「雪国」や「伊豆の踊子」の代表作で知られ、日本人初のノーベル文学賞を受賞した文豪・川端康成。
今回はそんな川端康成ってどんな人だったのか?作品の魅力と性格エピソード、結婚した嫁や子供・子孫、死因と自害した理由も紹介します。
この記事の目次
- 川端康成のプロフィール
- 川端康成はどんな人?肉親の死に取り囲まれた数奇な生い立ち
- 川端康成の性格を物語る数々のエピソード① 人を凝視する癖があった
- 川端康成の性格を物語る数々のエピソード② とても温かく面倒見の良い性格
- 川端康成の性格を物語る数々のエピソード③ 欲しいものは借金をしてでも手に入れる
- 川端康成が後世に残した作品の魅力とは?
- 川端康成の代表作① 「雪国」
- 川端康成の代表作② 「山の音」
- 川端康成の代表作③ 「伊豆の踊子」
- 川端康成が結婚できなかった恋人とは
- 川端康成が結婚した嫁との馴れ初め&結婚生活
- 川端康成の嫁は三島由紀夫にもひるまない芯の強い女性だった
- 川端康成の子供や子孫は?
- 川端康成はノーベル賞受賞からわずか4年後に突然の死去…
- 川端康成が自害した理由① 三島由紀夫の自害にショックを受けて…
- 川端康成が自害した理由② 小説「事故のてんまつ」通りだった…
- 川端康成が自害した理由③ ノーベル文学賞受賞のプレッシャーに負けた
- 川端康成が自害した理由④ 体調不良や老醜への恐怖により魔が差した
- 川端康成の遺族は頑なに事故説を主張している
- まとめ
川端康成のプロフィール
プロフィール
・名前: 川端 康成(かわばた やすなり)
・誕生: 1899年6月14日
・出生地: 大阪府大阪市北区
・出身地: 大阪府茨木市
・死没: 1972年4月16日(72歳没)
・墓地: 鎌倉霊園(鎌倉市十二所)
・身長: 不明(160cm未満とされている)
・職業: 小説家、文芸評論家
・最終学歴: 東京帝国大学国文学科卒業
・活動期間: 1919年 – 1972年
・ジャンル: 小説・文芸評論
・文学活動: 新感覚派・新興芸術派
「雪国」や「伊豆の踊子」など、近代日本文学史に残る数々の名作を遺した文豪・川端康成。
1968年には、「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現するその叙述の巧みさ」が評価され、日本人として初のノーベル文学賞を受賞しています。
外国人には理解しづらいと言われる日本文学が、ようやく世界に認められたとして、まさに日本中が歓喜の渦に包まれました。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=RnTwNVrluME&w=560&h=315]
その鋭い洞察と柔らかな文体で綴られた美しい文章は、時に切なく、時に官能的で、今なお多くの作家に多大な影響を与え続けていると言われています。
そんな文豪・川端康成の代表作と作品のみどろ、素顔はどんな人だったのか?その性格を物語る数々のエピソードとともに、結婚した嫁や子供、子孫などプライベートな部分に注目しました。
さらに、自害とされている死因と、川端康成がそのような死を選んだ理由についてもまとめてみました。
川端康成はどんな人?肉親の死に取り囲まれた数奇な生い立ち
出典:https://courrier.jp/
川端康成がどんな人だったのかを理解するに当たり、まずはその生い立ちについて振り返っておくことにしましょう。
1899年、旧家育ちの開業医だった父親と、資産家の令嬢だった母親という、大阪の裕福な家の長男として生まれた康成。
しかし、7ヶ月の早産だったため、身体も小さく病気がちだったそうです。
さらに、康成が2歳の時に父親が結核で死去、翌年には母親まで同病でこの世を去ります。
その後は祖父母に引き取られるも、7歳で祖母が死去、さらに11歳の時にはたった一人きりの“きょうだい”だった姉まで亡くなっているんですよね。
