お笑いタレントの間寛平さんの現在に注目が集まっています。
今回は間寛平さんの若い頃の経歴や活躍を始め、国際大会での活躍やアースマラソンへの挑戦などで話題の趣味のマラソンについて、また、嫁や息子、前立腺がんのその後の経過から現在の様子などについてをまとめました。
この記事の目次
間寛平のプロフィール
間寛平(はざまかんぺい)のプロフィール
本名 :間重美(はざましげみ)
生年月日:1949年7月20日
出身地 :高知県宿毛市橋上町出井
身長 :164cm
血液型 :AB型
間寛平さんは、吉本興業に所属するベテランお笑いタレントです。1970年代から1980年代にかけては、大阪の吉本新喜劇を中心に活躍し、地元大阪で人気を集めました。
1990年代に入ると、吉本新喜劇を退団して東京進出し、以降はテレビタレントとしても大活躍し、当時の大人気クイズ番組「マジカル頭脳パワー!!」のレギュラーとして、1991年から1999年まで、約8年半にわたって出演するなど、全国区でもお茶の間の人気者になります。
70歳を迎えている2020年4月現在も、間寛平さんは主に関西ローカルを中心にバラエティ番組に出演し、現役での活躍を続けられています。
間寛平の若い頃の経歴や活躍
間寛平さんは、高知県宿毛市の生まれでしたが、12歳の頃に家族の仕事の都合で、大阪府住之江しへと引っ越しました。
兵庫県の柏原高校を卒業した後の1968年に、当時国民的なスターだった石原裕次郎さんに憧れて、上京し歌手を目指しますが、これは挫折し、ほどなくして大阪へと戻り、様々な職を転々としながら社会人生活を送っています。
そして、1969年、喜劇俳優の岡八郎さんと知り合ったのをきっかけに、若い頃の間寛平さんは芸人の道へと進みます。当時人気だったお笑いトリオ「すっとんトリオ」に弟子入りし、新世界ジャンジャン横丁にあったストリップ劇場「温泉劇場」の幕間でコントを披露して芸人修行を積みました。
1970年、20歳の頃に吉本新喜劇の研究生として吉本興業に所属し、その明るいキャラクターですぐに人気を表し、4年後の1974年には24歳の若さにして吉本新喜劇の座長を務めるまでになります。
吉本新喜劇の人気芸人として十分に活躍した後の1989年、間寛平さんは東京進出し、萩本欽一さんに弟子入り、東京では無名だった間寛平さんでしたが、萩本欽一さんの支援もあり、徐々に知名度を上昇させ、バラエティ番組出演などで人気を集めるようになります。
人柄がよく信頼を集めるも、人の良さと無知が仇となって借金生活
そんな間寛平さんですが、若い頃から非常に人柄がよく、芸人仲間や後輩からの信頼を集めています。しかし、あまりにも人が良すぎるため、頼まれると断ることができず、次々と人の借金の保証人になってしまい借金地獄に陥り、「歩くハンコ屋」というあだ名までつけられてしまいます。
頼まれると断りきれない性格の寛平。そば屋の店員が時計を買う際の保証人を引き受けて逃げられたり、先輩の芸人に900万円の手形の裏書きを頼まれ、お金をもらわないまま何も考えずに引き受けてしまったり。間にはいつの間にか「歩くハンコ屋」というあだ名がついていた。
多額の借金を背負う事になった間寛平さんでしたが、当時出演していた番組「今夜はねむれナイト」の人形劇コーナーで声を演じた「アメママン」というキャラクターが大人気となります。
そこで、間寛平さんは「アメマバッチ」を作って販売すれば儲かって借金を返せるのではないか?と考え、消費者金融からさらに6000万円もの借金をしてバッチを製作してしまいます。
しかし、その後すぐに番組は終了。間寛平さんの元には大量のバッジと、6000万円もの借金が残ってしまったのです。
悲惨な状況に陥ってしまった間寛平さんでしたが、その人柄の良さで周囲から愛されていたため、人々の助けを借りながら仕事を順調にこなし、この借金を完済されています。
間寛平の趣味はマラソン!体力はアスリート並み?
