江戸時代に制定された差別用語である「えたひにん」ですが、現代の教科書から消えたと話題です。
今回は「えたひにん」の意味、地域・苗字一覧、教科書から消えた噂と真相、炎上した芸能人(アイドル)とその後を紹介します。
この記事の目次
- 「えたひにん(穢多・非人)」は江戸時代に作られた差別用語
- 「えたひにん」の意味
- 「えたひにん」が差別された理由と
- 「えたひにん」の多い地域・苗字一覧① 「皮・革」や「川・河・沖・岸」
- 「えたひにん」の多い地域・苗字一覧② 方角を示す「東西南北」
- 「えたひにん」は苗字だけで判断できない理由① 江戸時代は苗字はなかった
- 「えたひにん」は苗字だけで判断できない理由② 武家の場合もある
- 「えたひにん」は苗字だけで判断できない理由③ 苗字の漢字を変えている場合もある
- 「えたひにん」のネット上の苗字一覧は信憑性が高い?
- 「えたひにん」が住む地域が現在、同和地区と呼ばれている理由とは?
- 「えたひにん」は必ずしも貧困では無かった
- 「えたひにん」は教科書から消えた?
- 「えたひにん」発言で炎上した芸能人はアイドルの春名真依
- まとめ
「えたひにん(穢多・非人)」は江戸時代に作られた差別用語
江戸時代の初期に、徳川幕府は自分たちや大名の権力を安定的に維持するために、「士農工商」という身分制度を設けました。
さらに、重税やその他手数料などの納入に対する「農工商」の不満を逸らすために、「えた・ひにん」という最下級の身分を制定し、それらを差別させることで分断支配を実現しました。
「えた・ひにん」には、田畑を持って作物を作り収入を得ることを認めませんでした。
また、普通なら住むには適さない湿地帯や河原、崖や崖下など劣悪な土地に住まわせ、死牛馬の処理や、食肉処理、葬儀など人が忌み嫌う「不浄・穢れ」の多い仕事しかさせなかったのです。
このように、徹底的に差別されて悲惨な生活を余儀なくされていた「えた・ひにん」 ですが、江戸幕府が倒れ明治時代に突入してからも、差別は相変わらず続きました。
それは差別撤廃の教育が設定されず、江戸時代からの生活習慣が改善されなかったためであり、「えた・ひにん」の被差別部落の人々は文明開化以降も正業に就くことは叶いませんでした。
この「えた・ひにん」の人々が暮らしていた被差別部落は現在、「同和地区」など名前を変えて残り続けています。
「えたひにん」の意味
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「穢多(えた)」の語源
「穢多(えた)」という言葉が登場した最も古い資料は、13世紀頃の鎌倉時代であり、1296年に登場したと言われる絵巻物「天狗草紙」が最初だと言われています。
また、鎌倉時代の語学辞典「名語記」にも「河原の辺に住して牛馬を食する人をゑた(えた)となつく、如何」、「ゑたは餌取也。ゑとりをゑたといへる也」と記されています。
さらに、同時期の書物「塵袋」に「根本は餌取と云ふへき歟。餌と云ふは、ししむら鷹の餌を云ふなるへし」とあり、鷹狩りに使う鷹のエサの小動物を狩猟する職業の人々とされています。
当時は、生き物の殺生をすることは悪行であるという仏教の教えが広く浸透しており、こうした生き物を扱う職業は穢れが多い仕事とされ、「穢多」につながったと言われています。
「非人(ひにん)」の語源
「穢多(えた)」が仏教の教えの強い影響を受けていたように、「非人(ひにん)」も由来は仏教の言葉だったとされています。
「ひにん」の元々は「人間以外の存在」という意味であり、釈迦如来の眷属である龍神や天人など、仏教を守護する精霊的種族である八部衆を指す言葉でした。
つまり、差別用語では決してなかった「ひにん」ですが、悪い意味で初めて使われたのは平安時代と言われています。
橘逸勢という貴族が反逆罪に問われた際、元々の姓と官位を剥奪され、代わりに天皇から「非人」という姓を与えられたことが最も古い語源とされています。
その他にも、平安時代以降に芸能など正業以外を生業とする人々を指して「非人」と呼ぶことがあり、これが被差別的な言葉になったとする説もあります。
江戸時代以前から「非人」という言葉は使われていたことになりますが、「えた・ひにん」として差別の意味で使われ始めたのは、前述の「士農工商」の身分制度が制定されてからです。
「非人」は非人小屋に住むことを強いられ、非人頭が管理しており、神仏のご利益を得ることを名目にして寄付を集める「勧進」という生業をさせられていました。
「非人」が「穢多」と違う点は、幕府や藩によって正式に管理されていた身分だということです。
「えたひにん」が差別された理由と
