山田太一さんは「ふぞろいの林檎たち」などを手掛け人気を博した脚本家ですが、2023年11月に亡くなっています。
今回は山田太一さんの代表作や最高傑作、結婚した嫁や子供、自宅、生前患っていた病気と死因をまとめました。
この記事の目次
- 山田太一のプロフィール:脚本家で代表作は「ふぞろいの林檎たち」等
- 山田太一の経歴① 幼少期は疎開先で家族を亡くしている
- 山田太一の経歴② 早稲田大学の教育学部国語国文学科を卒業
- 山田太一の経歴③ 松竹を経て脚本家になり名作を次々と執筆
- 山田太一の経歴④ 「山田太一シリーズ」も好評
- 山田太一の経歴⑤ 最高傑作と名高い「岸辺のアルバム」を執筆
- 山田太一の経歴⑥ 「ふぞろいの林檎たち」が大ヒット
- 山田太一の経歴⑦ 2017年に病気となり執筆が困難に
- 山田太一が結婚した嫁は元アナウンサー・石坂和子
- 山田太一の子供は3人① 長女・宮本理江子は演出家で映画監督
- 山田太一の子供は3人② 次女はTBSの元社員?
- 山田太一の子供は3人③ 長男・石坂拓郎は映像監督として活動中
- 山田太一の自宅は神奈川県川崎市の津田山
- 山田太一の死因は老衰・施設で亡くなっており享年89歳
- まとめ
山田太一のプロフィール:脚本家で代表作は「ふぞろいの林檎たち」等
生年月日:1934年6月6日
出身地:東京都
所属:不明
山田太一さんは脚本家で、小説家としても活動していました。
テレビドラマを中心に活躍し、代表作には1983年にフジテレビ系列で放送された「早春スケッチブック」、TBS系列の「ふぞろいの林檎たち」シリーズなどが挙げられます。
また、テレビドラマのみにとどまらず、映画や舞台の脚本なども手掛けました。
そんな山田太一さんの本名は「石坂太一」と言います。
山田太一の経歴① 幼少期は疎開先で家族を亡くしている
山田太一さんは、東京・浅草で大衆食堂を経営する両親のもとに誕生。
そのため、食事の際は食堂のメニューから好きなものを選んで、従業員に頼んでいたといいます。
原島 それで、別の話になるんですが、先ほど山田先生が、ご両親が浅草で食堂を経営なさっていて、食事はメニューの中から選んでいたとおっしゃいましたね。
山田 ええ、大衆食堂でしたから、メニューの種類はいろいろありました。キャベツなんかも山のように刻んであって、それを自由に取って従業員のところに行き、「メンチカツ 1 枚」とか注文して。
しかし、小学校3年生の時に強制疎開によって神奈川県へと転居。疎開先では、母親と2人の兄を亡くしています。
山田さんが小学生のとき、母親と2人の兄が亡くなりました。しばらくして山田さんの父親は“おまえは小さいから死ぬということがちゃんとわかっていない”と言ったそう。山田さんはその言葉を受け“戦争で大変な時期に妻と子どもを失い、残された家族を支える必要がある父はどん底だ。それに比べれば、僕が人の死をキチンと感じ取れていないと思った父は鋭い”と、語っていました。
兄弟には姉もいましたが、当時は家を出ていたそうで、自分と妹の2人分の弁当を作っていたのだとか。
しかし当時は皆飢えており、学校の前で先輩に弁当を奪われたこともあったそうです。
山田太一の経歴② 早稲田大学の教育学部国語国文学科を卒業
出典:https://www.tokyo12univ.com/
山田太一さんはその後、神奈川県立小田原高等学校を卒業し、早稲田大学の教育学部国語国文学科へと進学。
同級生には劇作家・寺山修司さんなどがおり、とても仲が良かったのだそう。
寺山修司さんがネフローゼのため休養&休学すると、山田太一さんは寺山修司さんの母親から「見舞いにくるな」と言われるほど頻繁に見舞いに訪れたといいます。
小田原高校を卒業後、本好きが高じて早稲田大学教育学部の国語国文学科へ。そのとき、同じ学科にいたのが寺山修司さんです。とても気が合って、親しくなりました。彼がネフローゼで入院したときは、連日、見舞いに行って、彼のお母さんに叱られました。
その後、1958年に同大学を卒業。
卒業後も寺山修司さんとの交友関係は続き、寺山修司さんが脚本を務めた1961年公開の映画「夕陽に赤い俺の顔」「わが恋の旅路」では助監督も務めました。
ちなみに山田太一さんは卒業後、教師として務めつつ小説を書きたいと考えていたのだとか。しかし、就職難により教職に就くことができず、就職課で募集を知った松竹へと入社します。
山田太一の経歴③ 松竹を経て脚本家になり名作を次々と執筆
山田太一さんは松竹へと入社すると、助監督として映画監督・木下恵介さんに師事します。
