2019年5月28日に発生し社会を震撼させた「川崎市登戸通り魔事件」の犯人・岩崎隆一の悲惨な生い立ちに注目が集まっています。
今回は岩崎隆一の親に捨てられた悲惨な生い立ち、預けられた叔父叔母夫婦宅でのいとこ兄弟との差別、屈折した学生時代や雀荘で働いていた過去、事件後の親族らの現在についてまとめました。
この記事の目次
岩崎隆一は「川崎市登戸通り魔事件」の犯人
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岩崎隆一は、2019年5月28日に神奈川県川崎市多摩区登戸で起きた「川崎市登戸通り魔事件」の犯人です。
岩崎隆一の生年月日は1967年12月28日で、事件を起こした当時は51歳。神奈川県川崎市麻生区多摩美在住で、叔父叔母夫婦と同居し引きこもり状態だったようです。
「川崎登戸通り魔事件」の概要
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2019年5月28日7時45分頃、川崎市多摩区登戸駅近くの路上の私立カリタス小学校のスクールバス乗り場で、同校の生徒らが順番にスクールバスに乗り込んでいる最中、後方から両手に柳刃包丁を持った岩崎隆一が駆け足で現場に接近し、終始無言のまま次々と児童や保護者らを刺しました。
犯行が始まったのは付近のファミリーマートの前で、岩崎隆一は児童の保護者で当時39歳の小山智史さんを突然背後から刺して殺害した後、無言でスクールバス乗り場の方へ向かい、約50メートルを走りながら児童達と保護者の40代女性を次々と斬りつけました。
騒動に気がついたスクールバスの運転手に「何をやっているんだ」と叫ばれた後、岩崎隆一は現場から数十メートル移動し自らの首を切りつけました。通報を受けた警察が駆けつけた時には、岩崎隆一は既に意識不明の状態であり、その後、搬送先の病院で死亡が確認されています。
事件発生から岩崎隆一が自殺に及ぶまで、わずか数十秒間の出来事でした。
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目撃者によれば、事件現場は血の海で、怪我を負いうずくまる児童や、呆然と立ち尽くす児童、倒れた男性に声をかけながら心臓マッサージをする救急隊員の姿などが見られ、「お母さん」と助けを求める声が響くなど、地獄絵図のような有様だったようです。
また、別の目撃者からは、事件直前に岩崎隆一と見られる男が「ぶっ殺してやる」と叫ぶ声を聞いたとの証言も出ています。
犯行時の岩崎隆一の格好についても目撃証言が出ており、上下黒の服装に、スキンヘッドのような髪型でガッチリとした体格だったという事でした。
事件の被害者は、ファミリーマート前で最初に刺された小山智史さん(児童の保護者、外務省職員で当時39歳)と、私立カリタス小学校の6年生だった栗林華子さん(当時11歳)の2人が亡くなり、その他、女児16人、男児1人、保護者の40代女性1人の合計18人が負傷しました。
負傷者のうち11人が事件後入院となり、うち女児2人と40代女性は重傷を負っています。
行きずりではなく計画的犯行の可能性が高い
岩崎隆一は「川崎市登戸通り魔事件」の当日、午前7時頃に自宅を出て近所の住人に「おはようございます」と挨拶したあと、最寄駅の小田急電鉄読売ランド前駅から電車に乗り、午前7時35分頃に登戸駅で降車、その後徒歩で事件現場となった私立カリタス小学校のスクールバス乗り場へと直行しています。
