が隊隊士の手になるものである」という記述がされており、「日本民族独立義勇軍」のものではなかったことが判明。
また、この非公然組織は1982年6月にも、東京都千代田区にある英国大使館文化部などに火炎瓶を使ったテロ事件を起こしており、この時も新右翼団体の機関紙に命文が掲載されました。
他の非公然組織と「日本民族独立義勇軍」の関係は不明
その後、警視庁公安部が捜査をしたところ、この英国大使館文化部事件は機関紙を発行していた新右翼団体の当時の幹部による犯行だということがわかりました。
つまり、架空の団体を装った自作自演の犯行であり、その幹部らは火炎瓶処罰法違反などにより逮捕され有罪判決を受けました。
この新右翼団体の幹部による犯行だと明らかになったことで、「日本民族独立義勇軍」との間に何らかの関係性があるということが濃厚になりました。
しかし、当時は右翼による街宣活動が非常に活発であり、警察はその対応に忙殺されていたため、これらの組織をひとつひとつ解明するための人員を割くことが難しい状況でした。
他の非公然組織と「日本民族独立義勇軍」メンバーが重複していた可能性はある
後の取材で新右翼団体の元幹部は、「日本民族独立義勇軍」と非公然組織のメンバーは一部が重複していた可能性があると語っています。
つまり、「日本民族独立義勇軍」のメンバーでありながら、それを隠して非公然組織にも所属していたメンバーもいたようです。
これにより、なおさら犯人の特定を難しくしていたのかもしれません。
赤報隊事件をわかりやすく解説① 朝日新聞東京本社銃撃事件
1987年1月24日、朝日新聞東京本社にて 「朝日新聞東京本社銃撃事件」が発生しました。
しかし当初、事件としての痕跡が見つかっていなかったため報道されず、「朝日新聞阪神支局襲撃事件」が発生したことで、東京本社でも同様の襲撃事件が起きていたことが認識されました。
1987年10月1日に初めて実況見分が行われ、1月24日午後8時過ぎ頃に、東京本社1階にあった植え込みから建物の2階に向けて三段銃を2発発射した痕跡があったと社員が証言しています。
この植え込みの近くで未燃焼の火薬が見つかっており、犯人は銃身を短く切った改造銃を使っていた可能性が指摘されています。
「朝日新聞東京本社銃撃事件」詳細①
1987年1月24日の午後8時過ぎに犯人が散弾銃を発砲した時、広告局で仕事をしていた数人の社員が、窓ガラスに何かが当たる音を2回聞いていました。
不審に思って窓の外のテラスに出て辺りの様子を見てみましたが、特に変わった様子は見られなかったことからそのまま部屋に戻って仕事をしていました。
その頃、犯人は「日本民族独立義勇軍 別動 赤報隊 一同」を名乗り、時事通信社と共同通信社に犯行声明を送りつけています。
犯行声明文では、自らを「日本国内外にうごめく反日分子を処刑するために結成された実行部隊」とし、日本を貶める報道をする朝日新聞社を敵対視している様子がうかがえました。
そして、1月24日に襲撃したテロ事件は、その第1歩だと記していました。
どちらの犯行声明文も、ワードプロセッサー(ワープロ)で打ち込まれたもので、時事通信社に届いた声明文は1月26日午前9時から10時頃に総務部員が受け取り、社会部に転送されました。
その後、声明文を読んだ社会部の社員は、その現物をオートバイ便で警視庁クラブに送り、その公安担当記者はコピーを取って警視庁に提出しました。
なお犯行声明文が入っていた封筒は、社会部が受け取った時に不要だ判断して捨ててしまったようです。
一方で共同通信社に送られた声明文は捨てられてしまったため、どのように管理されていたか一切確認ができていないようです。
「朝日新聞東京本社銃撃事件」詳細②
犯人に狙われた朝日新聞社は、犯行声明文の存在について時事通信社の公安担当経由で知らされました。
1月28日午後、東京本社の警備センターに実際に事件が起きていたかを確認しましたが、東京本社はもちろん、大阪や名古屋、福岡の西部本社でも何もなかったため、報道は見送られました。
これにより、朝日新聞社や時事通信社、共同通信社などに無視されたと感じた犯人は、第2の犯行である「朝日新聞阪神支局襲撃事件」を起こしたとみられています。
赤報隊事件をわかりやすく解説② 朝日新聞阪神支局襲撃事件
1985年5月3日夜、「朝日新聞阪神支局襲撃事件」が発生し、朝日新聞社の社員である小尻知博さん(享年29)が殺害され、犬飼兵衛さん(当時42歳)も重傷を負いました。