「えた・ひにん」が他の身分の人々より差別された明確な理由は、仏教などの宗教が背景にあったことが強く影響していると説明されています。
一つには、外来の仏教によって、動物を処理することを「残酷」とみなし、仏の戒(いましめ)を破る「悪行」(あくぎょう)とする観念が広がったことが背景にあります。また、日本には、伝統的に「穢(けが)れ」という概念が神道の中にあります。これは、物理的な「汚(よご)れ」を社会領域にまで拡げた概念です。古くから、死や病、犯罪など、人間社会の秩序に変化をもたらすものを「穢れ」と呼び、忌避してきました。
こうした宗教的な背景のなか、古代の律令制が崩れ、中世の荘園制度が始まると、貴族や寺社、武士などがそれぞれの荘園を独立して支配することになります。すると荘園同士のあいだに必ず隙間が生じます。河原や荒れ地などに住み、どこにも属さない人たちが生まれてきたのです。それらの土地は無税地でもありましたので、荘園支配の体制から外れた「異質な人たち」と見なされました。また、米作をせず動物を殺して食べることから、宗教的に「残酷」や「穢れ」のレッテルが貼り付けられるようになりました。
「えた・ひにん」について分かりやすく描いている漫画として、「カムイ伝」が有名です。
非人の子であるカムイは、厳しい封建制身分制度に反発して強くなることを決意し、忍となります。
もちろん漫画ですのでフィクションですが、「えた・ひにん」の身分の者がそこから脱出するためにはそれだけ過酷な社会があったということがうかがえます。
「えたひにん」の多い地域・苗字一覧① 「皮・革」や「川・河・沖・岸」
明治以降に戸籍制度が整えられていく過程で、「えた・ひにん」だと一発で見分けがつく苗字にするために、特定の漢字を使った苗字があてがわれたと言われています。
「えた・ひにん」の人々は、死牛馬処理など穢れの多い仕事内容から由来して、皮や革がつく苗字が多いと言われています。
また、「川」や「河」も多く、仕事を川で行っていたことが始まりとする説や、「皮」や「革」と同音であるという理由から用いられたとも推測されています。
「えたひにん」の多い地域・苗字一覧② 方角を示す「東西南北」
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「えた・ひにん」 の苗字に多く使われている漢字として、方角を示す「東西南北」もあります。
これは、「えた・ひにん」の住む川沿いの地域のどの方向に住んでいるかという意味から苗字に取り入れられたと言われています。
そのため、前述の漢字と合わせて方角の漢字が入っている場合は、「えた・ひにん」の出身である可能性が高くなるという説があります。
「えたひにん」は苗字だけで判断できない理由① 江戸時代は苗字はなかった
江戸時代では、武士や一部の豪農以外には正式な苗字がないのが当たり前で、農民以下の人々は下の名前の通称だけでも特に不便がありませんでした。
明治時代以降に全ての国民が苗字を名乗ることができるようになって、戸籍を作成する際、適当な漢字をあてがうこともよくあったようです。
そのため、厳密には苗字の漢字から「えた・ひにん」の一族出身であるかどうかを追跡することは不可能だと言われています。
「えたひにん」は苗字だけで判断できない理由② 武家の場合もある
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「えた・ひにん」には「革」の漢字が入る苗字が多いとされていますが、実は士族など名門の家系にも「革」は使われていました。
例えば、現在の京都と大阪、奈良を結ぶ山城南部を統治していた「三十六人衆」の 一角を務める革嶋氏は、第56代清和天皇を祖とする清和源氏の家系。
こうしたことから、「えた・ひにん」に多く使われていた苗字の漢字が、そのまま被差別部落限定した漢字とは言えないことがわかります。
よって、厳密には漢字だけで判断できるものではありません。
「えたひにん」は苗字だけで判断できない理由③ 苗字の漢字を変えている場合もある
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現在では、祖父母と孫の世代で苗字が違うということはよくあります。
例えば祖父母が「皮口」でも、孫の世代は「川口」と漢字表記が変更されているパターンがあるのです。
「えた・ひにん」という出自があまりにもわかりやすい苗字だと、結婚や就職に影響があるため、こうした差別や不利益から逃れようと、苗字の漢字を変更することが多くあるようです。
「えたひにん」のネット上の苗字一覧は信憑性が高い?
「えた・ひにん」の出身だとする苗字一覧がネット上には多く出回っていますが、信憑性は高いのでしょうか?