そして、15歳の時には唯一の肉親だった祖父も亡くなり、天涯孤独の身になってしまった川端康成は、一族の不遇な運命について後に次のように語っています。
肉親がばたばたと死んで行つて、十五六の頃から私一人ぽつちになつてゐる。さうした境遇は少年の私を、自分も若死にするだらうと言ふ予感で怯えさせた。自分の一家は燃え尽くして消えて行く燈火だと思はせた。所詮滅んで行く一族の最後の人が自分なんだと、寂しいあきらめを感じさせた。
今ではもうそんな消極的なことは考へない。しかし、自分の血統が古び朽ちて敗廃してゐる。つまり代々の文化的な生活が積み重り積み重りして来た頂上で弱い木の梢のやうに自分が立つてゐる事は感じてゐる。
出典:https://www.weblio.jp/
家族が自分の周りで次々と亡くなっていく…幼少期に直面したこの強烈な経験。
これにより、命の儚さを痛感するとともに、家族に対する愛や憧憬の念をいっそう強め、それが川端康成のその後の作品群にも多分に影響したと言われています。
一方、病弱だったゆえに小学生時代は学校を休みがちだった康成ですが、学校の成績は優秀で、中でも作文の上手さは群を抜いており、15歳の頃には既に作家を志していたと言います。
15歳で育ての親である祖父が他界してしまいましたが、その後は親戚の支援で大阪から上京、第一高等学校(現在の東京大学教養学部・千葉大学医学部・千葉大学薬学部の前身)に入学。
さらに、21歳の時には東京帝国大学(現在の東京大学)文学部英文科に進学し、かねてより志望していた作家を目指して本格的な活動を開始しました。
川端康成の性格を物語る数々のエピソード① 人を凝視する癖があった
普段から非常に口数が少なく、無口な性格だったという川端康成。その上、たとえ初対面の人でも相手が困惑するほど、ジロジロと見つめる癖があったそうです。
初対面の女性編集者を前にして、約30分に渡って何も話さず、ただただジロジロと凝視していたそうで、その女性編集者はたまらず泣き出してしまったといいます。
ですが、当の本人は不思議そうに「どうしたのですか?」と問うた…なんてエピソードもあったようです。
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ただ、川端康成は決して人間嫌いというわけではなく、口数が少ないのは単に人見知りなだけで、ジロジロと凝視してしまうのは、人をよく観察していただけのようなんですよね。
それだけに人に対する観察眼は相当なものだったようで、川端康成の嫁である秀子さんは、後年、川端康成のこの能力について次のように語っています。
初対面の女性などについて、この鋭い観察眼は長所よりも欠点を即座に感じてしまふのです。どんなに美しい人の前に出ても、あああの人にはこんな欠点があつた、などちやんと見抜いてしまふ。
然しそれは決して、殊更にアラを探さうといふ意地悪さからではなくて、かう、無意識にあの鋭い眼が働くのです。私なども、始終起居を共にしながら、あの鋭い眼光には往々射すくめられるのです。
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その鋭い観察眼は、嫁である秀子さんに対しても向けられていたようですね。
物事の本質を見極めようとする作家ならではの能力と言えそうですが、一説には幼い頃に罹患した疾患により視力が弱っており、それを補おうと凝視する癖がついた…との話もあるようです。
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川端康成の性格を物語る数々のエピソード② とても温かく面倒見の良い性格
文豪と言えば、無口で気むずかしく人付き合いが苦手というイメージがありますが、川端康成の場合は無口は無口でも、人との関係性を大切にし、とても面倒見が良かったと言われています。
そのため、一部の間では「文壇の総理大臣」とまで呼ばれていたそうです。