警視庁の発表によれば、「川崎市登戸通り魔事件」の4日前の5月24日の午前7時半頃に、下見をするように上記と同じルートを使って事件現場へと向かう岩崎隆一の姿が防犯カメラの映像に記録されていたとの事です。
また、岩崎隆一は事件直前に現場付近のファミリーマート付近の駐車場にリュックを置き、滑り止めとして黒の作業手袋を装着した上で犯行に及んでいます。
犯行に使われた2本の柳葉包丁(刃渡り30cm)のほか、コンビニ駐車場に残されたリュックの中からさらに2本の包丁(刃渡り25cmの文化包丁と刃渡り20cmの刺身包丁)が発見されています。
犯行に使われた2本の柳刃包丁は2019年2月頃に東京町田の大型量販店で購入され、リュックの中の2本はそれとは別の店舗で購入されている事なども確認されています。この事実から、少なくとも岩崎隆一は3ヶ月以上前から犯行を計画し、計画の発覚を避けるために別々の店舗で合計4本の包丁を購入したと推測されています。
以上から、岩崎隆一は行きずりで犯行に及んだわけではなく、計画的犯行だった可能性が高いと見られています。
それではなぜ、岩崎隆一はこのような凶行に及んだのでしょうか?その真相に近づくため、次の見出しからは、これまでに明らかになっている岩崎隆一の生い立ちについて見ていきましょう。
岩崎隆一の生い立ち① 両親の離婚で叔父叔母に預けられる
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岩崎隆一は1967年12月28日に川崎市で生まれましたが、小学校に上がる前の幼少期に両親が離婚し、父親の兄にあたる叔父とその妻の叔母夫婦の家に預けられました。
叔父叔母夫婦宅には、当時、叔父叔母夫婦の実子の姉弟も住んでいました。岩崎隆一からみていとこにあたる姉弟については、年齢や名前などは明らかにされていませんが、長女が岩崎隆一の4歳ほど年上、長男が同じく3歳ほど年上との情報が、近隣住人から出ています。
「両親が離婚したため、小学校入学前に父親の兄の家に預けられた。伯父夫婦と伯父夫婦の長女(容疑者より4歳ほど年上とみられる)と長男(同じく3歳ほど年上とみられる)と一緒に住んでいました」
また、当時、叔父叔母夫婦の家には岩崎隆一の祖母も同居しており、特にこの祖母と叔父の2人が厳しい人物で、岩崎隆一を叱りつけていたと、岩崎隆一の小学校時代の担任教師が証言しています。
「おばあちゃんがいて、すごく厳しいようでした。それと伯父の2人が厳しかった。いたずらが多く、苦情が来た時など、そんなに怒らなくてもとも言えず、間に入った伯母が困っていたようでしたね」
なお、この教師によれば、叔母は優しい人物で、(実子2人と岩崎隆一を)差別しているようには見えなかったとの事。
岩崎隆一の祖母は昔気質の人物だったようで、血縁を重視し、外から入ってきた嫁に厳しくあたる様子が見られ、そもそも岩崎隆一の両親が離婚したのは、この祖母と実母の折り合いが悪かったためだとの情報も出ています。
隆一のおばあちゃんが一家について絶大な力を持つ厳しい人で、隆一のお母さんと折り合いが悪く、やがて両親は離婚することになった。
この祖母は、岩崎隆一にも露骨に厳しくあたり、いとこ姉弟が何かミスをしても、岩崎隆一のせいにして激しく叱りつけるような場面もあったという事です。
長男のミスなのに、祖母が大勢の前で岩崎容疑者を叱りつける場面も何度もあった
引用:【川崎殺傷事件】岩崎隆一は祖母から“劣等洗脳”されていた? 「ダメな子であるように…」差別行為と岩崎家の闇とは!?