1960年前半頃より、木下恵介さんの映画をテレビドラマにリメイクするにあたっての脚本を担当。
1965年に松竹を退所し、脚本家としてフリーランスで活動するようになります。
その後、木下恵介さんから連続ドラマに挑戦するように言われ、1968年にTBS系列の”木下恵介アワー”枠で放送されたドラマ「3人家族」を執筆。
同作は大ヒットし、同枠における歴代最高視聴率を記録しました。
その後、1973年に手掛けたTBS系列のドラマ「それぞれの秋」が「芸術選奨新人賞」を受賞。同年にNHKで放送されたドラマ「河を渡ったあの夏の日々」も話題を集めます。
山田太一の経歴④ 「山田太一シリーズ」も好評
出典:https://www3.nhk.or.jp/
そして、1976年よりNHKが”脚本家シリーズ”をスタート。脚本家の名前を冠にした同シリーズの第1弾として、”山田太一シリーズ”が放送されました。
第1作目として放送された「男たちの旅路」は好評を博し、以降も続編が放送。
特に1979年に第3部として放送されたうちのエピソード「シルバー・シート」は「第32回芸術祭」でドラマ部門大賞を受賞しています。
「男たちの旅路」(NHK、1976~82年)は、ドラマ史上に残る名作のひとつだ。警備会社でガードマンとして働く特攻隊の生き残り、司令補の吉岡晋太郎(鶴田浩二)の印象が今も消えない。 部下である杉本陽平(水谷豊)や島津悦子(桃井かおり)たちとの世代間ギャップ。今を生きる人間同士としての本音のぶつかり合い。それまでのドラマにはなかった視点と緊張感に満ちた物語が展開された。
山田太一の経歴⑤ 最高傑作と名高い「岸辺のアルバム」を執筆
山田太一さんは、1977年にTBS系列で放送されたドラマ「岸辺のアルバム」も手掛けています。
“中流家庭の崩壊”をテーマとした同作はそのリアルな描写が高く評価され、「辛口ホームドラマ」という新ジャンルを確立。
放送史に残る名作だと絶賛され、山田太一さんの最高傑作とも称されています。
■テレビ史上の事件
「岸辺のアルバム」 「岸辺のアルバム」(TBS系、77年)は、それまでのほんわかとしたホームドラマの概念をがらりと変えてしまった、テレビ史上の事件だ。そこでは、「家族の崩壊と再生」という重いテーマが表現されていた。
1980年にはNHKの大河ドラマ「獅子の時代」を担当。世間からは好評を得たものの、本人は「二度と大河はやらない」「向いていない」と感じながら執筆していたのだとか。
1981年にTBS系列で放送されたドラマ「想い出づくり。」では、当時まだ珍しかった主人公が複数いるという手法を採用。エポックメーキング的作品となりました。
ちなみに、同作を書く際には自身の娘のことを思いながら執筆したといいます。
原島 そういえば、先ほどの『想い出づくり』について、あれはご自分の娘さんのことがあったということを聞いて、なるほどと思ったのですが。
山田 ええ、「女とクリスマスケーキは 25 を過ぎると売れなくなる」なんて、あんなことが当たり前のように言われてはたまらんと、その思いで書きました。
また、代表作の1つ、1983年のフジテレビ系列ドラマ「早春スケッチブック」も、視聴率こそ振るわなかったものの、視聴者から数多くの手紙・電話が届くなど大きな反響があったそうです。
山田太一の経歴⑥ 「ふぞろいの林檎たち」が大ヒット
山田太一さんの代表作「ふぞろいの林檎たち」も、1983年にTBS系列で放送されています。
同作は社会現象とも言える大ヒットを巻き起こし、以降1997年まで人気シリーズとして放送されていました。
放送された80年代前半、世の中はバブルへと向かう好景気にあった。誰もが簡単に豊かになれそうなムードに満ちていた。しかし、「ふぞろい」な若者たちにとって、欲望は刺激されても、現実は甘くない。その「苦さ」と、きちんと向き合ったのが、このドラマだった。その後、30代になった彼らを描くパート4まで、14年にわたってシリーズが続いた。
また、1984年にNHKで放送されたドラマ「日本の面影」で「第2回向田邦子賞」を受賞。
さらに、1993年より同作が舞台化された際には、同舞台の脚本も本人自ら手掛けています。舞台も人気を博し、2001年には海外公演も成功させました。
テレビドラマだけではなく、舞台・小説も手掛けていた山田太一さん。
1988年に発売した小説「異人たちとの夏」では「山本周五郎賞」を受賞しています。
山田太一の経歴⑦ 2017年に病気となり執筆が困難に
山田太一さんは脚本家として重鎮となりつつありましたが、1990年代以降は連続ドラマ作品から遠のき、単発ドラマ・舞台・小説などを活動の中心としていました。