前述した、職業や水辺の地域・方角を表す漢字以外にも、ネット上の苗字一覧に記載されている「えた・ひにん」を指すと言われる漢字はいくつかあります。
特に、山林に住んでいたという理由で田・杉・山などの漢字も「えた・ひにん」出身とする説や、「鈴木」や「佐藤」なども被差別部落出身者に含まれる場合があるとの意見もあります。
ただ、「鈴木」や「佐藤」などは日本で最も多い苗字ランキングで1位、2位の苗字であり、政治家や財界人もたくさんいますので、これらの説の信憑性は低いでしょう。
また、差別意識の強い社長の企業では、就職希望者の出自を調査させて、「えた・ひにん」の一族の出だと判明すると雇わないこともあるようです。
そうした差別を受けてきた同和地区の人は、苗字を変更するなどバレないように工夫をしてきたと言われています。
そのため、現代では単に苗字に「川」がつくから、と苗字の漢字だけで判別するのは難しく、ネット上の苗字一覧も信憑性が高いとは言えないのです。
「えたひにん」が住む地域が現在、同和地区と呼ばれている理由とは?
現在では、被差別部落のことを同和地区と呼ぶことが多く見られます。
これは同地区の人々がかつて解放運動を行い、行政の改革を受け入れるために同和地区と制定されたとされています。
このように行政から指定を受けた同和地区は地名の変更などで、被差別部落としての差別を受けにくい社会を作ってきました。
なお、同和地区出身者の苗字一覧などもネット上に大量に出回っていますが、どれも確固たる信憑性を持って書かれているとは判断できないでしょう。
部落解放同盟の役員の苗字は被差別地区で多い苗字?
現在も、部落解放同盟は被差別部落地区の差別撤廃に向けて活動を続けています。
ただ、この組織の委員長の中には、あえて周知のために自らの苗字を「被差別部落の苗字として有名なものだ」と主張した人もいました。
こうした人の苗字には、「松本」や「上田」など日本にはよくある苗字の場合も多く、やはり苗字からだけでは、「えた・ひにん」出身者かどうかをたどるのは難しいようです。
「えたひにん」は必ずしも貧困では無かった
被差別部落といっても、実はすべて貧困に喘いでいる地域ばかりだったわけではないようです。
ここまで、「えた・ひにん」の人々は正業に就けず、常に人々が忌み嫌う仕事をさせられて住む場所も限られてきたとお伝えしてきましたが、中には例外もありました。
事実、奈良県内の被差別部落においては、そのほとんどの村で江戸時代から貧困に喘いでいたという実態は確認されていませんでした。
それどころか、一般の農村よりもとても安定した経済力を持っていたとも言われているんです。
また、大和郡山藩領の場合、被差別部落はすべて農村部にありましたが、享保9(1724)年の「大和郡山藩郷鑑」によって、被差別部落と一般農村との土地所持の実態を比較した時、一戸あたりの田畑保有面積にほとんど差は見られず、田畑を持たない農民(水呑百姓)の比率はかえって被差別部落の方が少ないほどでした。そして、同領式下郡U村の史料によれば、U村では農業経営・年貢負担に関して一般農村との間に違いがあったことを認めることはできないのです。
以上のように、江戸時代から明治時代中期ごろまでの被差別部落の多くは、一般農村と同じように、貧富の差を内在させてはいましたが、農業や後に説明する、被差別部落固有の権益である「草場権」から派生する商工業に支えられて、比較的安定した生活を維持していたのです。
こうした奈良県の被差別部落地域は例外中の例外だと思いますが、地域によってはその権利が守られていたという事実もあるようです。
「えたひにん」は教科書から消えた?