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困っている友人には援助を惜しまず、特に晩年は、親しい恩人や友人が次々とこの世を去っていく中、その遺族の面倒を進んでみていたそうで、川端の家には客人が絶えなかったと言います。
しかも、その“面倒”についても、恩着せがましい“偽善的”ものでは決してなく、他人の私生活に土足で踏み込むようなことはなかったそうなんですよね。
生前は川端康成の弟子であり、その蜜な関係性が知られていた作家の三島由紀夫は、川端康成について「温かい義侠的な立派な人」と表現しています。
氏は温かい義侠的な立派な人でもあり、窮境にある者に物質的援助を与へたり、就職の世話をしたり、恩人の遺族の面倒を見たり、その種の美談は氏の半生に山積してゐる。そしてさういふ行為をする氏に些かの偽善の匂ひもないことも氏の特質である。-1956年4月「永遠の旅人」
— 三島由紀夫と川端康成 (@msm_kwbt) September 20, 2019
川端康成の性格を物語る数々のエピソード③ 欲しいものは借金をしてでも手に入れる
そんな川端康成は、美術品をこよなく愛し、欲しいものがあれば、たとえ高額なものでも、友人や知人、出版社に借金をしてでも手に入れていたそうです。
実際、川端康成は人間を見る観察眼だけでなく、美術品コレクションの優れた“目利き”としても知られています。
2009年に開催された「川端康成コレクション」展には、いずれも川端が購入後に国宝に指定された、3つの美術品も出展され話題になりました。
ちなみに川端康成は美術品収集のために、かなりの借金を抱えていたそうです。
ノーベル賞が決まった時にも、その賞金が2000万円だったにもかかわらず、7000万円の屏風や1000万円の埴輪など、景気よく購入していたと言われています。
なお、そんな川端康成は複数の出版社に借金があったことは有名な話なのだとか。
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川端康成が後世に残した作品の魅力とは?
「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現するその叙述の巧みさ」が認められ、1968年にノーベル文学賞を受賞した川端康成。
そんな川端康成の作品の魅力について、Yahoo!知恵袋に興味深いコメントが寄せられていたのでご紹介しましょう。
三島は週刊誌などで、通俗的小説をかなりのスピードで書いていましたが、川端は短編一つでも、粘着質的にゆっくり、吟味しながら、磨き上げるように書いています。
ですから、コンマが多いし、文体が平易ですので、速読しやすく、読後が、一見、退屈な小説に思えてしまうかもしれません。しかし、ゆっくりと味わいながら読んでみると、美しい伝統的な日本の叙情感や、筆舌に尽くしがたいエロさに気づくことができます。
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特に代表作「雪国」は、彼にとって思い入れのある作品だったようで、実に13年とも、17年とも言われる歳月をかけて少しずつ手を加え続け、ようやく完成に至ったと言われています。
今回は特に、その「雪国」を含めて、川端康成の3つの代表作をピックアップしてみました。
川端康成の代表作① 「雪国」
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「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
これはあまりにも有名な、川端康成の代表作「雪国」の冒頭の一文です。
“美しい文章”の代表例として、たびたび紹介されていることから、川端康成の作品を読んだことのない人でも、恐らくご存じなのではないでしょうか。
物語は、東京に妻子がいる島村に、雪国の温泉街で働く芸者・駒子、その妹分の葉子、連れの病人の男…という登場人物が、現実と回想を繰り返しながらそれぞれの関係が徐々に交錯します。