出典:https://www.sponichi.co.jp/
そんな間寛平さんの趣味は、1986年、36歳の頃に始めたマラソンです。
間寛平さんがマラソンを始めたきっかけは、マラソン日本代表選手の瀬古利彦選手とデッドヒートしながら走っている夢を見たのを、吉本新喜劇の芸人仲間だった池乃めだかさんに話したところ、「いっぺん走ってみたらどうや」と勧められた事だったそうです。
元々、長距離ランナーの才能があったのか、間寛平さんは、モロッコの「サハラマラソン」や「ホノルルマラソン」などの国際大会で好記録を出し、24時間テレビの企画で200kmマラソンに挑戦しての完走や、ギリシャで毎年開催される246kmを走るマラソン大会「スパルタスロン」にも出場して完走するなど、ランナーとして注目を集めるようになります。
2008年から2011年にかけて挑戦した「アースマラソン」では2年半かかけて、ヨットとマラソンのみで世界中を周り、4万1000kmもの距離を走破するという偉業も成し遂げ、世界的にも注目されました。
間寛平は前立腺がんを患いながらもアースマラソンを完走
間寛平さんは、上述の「アースマラソン」への挑戦中だった2010年1月、道中のトルコで「前立腺がん」が発覚します。
間寛平さんの「前立腺がん」は、比較的悪性のもので「ステージ4」である事ものちに判明しています。
このがん発覚により、一時はアースマラソンの続行も危ぶまれますが、トルコやアメリカ、日本の専門医らが話し合い、注射と経口投薬によるホルモン両方でがんを治療しながら走る事が可能との判断が下され、アースマラソンは継続できる事になります。
トルコの泌尿器科の専門医、ニューヨーク在住の日本人専門医、日本在住の日本人専門医は検査データを共有し、他部分への転移を検査、そして今後の治療方針を検討した結果、ホルモン療法を提案。注射と経口薬で男性ホルモンの活動を抑え、がん細胞の活動を抑えることにした。これは、治療しながら走ることに問題がないこと、運動をすることにより癌が進行するものではない、という見解によるもの。
2010年4月には、放射線治療を受けるために、一時的にマラソンを中断し、アメリカカリフォルニアにわたっていますが、2010年6月には放射線治療を終え、マラソンを再開されています。
そして2011年1月21日、間寛平さんは見事このアースマラソンを完走しています。
間寛平の前立腺がんのその後の容態は?
それでは、間寛平さんの「前立腺がん」のその後の容態はどうなっているのでしょうか?
アースマラソン完走後もがん治療を続けていた間寛平さんは、2013年4月11日に、都内で開催された、自身のムック本「前を向いて走る。あなたの支えがあったから。」の発売イベントに出演し、自身のがんについてコメントされています。
「きのう病院に行ったけれど、問題なかった」と、再発していないことを報告した。
また、2020年4月現在まで間寛平さんのがんが再発したというニュースは出ていないため、経過は良好だと見られます。
間寛平の結婚した嫁とは
間寛平さんは、1978年に吉本新喜劇の劇団員だった光代さんという女性と結婚されています。
間寛平さんと光代さんの出会いは、テレビ番組「あっちこっち丁稚」での共演で、当時まだ17歳だった光代さんを、夜道は危ないからと新喜劇の稽古上がりに間寛平さんが車で送っていた事をきっかけに仲良くなったのだそうです。
最初、間寛平さんは光代さんを妹のように可愛がっていたそうなのですが、会社の吉本興業から、「もう結婚せえ」と勧められた事から結婚されたのだとか。
出典:http://www.shikoku-np.co.jp/
光代さんは間寛平さんよりも、10歳近く年下でしたが、間寛平さんが何か失敗した時には、いつも代わりに解決してくれるようなしっかりした女性なのだそうです。
間寛平さんが「アメマバッチ」で失敗して6000万円の借金を作った際にも、光代さんは、当時0歳だった子供を連れて消費者金融へと利子を免除してくれるように頼み込み、子供をこっそりとつねって泣かせる事で消費者金融業者の同情を誘い、利子を免除してもらったのだそうです。
また、間寛平さんがマラソンの世界大会に挑戦し、それがテレビ中継された際には、嫁の光代さんが献身的にサポートにあたり「内助の功」として取り上げられました。