なお、現場にはもう1人、高山顕治(当時25歳)さんがいましたが、銃弾が当たらなかったため無傷でした。
ちなみに、この事件が発生する直前である4月後半から5月初めに、阪神支局には夜に何度か無言電話があり、これは犯人が内情を探るためだったと言われています。
「朝日新聞阪神支局襲撃事件」の詳細①
事件が起きた5月3日は日曜日で、3連休の初日であり、当番勤務は小尻知博さん、犬飼兵衛さん、高山顕治さんの3人です。
なお、この日は3人以外に支局長もいましたが、3人が書いた原稿を本社に送った後、支局の近くにあった寿司店での会合に出ていたため、事件発生時刻は不在でした。
3人の記者は午後7時頃から支局の2階にある編集室で夕食を食べており、食べ終えた午後8時15分頃、黒い目だし帽で黒いフレームのメガネをかけた全身黒ずくめの男が、押し入ってきます。
そして、犯人は散弾銃を構えて、ソファーに座って雑談していた犬飼兵衛さんの左胸めがけて撃ち込みました。
「朝日新聞阪神支局襲撃事件」の詳細②
犬飼兵衛さんの腹部、右手、左ひじなどに約80発の散弾粒が食い込み、内出血を起こしますが、左胸のポケットに鰻皮製の札入れとボールペンが入っていたため、致命傷を免れました。
ただ、散弾粒は心臓から約2mmにまで到達しており、一歩間違えば即死でした。また、犬飼兵衛さんの小指が吹き飛ばされており、薬指と中指はほとんど切断された状態になっています。
犬飼兵衛さんの近くでうたた寝をしていた小尻知博さんは、発砲音で目が覚めてソファーから起き上がりました。
それにびっくりした犯人は、小尻知博さんの脇腹めがけて2発、散弾銃を発砲しました。
発砲は銃口が体に接するほど極至近距離で行われ、散弾粒が入ったプラスチック製のカップワッズ(直径約2センチメートル、長さ約5.8センチメートル)ごと体内に入ってしまいます。
そして、胃の後ろ側で弾けて散弾粒が飛散しました。 カップワッズには約400個の散弾粒が詰められていて、その内の200個が体内で飛び散ったため、小尻知博さんは即死でした。
赤報隊事件をわかりやすく解説③ 朝日新聞名古屋本社社員寮襲撃事件
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1987年9月24日午後6時45分頃、名古屋市東区新出来にある朝日新聞名古屋本社の単身寮を犯人が散弾銃で襲撃しました。
無人だった居間兼食堂と西隣のマンション外壁に対してそれぞれ1発ずつ発砲し、その後、犯行声明文を送りつけています。
声明文では、「反日朝日は五十年前にかえれ」と戦後民主主義を否定すると同時に、反日分子である朝日新聞社への敵対心を露わにしました。
赤報隊事件をわかりやすく解説④ 朝日新聞静岡支局爆破未遂事件
1988年3月11日、静岡市追手町(現・静岡市葵区追手町)の朝日新聞静岡支局(現・静岡総局)の駐車場に、時限発火装置付きのピース缶爆弾が仕掛けられていました。
爆弾は翌日に発見され、事件は未遂に終わりました。
その直後に送られてきた犯行声明は、「日本を愛する同志は 朝日 毎日 東京などの反日マスコミをできる方法で処罰していこう」と朝日新聞社以外のマスコミにも向けられたものでした。
そのため、事件の拡大が懸念されましたが、その後、朝日以外の新聞社でテロ事件が発生することはありませんでした。
赤報隊事件をわかりやすく解説⑤ 中曾根・竹下両元首相脅迫事件
「朝日新聞静岡支局爆破未遂事件」が発生した同日の消印で、群馬県の中曽根康弘元総理の事務所と、島根県の竹下登総理の実家に脅迫状が郵送されました。
中曽根氏への脅迫状には、「靖国参拝や教科書問題で日本民族を裏切った。英霊はみんな貴殿をのろっている」「今日また朝日を処罰した。つぎは貴殿の番だ」と記載されていました。
竹下氏には「貴殿が八月に靖国参拝をしなかったら わが隊の処刑リストに名前をのせる」と靖国参拝を強要する脅迫状が届きました。
赤報隊事件をわかりやすく解説⑥ 江副元リクルート会長宅銃撃事件
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1988年8月10日午後7時20分頃に、当時リクルート事件で世間を騒がせていた同社の元会長・江副浩正さんの自宅に、犯人から散弾銃が1発撃ち込まれました。