岩崎隆一の生い立ち② いとこ兄弟(叔父叔母の実子)と差別されて育つ
叔父叔母の家で、岩崎隆一は露骨な差別を受けて育てられたとも報じられています。例えば、床屋に叔父に連れられた岩崎隆一といとこが一緒に来た時、いとこは坊っちゃん刈りにしてもらっていたのに、岩崎隆一だけはいつも「丸刈りでいい」と注文されていたと、理髪店店主が証言しています。
岩崎容疑者が伯父といとこと一緒に理髪店に来た際には、伯父が「この子は丸刈りで」と言って、同容疑者はバリカンで刈られていたのに対し、いとこは普通にカットされていたという。
さらに、このいとこ2人はその地域の名門私立校だったカリタス小学校に通わされていたのに対して、岩崎隆一だけは地元の公立小学校に通っていたようです。
この過去が、「川崎市登戸通り魔事件」で岩崎隆一が、カリタス小学校の児童やその保護者を襲撃した動機になったのではないか?と見る向きもあるようです。
他にも、岩崎隆一は野球をやりたかったが、グローブを買ってもらえなかった。衣服はいつも丈があっていないもので、継ぎ接ぎだらけだったといった情報も報じられています。経済面でも岩崎隆一はいとこ2人と大きな差別を受けていた様子が見られます。
岩崎隆一の生い立ち③ 小・中学校時代の様子
岩崎隆一は地元の公立小学校、中学校に通いましたが、この当時についても色々な情報が出ています。
小学校時代の岩崎隆一は、勉強は不得意ながら足が速くリレーの選手に選ばれたりもしたようでうですが、他の生徒と問題を度々起こしていたようです。
当時岩崎隆一の同級生だった男性の証言によれば、岩崎隆一は女子児童に唾を吐きかけたり、噛み付いたりして嫌がる様子を見て楽しむようなところがあり、その男性も岩崎隆一から嫌がらせを受けたのをきっかけに喧嘩になった事があるという事でした。
岩崎容疑者は勉強はあまり得意でなかったが、足が速く、小6の時はリレーの選手に選ばれたこともあった。しかし、女子児童に唾を掛けたり、かみついたりして、嫌がる様子を楽しむような面があった。小学校の卒業文集では、「けんかチャンピオン」として名前が挙がっていた。小6の時、マット運動の際に岩崎容疑者が脚を出して邪魔をしてきたので、男性が怒って殴ると、「慰謝料をよこせ」と激高
岩崎隆一の異様な行動は他にも数多くあったようで、小学校の卒業文集では、自分が悪さをして先生から怒られたり、同級生に嫌がらせをしたりした事などを自慢げに綴っています。
なお、この文集の「あなたの将来」というコーナーで、岩崎隆一は「生まれるとしたら」の項目に「大金持ち」と書き、将来なりたい職業の項目に「動物園の飼育員」と書いています。
さらに、他の小学校時代の元同級生からは以下の証言も出ています。
「低学年の時に一度だけクラスが同じでしたが、あまり良い身なりをしていなかったので、家庭環境がよくないのかなと思っていた。授業中にツバを吐いたり、落ち着きのない子供だった印象があります」
この他にも、同級生に鉛筆を刺してけがを負わせた。キレやすく頻繁ん喧嘩を起こしていた。勝手に近所の家に入り、金魚鉢を覗く様な変わった子供だった。といった証言が出ています。
こうした一連の行動から岩崎隆一は周囲の生徒らから嫌われていたようですが、いじめられていたというよりは、自ら周囲に喧嘩を売るなど攻撃的に接して、周りから避けられていた様子が見られます。
小学校時代の担任教師も文集に「動物の世話が大好き。けんかも…好きなのかな?」とのコメントを寄せており岩崎隆一をどのように扱ったら良いかわからなかった様子も見られます。
中学校に進学しても岩崎隆一の問題行動はおさまらなかった様で、中学3年のころには、渡り廊下からぶら下がり「飛び降りて死ぬ」と騒ぎを起こしたとの情報も出ています。
中3の時には、「飛び降りて死ぬ」と言って校舎をつなぐ渡り廊下の塀にぶら下がり、先生に怒られていたという。
ただし、中学校時代の同級生には、岩崎隆一が印象に残っている人はほとんどいない様で、目立たない生徒だった様です。