現実の世界である東京と、どこか非現実的な雰囲気を持つ雪国が、トンネルで繋げられているんですよね。
また、この「雪国」は余計な言葉を一切排除し、絶妙な言葉選びにより直接的な描写を徹底して避けていることから、川端康成の作品の中でも“難解”と言われることの多い作品です。
しかし、読み込めば読み込むほど、その難解さの裏には、叙情的で美しい世界が広がっていると言われる、川端康成作品の最高峰とも謳われています。
川端康成の代表作② 「山の音」
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この「山の音」は、先ほどの「雪国」や「伊豆の踊子」に比べると知名度が低いと言わざるをえません。
しかし、川端康成の長編小説の中では最も評価の高い作品であるばかりか、戦後の日本文学の最高峰とまで称賛された傑作です。
主人公の尾形信吾は62歳。ある時、“山の音”が聞こえることに気付いた信吾は、次第にそれを「死期の予告」と捉えるようになり、死を意識した日々を過ごしていくことに…。
そんな中、息子の嫁である菊子に惹かれていく信吾。
ただ、それは恋愛的な感情ではなく、純粋に愛おしいという気持ちで、それは昔憧れていたある人の面影を菊子に重ねていることに気付くのでした。
家族への愛と、かつて憧れていた故人への思慕、家族だからこそ起きる葛藤…そんな様々な想いが美しい情景描写とともに描かれている川端康成の傑作です。
ちなみに…この「山の音」は海外での評価が非常に高い作品でもあります。
ノルウェー・ブック・クラブが選定する「世界最高の文学100冊」に、シェイクスピアやトルストイ、ドストエフスキーなど世界の名だたる文豪達の作品とともに選ばれています。
川端康成の代表作③ 「伊豆の踊子」
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川端康成が自身の実体験を基に、みずみずしく描いた恋の物語「伊豆の踊子」。
川端康成の初期の頃の40ページほどの短編小説ですが、過去に6度も映画化された、川端康成の代表作とも評される作品です。
川端康成が自身を写し込んだ主人公は、孤児として育ち、孤独感からやさぐれ、すっかりひねくれてしまった自分の心に嫌気が差していた学生・川島です。
彼は、日々の鬱積とした気分から逃れるため、伊豆へと一人旅に出るのですが、そこで偶然出会った旅芸人の一座と道連れとなり、一緒に旅をしていくことに…。
そして、その一座には、純真無垢な踊り子の少女・薫(かおる)がおり、そんな薫と接していく中で、川島の心は次第に癒やされ、気持ちがほどけていく様子が繊細に描かれた名作です。
川端康成が結婚できなかった恋人とは
婚約にまでこぎ着けるも一方的に破棄されたカフェの女給
実は川端康成には、結婚する前に、婚約までこぎ着けた“伊藤初代”という女性がいました。
川端康成と伊藤初代さんの馴れ初めは、まだ大学生だった川端が、仲間に連れられて訪れた「カフェーエラン」というカフェで、女給をしていた初代さんを見初めたのが始まりでした。
当初、ギョロ目で無口な川端康成を不気味に思っていた初代さんでしたが、川端の積極的なアプローチにより次第に彼を慕うようになり、やがて相思相愛の関係となりました。
しかし、「カフェーエラン」のマダムの結婚が決まったことで、店は閉店し、初代さんはマダムの姉がいる岐阜県の西方寺に預けられることに…。
諦めきれなかった川端康成は、岐阜まで出向き初代さんに求婚、結婚の約束をするに至りました。この時、川端は22歳。
その後、東京へ戻った川端康成は、初代さんと文通を続け愛を育むのですが…西方寺の住職夫妻は2人の結婚に猛反対!
初代さんは悩んだ末、一方的に川端に婚約破棄を申し出ることに…。
幼くして愛する家族を次々と失った川端康成にとって、伊藤初代さんはまさに、ようやく掴んだそれまでの人生最大の幸せだったに違いありません。