当時リクルートは朝日新聞社に広告を掲載しており、「反日マスコミに広告を出すことは反日企業に値する」という旨の犯行声明が出されます。
しかし、リクルート社は朝日新聞だけに特別多く広告を出していたわけではありません。
そのため、見せしめに襲撃された可能性があります。
赤報隊事件をわかりやすく解説⑦ 愛知韓国人会館放火事件
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1990年5月17日午後7時25分頃、名古屋市内にある愛知韓国人会館が放火されるという事件が発生しました。
その直後に出された犯行声明によれば、当時の韓国の大統領である盧泰愚氏の来日を強く拒む意志を表すもので、「くれば反日的な在日韓国人を さいごの一人まで処刑」と脅迫しました。
赤報隊事件のその後と現在:真犯人不明のまま時効を迎えた
警察は「赤報隊事件」の捜査を続けましたが、2002年に阪神支局襲撃事件、2003年に静岡支局爆破未遂事件が公訴時効を迎え、犯人が逮捕できないまま、全ての事件が迷宮入りしました。
ただ、兵庫県警は時効成立後も捜査を続けており、被害を受けた朝日新聞社も「真相に迫る努力を続ける」と伝えています。
赤報隊事件は誤報もあった
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「赤報隊事件」に絡んで、雑誌『週刊新潮』が「朝日新聞阪神支局襲撃事件」を含めて事件に関与したと語る真犯人を名乗る男の実名手記を4回にわたって連載しました。
しかし、この男は真犯人ではなく、虚偽だと判明し、「ニセ赤報隊事件」と揶揄され、週刊誌業界における大スキャンダルの1つに発展しています。
赤報隊事件の犯人はなぜ捕まらなかった?原因を検証
元朝日新聞社の記者だった樋田毅さんは、2018年2月に『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』を出版しました。
樋田毅さんは「赤報隊事件」から10年以上が経過した1998年に、警視庁が犯人の可能性があるとしてリストアップしていた9人を取材していました。
いずれも新右翼活動家であり、取材時に嘘発見器にもかけましたが、全員が犯人ではないということがわかりました。
これらの新右翼活動家への取材で、当時のこうした活動家らがどんな考え方をしていたのかが判明しましたが、真犯人の行方については全く明らかになることはありませんでした。
「犯行グループがごく少数で結束が固く、情報を外に漏らさないようになっている。だから伝わってこないという可能性が大きいですね。これまで我々が取材をしてきた右翼の人たちは、しばらくすると『あの事件は誰それの犯行だ』とか言い出すことが結構あったんですよ。もちろんわからないものもありますが、何年か経つとなんとなくわかってくるんです。でも赤報隊だけは、それが全くわからない。少数の結束が固いグループなのか、大きな組織に守られた人たちなのか。そのどちらかだろうと想像してはいますが……」
時間が経過しても、ここまで全く犯人の足取りがつかめない事件というのも珍しいようですが、真犯人に関するプロファイリングはできているようです。
次章で詳しく紹介します。
赤報隊事件の真犯人とは?
「赤報隊事件」の真犯人に関するプロファイリングは、以下の通りです。
・銃の扱いに慣れており、大胆かつ冷静な行動ができる知性の高い男
・幕末の「赤報隊」を名乗る生粋の右翼活動家で、凶悪で執念深い性格
・東京を拠点に全国規模で活動する中高年のインテリ系右翼
・三島思想を受け継ぐ新右翼運動の流れの中にいる人物
・実行犯は右翼思想を持つ事件当時30歳ぐらいの元自衛官
真犯人が現在も生きているかどうかも全く不明で、もし名乗り出てきても時効が成立しているため逮捕されることはありません。
ただ、どんな形にせよ、真実を明らかにしてほしいと思う人は多いはずです。
まとめ
1987年から1990年にかけて発生した、「赤報隊」を名乗る犯人が次々とテロ事件を起こした「赤報隊事件」についてまとめてきました。
散弾銃や爆弾を使った派手なテロ事件のわりに、犯人のその後の動向が全くつかめないという非常にミステリアスな事件でした。
当時は街中や建物内に防犯カメラがなかったことも、簡単に犯人を取り逃がしてしまった理由
かもしれません。
お亡くなりになった被害者の方のご冥福をお祈り申し上げます。