「中学の時に一度同級生になった記憶はあるんですが、名前だけで全く覚えがないんですよ。同級生でグループLINEをやっているんですが、今回の件で『誰か詳しい人いる?』って聞いても、みんなよく知らないって言うんですよ。“誰々と親しかった”くらいの話が出てきてもおかしくないのに、それすらない」
また、正確な時期は不明なのですが、少年時代の岩崎隆一が犬の鳴き声がうるさいと言って近隣住人宅へと怒鳴り込み「ぶっ殺してやろうか」などと恫喝してきたとの証言も浮上しています。
岩崎隆一の生い立ち④ 職業訓練校を経て麻雀荘で働いていた
中学卒業後、岩崎隆一は高校にも進学されてもらえず、職業訓練校の機械化へと進み2年間通っています。職業訓練校時代の同級生は、当時の岩崎隆一について「人と意見が違うと絶対に譲らない」「協調性が全くない」「周囲とのトラブルが絶えなかった」と証言しています。
岩崎隆一は、1985年3月に職業訓練校卒業後、一時は機械系の企業に就職しますが、この頃に東京都町田市の「J(ジャンロードか?)」という雀荘に入り浸る様になり、やがて仕事を辞めてこの雀荘「J」の従業員(専門用語でメンバーという)になって働き始めています。
当時の岩崎隆一の仕事は、ドリンクの注文取りや灰皿交換などの接客と、面子が足りない時に卓に入って麻雀を打つ「本走」でした。
「J」のオーナーによれば、岩崎隆一は麻雀がプロ並みに強く、メンバーは本走の時に自費で打つため負けて赤字になる事も珍しくない中、岩崎はポケットに入れた7、8万円程度の金だけで賄えるほどの実力があったという事です。
彼は麻雀が物凄く強かった。責任感も人一倍あったので、夜中から朝10時までの夜番の主任を任せていました。メンバーは自分のカネで現金打ちをするから、給料が20万円でも負けが続けばアウト(店への借金)を作ってしまうものですが、彼はいつも7、8万のカネをポケットに入れて、それだけで賄っていた。
岩崎隆一は、この雀荘のメンバー時代はトラブルは起こしておらず、自宅アパートが麻雀仲間の溜まり場になるなど、それなりに楽しい生活を送っていた様です。
しかしその後、雀荘「J」は経営をやめて店は取り壊しになってしまい、楽しい生活は長くは続かなかった様です。
その後の岩崎隆一の足取りはしばらく不明になるのですが、ある日「J」のオーナーが駅前でばったり会ったところ、岩崎は「うまくやっています」と話していたそうです。
岩崎隆一の生い立ち⑤ その後引きこもりに
いつ頃からかは不明ですが、岩崎隆一はその後、叔父叔母夫婦の家に引きこもる様になった様です。
2017年11月頃には、当時80代になっていた叔父叔母夫婦が、訪問介護を受けるにあたって、介護職員が自宅に入った場合、岩崎隆一がどの様な反応をするのかわからないと川崎市役所に相談に訪れています。
また、それ以外にも岩崎隆一の親族が、引きこもりを続ける岩崎についての相談をしに10数回以上役所を訪れていた事なども報じられています。
2019年1月頃、役所側は叔父叔母夫婦に、手紙を書いて岩崎隆一の部屋の前に置いてみてはどうか?と提案。この提案を受け入れた叔父叔母夫婦が岩崎隆一に自立を促す手紙を宛てたところ、岩崎は手紙に書かれた「引きこもり」という言葉に反応「食事も洗濯も自分でやっているのに引きもりとはなんだ」と激怒し、手紙もビリビリに破られてしまったという事です。
そして、この手紙事件から1ヶ月後の2019年2月、岩崎隆一は町田の大型量販店で犯行に使われた包丁2本を購入しています。
この経緯から、叔父叔母が出した手紙が「川崎市登戸通り魔事件」の直接的なきっかけになったのではないか?と見る向きもある様です。
また、事件後には岩崎隆一の自宅に警察の家宅捜索が入っています。その結果、岩崎隆一の自宅にはパソコンやスマホは見つからず、インターネットに接続する環境になったという事が判明します。