その後しばらくして、2009年に放送されたフジテレビ系列のドラマ「ありふれた奇跡」で、12年ぶりとなる民放連続ドラマに復帰しています。
しかしその後、2017年に脳出血を患ったことで執筆が困難な状態に。引退こそ明言しませんが、「脚本家として原稿が書ける状態ではない」と語っていました。
「もう脚本家として原稿が書ける状態ではありませんが、後悔はしていません。これが僕の限界なんです」
事実上の断筆宣言にも取れる言葉だが、その顔は笑いに満ちていた。
山田太一が結婚した嫁は元アナウンサー・石坂和子
生年月日:不明
出身地:不明
職業:アナウンサー
所属:テレビ朝日→退社
山田太一さんは結婚しており、嫁は元アナウンサー・石坂和子さんです。
石坂和子さんはテレビ朝日でアナウンサーを務めていたそうで、山田太一さんとは早稲田大学の同級生だったのだとか。
また、在学中には友人である寺山修司さんと、石坂和子さんを取り合っていたといいます。
2人が恋した女性はというと、後にテレビ朝日となるテレビ局のアナウンサーとなった。「名前は和子さんというのですが、山田さんと結婚するんです。ふたりは大学の行事で距離を縮め、卒業後に交際へと発展。3人の子どもに恵まれ、幸せな家庭を築きました。和子さんは雑誌インタビューで山田さんについて“夫としては95点”と高く評価していましたよ」
そんな2人は卒業後に交際をスタート。石坂和子さんは結婚を機にテレビ朝日を退職されています。
2017年に登壇したシンポジウムでは嫁とのやり取りについて語る場面もあり、普段の夫婦の様子が垣間見えました。
ぼくの職業には定年はないけれども、実際にはいつも定年後みたいなんですね。だから、定年後、男が家庭内でいちばんダメになる時期が、ぼくには日常。ぼくがスープを作っても「何これ?」と言われます。家事は女房のほうがうまいです。ずっとやってきたんだから、うまいのは当たり前でしょう。ぼくだってずっとやっていることは、うまいですよ。まあ、そんなことは言えませんけどね
また、石坂和子さんは2021年に亡くなっているとのことです。
山田太一の子供は3人① 長女・宮本理江子は演出家で映画監督
生年月日:不明
出身地:不明
職業:演出家・映画監督
所属:フジテレビ→退社
山田太一さんには3人の子供がいます。
長女の宮本理江子さんは元フジテレビ局員で、テレビドラマの演出・映画監督として活躍していました。
1986年に国際基督教大学を卒業後、フジテレビへと入社し、編成制作局のドラマ制作センターゼネラルプロデューサーとしてドラマ制作に携わっていました。
代表作には、1991年放送の「101回目のプロポーズ」、1997年放送の「ビーチボーイズ」、2013年放送の「最高の離婚」などが挙げられます。
特に「101回目のプロポーズ」は、作品を大ヒットさせた功績はもちろん、主人公がトラックの前に飛び込んで「僕は死にません!」と叫んだ名シーンを演出したことでも知られています。
これまでに数多くの賞を受賞しており、2008年放送のドラマ「風のガーデン」では、「文化庁芸術祭放送」で個人賞、「放送ウーマン賞」を受賞。
2013年放送の「最後から二番目の恋」では、「芸術選奨新人賞」を受賞しています。同賞は父親である山田太一さんも1974年に受賞しており、親子二代での受賞が話題となりました。
宮本理江子氏はテレビドラマというジャンルが持つ,人と人との間にある空気の微(かす)かな揺らぎを映像化できる特性を熟知し,人間関係の危うさを見事に表現する演出家である。「最後から二番目の恋」では,気張らないエンターテインメントな外枠を持ちながらも,中年を迎えた男女の人生の機微をあぶり出し,底に抱える人間の孤独を見据えて,確かな現代を表現している。
その後も、2015年放送の「心がポキッとね」や2021年放送の「白い濁流」などを担当していましたが、2022年に早期退職制度に応募。フジテレビを退社しています。
決してフジテレビだけの問題ではないのだが、同社の場合その輝きがあまりにも眩かっただけに、凋落するテレビの象徴のように見えてしまっていた。そんな折の早期退職者の募集……多くの業界関係者の注目が集まる中で、100人近くの社員が会社の求めに応じ、2022年3月末に退職したということがわかった。その中には、著名なバラエティの演出家である片岡飛鳥氏や、ドラマ監督の宮本理江子氏や武内英樹氏の名もあった。
引用:「演出家としては限界だった」フジテレビ電撃退社の明松功氏が“なぜ君”大島新監督に明かした“めちゃイケ”でブチ当たった厚い壁
山田太一の子供は3人② 次女はTBSの元社員?