間寛平さんは、夫婦円満の秘訣について間寛平さんは以下のようにコメントされています。
トレーニングは夫婦円満の秘訣でもあるんですわ。定年して家にずっとおったら楽やとは思うけど、嫁はんと喧嘩ばっかりやろうね。加齢臭が臭いとか、俺だっていわれてるんやから。それやったら外に出て走ったり、公園の鯉に餌あげたりしてたほうが落ち着くし、気持ちええ。知り合いも増えるし、いいことづくめやで(笑い)」
このコメントを読むと、夫婦仲が悪いようにも聞こえますが、実際には間寛平さんと光代さんの夫婦仲はとても良いそうで、間寛平さんが50歳を過ぎた頃にも、2人でコタツに入っていて、お互いの足を蹴り合ってふざけあっていたら、光代さんが足をコタツにぶつけて骨折してしまったというエピソードが明かされています。
このエピソードを聞いた明石家さんまさんは、「ええ歳して何してんの?」とツッコミを入れたそうです。
また、間寛平さんはわらび餅が大好物なのだそうですが、寛平さんが家にいると、嫁の光代さんは必ず午後8時半にわらび餅とコーヒーを出してくれるのだとか。
これは、光代さんが午後9時からの2時間テレビを1人でゆっくり見たいため、これを食べたら寝ろという夫婦の合図らしいのですが、こうした可愛らしいルールがあるところにも夫婦仲の良さが窺えます。
間寛平の息子・間慎太郎はシンガーソングライターとして活躍中
間寛平さんと光代さんの間には息子と娘の2人の子供がいます。そのうち第二子の息子・間慎太郎さんは現在、シンガーソングライターとして活躍されています。
間寛平さんの息子・間慎太郎さんは、1981年3月27日生まれで、4歳だった1985年には吉本新喜劇の「吉本コメディ」で初舞台を踏み、芸能界デビューしています。また、父の間寛平さんら家族と共にテレビのバラエティ番組やテレビCMにも出演されています。
中学、高校、大学時代は学業優先のため芸能活動は行なっていませんでしたが、大学卒業後の2004年にシンガーソングライターとしてデビューを果たし、2006年に1stシングル「淋しん坊の絵描きさん」、2008年には2ndシングル「マスターピース」をリリース。
以降、ミニアルバム4枚とアルバム4枚をリリースするなど精力的に活動されています。
最近は無造作なおかっぱヘアにしている事から、若い頃の父・間寛平さんにそっくりという声も多く上がっています。
間寛平の現在① 若手芸人育成を目的に演劇集団「劇団間座」立ち上げ
間寛平さんは、2020年4月現在、70歳を迎えられていますが、元気に芸能活動を続けられています。
2016年7月20日には、若手の芸人育成を目的として自らが座長を務める演劇集団「劇団間座」を立ち上げました。
きっかけになったのは、2016年の正月に間寛平さんがテレビ出演した際に、共演した若手芸人から「仕事がない」と苦しい状況を訴えられた事で、「若手のために一肌脱ごう」との想いから立ち上げを決断したのだそうです。
「劇団間座」は、2016年12月24日、25日に旗揚げ公演を行い、虫をテーマにしたミュージカル作品「恋の虫」を公演しています。
間寛平の現在② 新型コロナウイルスで死去した志村けんさんに言及
間寛平さんは、2020年3月29日に新型コロナウイルスが原因の肺炎で亡くなった志村けんさんについてもコメントを発表されています。
「志村けんさんが亡くなったのが本当にショックで悔しいです」と投稿。「一番悔しい思いをしてるのは志村けんさん本人だと思います、僕もですが皆も一人一人が気を付けましよう」
まとめ
今回は、吉本新喜劇やお笑いタレントとして人気となり、マラソンランナーとしても活躍を続ける間寛平さんについてまとめてみました。
間寛平さんは、吉本新喜劇で活躍された後に、東京へ進出しテレビタレントとして活躍。その後は趣味のマラソンで、世界一周のアースマラソンへの挑戦や、ホノルルマラソンなどの国際大会に出場され話題を集めています。
また、2010年1月には「前立腺がん」が発覚し、治療を受けましたが、その後の経過は良好な様子で、2020年4月の現在も元気に活躍されています。
今後の間寛平さんの活躍も応援していきましょう。