この事から、岩崎隆一がただ物理的に自宅に引きこもっていただけではなく、外部との接触自体がほぼ何も無く孤立を深めていったのではないかと見る専門家の意見も出ています。
居室にテレビやテレビゲーム機、携帯ゲーム機はあったものの、パソコンやスマホはなく、充電器やコード類も見当たらなかった。スマホや携帯電話はもともと持っていなかったとみられる。飲食店のポイントカードやレンタルビデオ店の会員証も見つかっていない。昭和のまま時間が止まったかのような環境で過ごしていた可能性もある。
また、事件の約1年ほど前には、岩崎隆一が近所の住人宅に「枝が公道にはみ出していて目に当たった」などと言って怒鳴り込み、30分以上にわたって口論になったとの情報も出ています。
こうした事もあり、近隣住人は岩崎隆一との接触を避けるようにしていたようです。
岩崎隆一の最終学歴は中卒
生い立ちを見てくる中でも触れましたが、岩崎隆一は中学卒業後は高校に進学せず職業訓練校へと進んでいます。したがって岩崎隆一の最終学歴は「中卒」という事になります。
岩崎隆一の通っていた小学校や中学校などの学歴は特定されていませんが、自宅(叔父叔母の家)の住所が「川崎市麻生区多摩美」である事から、出身小学校は「川崎市立西生田小学校」、出身中学は「川崎市立西生田中学校」ではないかと見られています。
岩崎隆一の起こした「川崎市登戸通り魔事件」後の現在
岩崎隆一は、「川崎市登戸通り魔事件」を起こした後、自殺でこの世を去っています。
岩崎隆一の親族らの事件後の現在については、叔父叔母夫婦はマスコミの取材攻勢から逃れる様に車で走り去ったのを最後に、川崎市麻生区多摩美の自宅からは姿を消している様です。
現在も叔父叔母夫婦は自宅には戻っていない様子ですが、近隣住人によれば、現在は介護施設に入所しているようです。
また、岩崎隆一のいとこ(長女)の夫が取材に応じており、岩崎隆一の弔いについて尋ねられると、「それはないです」と弔いは行っていない事などを明かしています。
この答えから、どうやら親族は、岩崎隆一の遺体を引き取る事を拒否したのではないか?と推察されますが、神奈川県警はその事についてはノーコメントとしています。
年の瀬、岩崎の弔いはしたのかと記者が尋ねると、こう語気を強めた。
「それはないです。できないでしょう。亡くなった人のことを考えれば」
岩崎の遺体は誰が引き取ったのか。神奈川県警に尋ねたが「警察が答えるものではありません」(広報県民課)と言うのみだった。
また、岩崎隆一の本当の両親の現在については情報がほとんどなく不明ですが、朝日新聞の記事によれば、岩崎隆一は2014年頃に約70万円を遺産相続したという事なので、この頃に両親のどちらかが亡くなっていると推測されます。
2014年ごろ、約70万円を遺産相続。
まとめ
今回は、私立の名門小学校カリタス小学校の女子児童と、別の児童の保護者男性が殺害された「川崎市登戸通り魔事件」の犯人・岩崎隆一についてまとめてみました。
岩崎隆一は、2019年5月28日、突然、川崎市の登戸駅前のカリタス小学校スクーバス乗り場を包丁2本を手に襲撃し、2人を死亡させ、18名に怪我を負わせる凶行に及びました。
事件後、岩崎隆一の生い立ちにも注目が集まり、岩崎が幼少期に親に捨てられ叔父叔母に育てられた事や、叔父叔母夫婦の実子のいとこ達と露骨な差別を受けて育てられた事などが明らかにされ世間に衝撃を与えました。
また、事件を起こす前から岩崎隆一が引きこもり状態にあった事なども明らかになり、社会から孤立して追い詰められた結果、凶行に及んだのではないかとの見方も示されています。
「引きこもり」が犯罪者予備軍だという事では決してありませんが、この「川崎市登戸通り魔事件」については、犯人が引きこもり状態にあった事が事件と無関係とは言えないでしょう。
2度とこのような凄惨な事件を起こさぬためにも、岩崎隆一のように両親に理不尽に捨てられた子供や、引きこもり状態にある中年層を救済できるような社会システムの整備が望まれます。