生年月日:不明
出身地:不明
職業:不明
所属:TBS→退社?
山田太一さんの次女については詳細が不明ですが、TBSの元社員との噂です。
一般人のため、どういった職種だったのか、いつ頃まで勤務していたのかなどは分かっていませんが、1990年に入社したと言われています。
山田太一の子供は3人③ 長男・石坂拓郎は映像監督として活動中
生年月日:1974年8月17日
出身地:神奈川県
職業:撮影監督
所属:フジテレビ→退社
石坂拓郎さんは映像監督です。高校時代に渡米し、現地の学校で映画制作について学びました。
また、2005年に公開された映画「拘束のドローイング9」をはじめとする作品で撮影助手を務め、数多くの映画・TVCMを制作しています。
2006年にアメリカ・ロサンゼルスでプロダクション「Frameworks Films, Inc」を設立。
2007年公開の「さくらん」、2009年公開の「MW -ムウ-」、2012年公開の「るろうに剣心」など日本の映画にも携わっています。
山田太一の自宅は神奈川県川崎市の津田山
山田太一さんは自宅に関して詳細を明かしていません。
ただ、1970年代に取材した当時の記者は、神奈川県川崎市の中でも多摩川に近いエリアに住んでいたと語っています。
また、「仕事師から多摩川を越えて父親に変わる」とも述べていたそう。
「東京での仕事から多摩川を越えると、頭が切り替わるんだよ」。いわば、オンとオフの境が多摩川だったのだろう。名作ドラマを生んだ濁流と化し、住宅をのみこんだ多摩川と穏やかな流れのふだんの風景。遠目に分からないが、そこには家庭の営みが無数にあり、ドラマに昇華したような気がする。
生前、山田さんは津田山にある自宅から徒歩で溝口方面に出掛け、居酒屋などで飲食を楽しむ姿が幾度となく確認されてきた。また事あるごとに「地元に美味しいコーヒー屋さんがある」と触れ回っていたという。
引用:脚本家、庶民の一杯で魅了
また、雑誌の取材の場となったことを機に「自家焙煎みずさわ珈琲店」の常連となり、同店で取材を受けたりプライベートでも頻繁に利用したりと足繫く通っていたといいます。
山田太一の死因は老衰・施設で亡くなっており享年89歳
山田太一さんは、2017年に脳出血を患ってからは執筆が困難な状態となっていました。
引退宣言こそしていませんでしたが、執筆活動からは遠のいており、2019年頃よりマスコミ関係者とは音信不通となってしまいます。
その後、週刊誌によって老人ホームに入居していると報じられましたが、同誌が入居先としていたホームは個人情報を理由に、入居しているか否かは明らかにしていません。
本人もインタビューなどに応じておらず、その詳細は不明のままとなっていました。
それからしばらく経った2020年、NHKのラジオ番組「ラジオ深夜便」が山田太一さん出演回を放送。山田太一さんは同番組で「書きたいテーマ」などについて語っていました。
そして、2023年11月29日に神奈川県の施設で死去。死因は老衰で、享年89歳とのことです。
名作ドラマ「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」などで知られる脚本家の山田太一(やまだ・たいち、本名石坂太一=いしざか・たいち)さんが、老衰のため11月29日に川崎市の施設で死去したことが1日、分かった。遺族の意向で、フジテレビが報道各社に発表した。89歳。東京都出身。葬儀は故人の遺志により家族で行う。喪主は長男の石坂拓郎(いしざか・たくろう)氏。
引用:山田太一さん死去 「ふぞろいの林檎たち」組が追悼 中井貴一「台本から、人としてのあり方までも教わった」 手塚理美沈痛
まとめ
山田太一さんは脚本家で、ドラマ「ふぞろいの林檎たち」などを手掛けたことで知られています。
脚本家としてデビューするとすぐに頭角を現し、次々と名作を執筆。そのほかの代表作には「早春スケッチブック」「獅子の時代」などが挙げられます。
また、当時のホームドラマの概念を壊したといっても過言ではない、「岸辺のアルバム」も最高傑作と名高いです。
プライベートでは元アナウンサーの嫁・石坂和子さんと結婚。3人の子供たちもテレビ・映画業界にて活躍されています。
残念ながら2023年に老衰でお亡くなりになっていますが、山田太一さんの生み出した作品はこれからも多くの人に愛され続けるのではないでしょうか。