その掴みかけた幸せが、手の平からスルリとこぼれ落ちていった悲しみと絶望感は筆舌に尽くしがたく、この大失恋は、川端康成のその後の作風に大きな影響を与えたと言われています。
伊藤初代さんの通称だった“ちよ”にちなみに、俗に“ちよもの”と呼ばれる「篝火」などの作品群は、伊藤初代さんとの悲恋をほぼ現実のまま綴っていると言われています。
出典:https://twitter.com/
また、2014年には、川端から初代さんへ宛てた未投函の手紙が発見され、話題になりました。
鎌倉文学館 臨時休館中
— 鎌倉文学館 (@kamakura_bunko1) February 29, 2020
文豪の愛の言葉おみくじ
【恋しくって恋しくって、早く会はないと
僕は何も手につかない】
川端康成から想い人伊藤初代への手紙より ※投函せず
当時川端は22歳。2人は婚約しますが、のちに破断。川端に大きな影響を与え『非常』などの題材となりました。#愛は言葉だ pic.twitter.com/HoqovlTGim
川端康成が結婚した嫁との馴れ初め&結婚生活
そんな川端康成と結婚し、生涯寄り添ったのは、青森県出身の秀子さんという女性です。
プロフィール
・名前: 川端 秀子(かわばた ひでこ)
・生誕: 1907年2月8日
・旧姓: 松林
・戸籍名: ヒテ
・出身地: 青森県
・死没: 2002年9月7日(95歳没)
・墓地: 鎌倉霊園
・国籍: 日本
・出身校: 青森県立八戸高等女学校(現・八戸東高等学校)
・配偶者: 川端康成
・親: 松林慶蔵
※写真は川端康成と秀子夫人
川端康成の嫁・秀子さんは、青森県立八戸高等女学校を卒業後、兄を頼って東京に上京すると、当時設立間もない文藝春秋社に就職。
上司である編集者・菅忠雄氏の留守宅を預かっている時、新進作家の川端康成がその家の居候として転がり込んできたことが、2人の馴れ初めだったようです。
こうして1925年に出会った2人は、6年後の1931年に正式に入籍しています。秀子さんは川端と一緒に住むことになった時のことについて、次のように語っています。
その時の荷物というのが、お祖母さんの家紋入りの蒲団や風呂敷、手文庫、一閑張りの机のほかに、祖父母が大切にしていたという仏像六、七体とご先祖の舎利まであったのでびっくりいたしました。なんとご先祖や祖父母を大事になさる方かと感心したことを覚えております。
出典:https://ja.wikipedia.org/
その後、秀子夫人は生涯、“作家の妻”として、ただただ川端康成の創作活動を支えることにのみ専心したと言います。
そしてその甲斐あって、川端康成は1968年、日本人として初めてのノーベル文学賞を受賞したのです。まさに内助の功って感じですね。
詳しくは後述しますが、1972年に川端康成が急逝。
川端秀子さんは、その約11年後の1983年に回想録「川端康成とともに」を発表し、2002年に95歳で亡くなるまで、対談などの活動を通して、夫にまつわる様々な話題を語り続けました。
川端康成の嫁は三島由紀夫にもひるまない芯の強い女性だった
これは余談ですが、夫・川端康成の弟子として、家族ぐるみで親しく付き合っていた作家の三島由紀夫がある時、川端夫妻の娘(養女)にそれとなく結婚を申し込んだことがあったそうです。
このことを耳にした秀子さんは、夫・康成に相談することなく、三島由紀夫に対してキッパリと断ったそうなんですよね。
このエピソード一つとっても、あの三島由紀夫を相手にしても一切物怖じしない、芯の強い女性だったことが窺われますね。
林房雄さんの最初の奥様の亡くなった時(昭和25年)のことですが、御通夜の席で三島さんから私に、それとなく娘との結婚話が出されましたので、私もさりげなく、しかし、きっぱりとお断りしたことがあります。主人に相談することなど考えもしませんでした。-1984年5月「続・川端康成の思い出」川端秀子
— 三島由紀夫と川端康成 (@msm_kwbt) November 7, 2020
川端康成の子供や子孫は?