長谷川豊の発言が物議を醸した
2019年、元フジテレビアナウンサーの長谷川豊さんが、被差別部落への差別を助長しかねない発言をしたとして、同年夏の行われた参院選への出馬を取り止めました。
また、長谷川豊さんは自身のブログで、被差別部落の歴史に関する記述が教科書からなくなっていることを指摘しています。
「僕らの世代は、小学校などで(僕は道徳の授業でした)江戸時代に暗い差別の歴史があった、と習いました。4段階の身分制度(士農工商)。そして、その下に被差別階級があった、と」
「実は日本ではその歴史自体が、なかったのではないか、と。その認識は間違っていたのではないか、と」
「最新の歴史の教科書では、実はそんな歴史認識自体が間違っていた、というのが最新の学説となっており、子供たちの教科書から、その差別の歴史の記述自体が無くなっているのです」
教科書で真実を教えていない、ということを糾弾する目的なのは分かりますが、長谷川豊さんは「えた・ひにん」の部落差別を掘り起こしてしまった形となりました。
現在教科書では「えたひにん」は「武士・百姓・町人」の下ではない
現在、社会人である世代の人なら「士農工商の下に、えた・ひにんという身分制度があった」というように歴史の授業で学習したことでしょう。
しかし、現在の中学校の教科書では、「武士・百姓・町人」という3つの身分でしか江戸時代の身分制度の解説がされておらず、さらに「えた・ひにん」は「下」ではないとしています。
中学校の歴史教科書でもっともシェアの高い『新編新しい社会 歴史』(東京書籍/平成27年検定)を見てみましょう。そこには、「百姓、町人とは別に、えた身分、ひにん身分の人々がいました」(『新編新しい社会 歴史』P115)と書かれています。
このように「別に」、あるいは他社の教科書では「ほかに」という言葉で、部落差別を表現するようになりました。「下」ではないのです。そして、この教科書では続けて、次のように書いています。
「これらの身分の人々は、他の身分の人々から厳しく差別され、村の運営や祭りにも参加できませんでした。幕府や藩は、住む場所や職業を制限し、服装などの規制を行いました」(同前P115)
このように、部落差別の歴史はしっかり記述されています。
つまり、現在の教科書から「えた・ひにん」に関する記述が消えたのではなく、かつての士農工商のさらに下層民という意味ではなく、別の枠組みとして定義されたことになります。
現在は同和地区と名を変え、教科書の表記を変えたとしても、えた・ひにんとして差別に苦しんでいた人々がいたという事実は、次世代にきちんと伝えていくことが必要だと思われます。
「えたひにん」発言で炎上した芸能人はアイドルの春名真依
2021年1月23日、大阪のアイドルグループ「たこやきレインボー」はYouTubeチャンネル「たこやきレインボーofficial」にて「たこ虹の家にいるTVリターンズ#26」を生配信しました。
その際に、メンバーの春名真依さんが「えたひにんみたいなやつ」と発言してしまい、ネット上で炎上する騒動に発展。
その後、運営は春名真依さんの活動自粛を公式サイトで発表しました。
日頃より、たこやきレインボーおよび
春名真依を応援くださいまして誠にありがとうございます。
2021年1月23日(土)にたこやきレインボー公式
Youtube「たこやきレインボーofficial」にて実施致しました
生配信「たこ虹の家にいるTVリターンズ#26」において、
弊社所属のたこやきレインボーのメンバーである春名真依による不適切な発言がございました。
弊社はこの度の事態を重く受け止め、本人およびご家族と協議の上、
春名真依の芸能活動を当面の間自粛することといたしました。
また、所属事務所として、今後二度とこのような事態が起こらないよう、
本人ならびにメンバー、スタッフへの教育を徹底し、
信頼を取り戻すべく全力でサポートしてまいります。
ご不快に思われた方へ謝罪申し上げますとともに、
ファンの皆様ならびに関係者の皆様に
ご迷惑をお掛けいたしますこと、深くお詫び申し上げます。
この度は誠に申し訳ございませんでした。
引用:まとめ部 – 「魑魅魍魎」を「えたひにん」と間違えて読んだのが原因か、たこやきレインボー春名真依さんが不適切発言で芸能活動自粛 #春名真依
視聴者の擁護する声をみると、春名真依さんは難しい漢字を「えた・ひにん」と読み間違いをしただけで、特に悪意があったわけではないようです。
前後関係は不明ですが、さすがに笑って流せるレベルの読み間違えではないでしょう。
https://twitter.com/osyamand/status/1356790166216577025 https://twitter.com/tekkou0/status/1356806720643690497
自粛期間中に、しっかり「えた・ひにん」の意味を勉強して、活動再開後はまた元気に頑張ってほしいものですね。
まとめ
江戸時代に制定され、現在まで被差別部落として差別が黙認され続けてきた「えた・ひにん」問題についてまとめてきました。
友人や隣人が「えた・ひにん」かどうかを意識して普段生活している人は少ないかもしれませんが、住んでいる地域や出身でいわれのない差別に苦しんでいる人はまだまだいると思われます。
就職活動で内定取り消しを受けたり、結婚が破談になったという話も珍しくなく、現代にも「えた・ひにん」問題は根深く残っていると言っても過言ではないのです。
「えた・ひにん」の意味をよく知らずに使い、炎上してしまったアイドルはちょっとした事故かもしれませんが、正しい歴史認識が差別をなくしていく第一歩ではないでしょうか。