次に、日本が誇る文豪・川端康成の子供や子孫についても調べてみました。
川端康成と秀子夫人は、1943年5月3日に、まだ小学生だった政子(まさこ)さんを養女に迎えています。
このことからも、川端夫妻の間には、実子がいなかったことがわかります。
川端政子(かわばた まさこ)
・通称: 麻紗子
・旧姓: 権野
・生誕: 1932年2月23日
・学歴: 湘南白百合学園高等学校 卒業
・川端康成との関係: 養女(1943年5月3日 – )
※残念ながら川端政子さんの画像は見つかりませんでした。上の写真は川端康成と映画「古都」に出演した岩下志麻さんです。
川端政子さんは、1951年3月に湘南白百合学園高等学校を卒業し、その後は茶道やピアノ、日本舞踊などの習い事に励みました。
そして、川端康成の主治医である栗原雅直医師の紹介により、1967年7月25日、山本 香男里(やまもと かおり)さんと見合い結婚。
香男里さんの方が嫁・政子の川端姓を名乗る、いわゆる“婿養子”となりました。
2人の結婚は、香男里さんの父親が、第一高等学校、東京帝国大学英文科で川端康成と同期で顔見知りだったことも手伝ったようです。
川端 香男里(かわばた かおり)
・生誕: 1933年12月24日
・旧姓: 山本
・死没: 2021年2月3日
・出身大学: 東京大学教養学部教養学科フランス文科
・職業: ロシア文学者、川端康成記念会理事長
川端香男里さんは、東京大学教養学部講師から1973年に新設された文学部ロシア語ロシア文学専修課程の助教授を経て教授となり、1991年にロシア・東欧学会代表理事に就任しています。
1994年に定年退官後も、中部大学や川村学園女子大学で教鞭を執る傍ら、NHKラジオ「ロシア語講座応用編」の講師や、川端康成記念会の理事長などを務めてきました。
そして、2021年2月3日、老衰によりこの世を去っています。
また、川端康成の養女である川端政子さん、香男里さん夫婦の間には、1969年1月29日に、長女・あかりさんが、1971年10月9日には、長男・明成さんが誕生しています。
川端康成にとってこの2人は、血こそ繋がらないものの、戸籍上の孫ということになりますね。
川端康成はノーベル賞受賞からわずか4年後に突然の死去…
ノーベル文学賞からたった4年後の1972年4月16日、神奈川県逗子の仕事部屋として使っていた海に近いマンションの一室で、川端康成がガス管を咥えて死亡しているのが発見されました。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=6NXty5Q-72Q&w=560&h=315]
警察の発表では、死因は酩酊の末のガスによる自害(ガス中毒死)とのこと。ただ、遺書がなかったことから不明な部分も多く、現在も事故も含めて様々な憶測や議論を呼んでいるようです。
最後に、川端康成が自害した理由について、いくつかの説をまとめてみたいと思います。
川端康成が自害した理由① 三島由紀夫の自害にショックを受けて…
川端康成の突然の死は、生前弟子として“無二の師友”という関係を築いていた三島由紀夫が割腹自害した2年後のことでした。
出典:https://ameblo.jp/
三島由紀夫の死後、林房雄が書いた追悼本『悲しみの琴』に寄せた序文に、川端康成は次のような言葉を綴っています。
冬の雪の日、雨の日、曇りの日、私は湘南の海を見る。まつたくひとりの部屋で、「悲しみの琴」を読みつづけ、自分の言葉はないのである。
出典:https://ja.wikipedia.org/
まさに川端康成が自害を遂げた、逗子のマンションの部屋でこの文章を綴っていたことが示されているんですよね。
また、川端康成の自害の理由が、三島由紀夫の死にあるとする次のような声も少なくないようです。
1970年11月25日、三島は自ら命を絶つ。劇的な悲愴の死だった。川端はこの死で、自分の身がもがれたかのように感じ、悪夢や幻覚にうなされたという。それが自死に繋がるきっかけの一つになったと言う人もいる。
出典:https://courrier.jp/
川端康成が自害した理由② 小説「事故のてんまつ」通りだった…
川端康成の死後に、自害の真相を明らかにするとの触れ込みで発表された、臼井吉見の小説『事故のてんまつ』。
この本は結局、川端家の遺族により名誉毀損で提訴され、和解の際の条件により絶版となりましたが、この小説の中で語られていた川端康成の自害の真相がこちら。
出典:https://ameblo.jp/
・ ある大作家は、自宅の家政婦として雇われていた女性にご執心で、一説によると自分の養女にすることを希望していたとも言われている。
・ この女性が1年ほど勤めた後、「故郷に帰るために辞めたい」と告げる。大作家はもっといて欲しいと懇願するも聞き入れられなかった…。
・ その翌日、大作家は自害を遂げ、この世を去ることに…。
・ 大作家の死の直後、この女性は養父に「先生の自害の原因はわたしにあるように思う」と打ち明けていた。
なお、この小説のモデルとなった女性は、その後の取材を一切断り、『事故のてんまつ』について、次のようなコメントだけを残しています。
「その小説の中の女性と自分とは無関係である」とし、「ただ一ついえることは、私に川端先生が執着したかどうか、わからない、ということです」
出典:https://ja.wikipedia.org/
川端康成が自害した理由③ ノーベル文学賞受賞のプレッシャーに負けた
川端康成は、ノーベル文学賞受賞後に、次のようなコメントを残しています。
この受賞は大変名誉なことですが、作家にとっては名誉などというものは、かえって重荷になり、邪魔にさえなって、いしゅくしてしまうんではないかと思っています。
出典:https://ja.wikipedia.org/
出典:https://www.asahi.com/
実際、川端康成は受賞後による多忙やプレッシャーにより、小説の創作が思うように進まず、連載していた「たんぽぽ」も受賞が決定した10月から途絶え、結局未完のままとなっています。
川端康成が自害した理由④ 体調不良や老醜への恐怖により魔が差した
川端康成がこの世を去る約1ヶ月前の1972年3月7日、急性盲腸炎で入院手術を受けており、約1週間後の15日に退院したものの、年齢が年齢なだけに体調は思わしくなかったようです。
また、その当時は立野信之や志賀直哉、親しかった従兄の秋岡義愛らが立て続けに死去したこともあり、かなり気が滅入っていたとも言われています。
出典:https://prtimes.jp/
さらに、川端康成は15歳の時、白内障で視力を失って寝たきりになり、シモの始末すら自分できずに死んでいった祖父の世話をしていました。
自身の老いとともに、そういった記憶が呼び覚まされ、そんな老醜への恐怖心により魔が差してしまった…なんて説もあるようです。
川端康成の遺族は頑なに事故説を主張している
一方で、特に川端家の遺族は、康成に自害するほどの動機が思いつかないこと、そして、何より遺書がなかったことから、彼の自害を信じようとせず、頑なに事故説を主張しているようです。
出典:https://ameblo.jp/
と言うのも、古くから日本には生涯を締めくくる際、数行の詩を読むという伝統があり、そういった日本の潔い文化を、生前の川端康成はことさらに重視してきました。
そんな川端康成が、自身の死に当たって辞世の句一つ残さないはずはない、と考えられるからです。
遺族が主張する事故説は次の通りです。
作家は浴室を出て足を滑らせ、転びながらガス管にからまったという。あるいは意識が朦朧とした状態での行動だったという見方もある。川端はずいぶん前から、睡眠薬の依存症に陥っており、アルコールと睡眠薬を混ぜて服用することもあった。だから幻覚を見ながらの夢遊病を発症することもあったというわけだ。
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事故説によると、足を滑らせて転びながらガス管にからまり、最終的にはそのガス管を咥えていたことになります。
さすがに、かなり無理がある説のように感じますが、アルコールと睡眠薬により酩酊状態に陥り、発作的に…というのは、普通に考えられそうですね。
また、発作的に死を選んでしまったと考えれば、遺書も辞世の句も残さなかった…残せなかった理由にもなりますし…。
出典:https://yushukoharu.com/
まとめ
いかがでしたでしょうか。
「雪国」や「伊豆の踊子」など、近代日本文学史に残る数々の名作を遺し、日本人初のノーベル文学賞を受賞した文豪・川端康成。
今回、そんな川端康成の代表作と、素顔はどんな人だったのか?性格を物語る数々のエピソードを振り返るとともに、結婚した嫁や子供、子孫などのプライベートな部分に注目してみました。
さらに、自害とされている死因と、川端康成がそのような死を選んだ理由についてもまとめてみました。
近代日本文学史に燦然と輝く川端康成の名作の数々は、今後も時代を超えて多くの読者に読み継がれていくことでしょう。