1980年代にウェイトレスがノーパン状態で接客する喫茶店「ノーパン喫茶」がブームとなりましたが、現在は看板を見かけることはなく姿を消しています。
今回は「ノーパン喫茶」の歴史や接客内容、消えた理由や現在を紹介します。
この記事の目次
「ノーパン喫茶」とは
まさに昭和らしい、古き良き時代とも言われる「ノーパン喫茶」という大衆風俗文化。
現在は「ノーパン喫茶」の存在がほとんど忘れ去られており、現代の若者は実際にどのようなサービスが行われていたのか知らない人の方が多いでしょう。
そこで、「ノーパン喫茶」という名前だけでは分からない、このサービスの奥深さについて詳しく紹介していきましょう。
「ノーパン喫茶」は、1978年もしくは1981年に、京都の西賀茂で初めて誕生したという説が有力のようです。
初期の頃は、非常にタイトなミニスカートと、ノーパンの上に肌色のストッキングというのが基本的なスタイルで、普通の喫茶店のウエイトレスとして始まりました。
もちろん風俗ではないので「おさわり」は禁止で、店を訪れた男性客はウェイトレスの際どいスカートの裾から、見えそうで見えない秘密の花園を見るために足しげく通っていました。
また、床が鏡張りになっていて、反射してスカートの中が見えるようになっていた店も多くありました。
そのため、ウェイトレスの女の子がやって来るたびに、一斉に男性客が鋭い目つきで床を眺めるという、一種奇妙な光景が繰り広げられていたようです。
なお、普通の喫茶店とは言え、このような特殊なサービスから、コーヒーは1杯1000円以上することが普通で、注文すると30分店内にいられるという時間制限付きでした。
「ノーパン喫茶」のウェイトレスの給与はどのくらい?
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「ノーパン喫茶」のウェイトレスの給料は、後に後述する伝説の人気嬢のイヴさんによれば、2時間で6000円という相場だったようです。
当時の貨幣価値から考えると、現在よりも若干高いと言えるかもしれません。
試しに1日だけ働いてみたところ、2時間だけ働いて6000円。そんなにもらっちゃうともうダメですね。その3日後には今度は新幹線に乗って遊びに来て、新幹線代を稼ぐために働いていました(笑)。
初期の頃の「ノーパン喫茶」で働く女性たちはあくまでウェイトレスですので、男たちのいやらしい視線に晒されるだけで、やっていることは注文や配膳の上げ下げという仕事内容でした。
そのため、風俗店で働くのに比べると遥かに楽で、大金が稼げるおいしいアルバイトだったようです。
「ノーパン喫茶」のサービス内容の歴史まとめ 【次第に過激化】
「ノーパン喫茶」は、最盛期には全国で1000店舗以上展開されました。
ここでは、「ノーパン喫茶」の発祥とブーム、さらに過激化していった歴史を振り返ってみたいと思います。
「ノーパン喫茶」以前は「ヌード喫茶」も
『イエロージャーナル』によれば、「ノーパン喫茶」以前は、耽美系作家の永井荷風が1932年に上梓した『摘録 断腸亭日乗(上)』に登場した「エロ喫茶」だとしています。
「女給テーブルの下にもぐり込み、男の物を口に入れて気をやらせる由評判あり」と書かれていて、これが現代風俗のピンサロに発展したとのこと。
また、 1955年9月に大阪にヌード喫茶「嚆矢」がオープンしています。この喫茶店はノーパンではありませんでしたが、その後の3か月で27店舗が立ち上げられ、サービスも過激化。
これにより、公安委員会の取り締まりにより軒並み閉店に追い込まれています。同年12月18日号の『サンデー毎日』では、「ヌード喫茶よ、さようなら」という記事が掲載されました。
「ノーパン喫茶」の始まりは1981年頃
雑誌『別冊宝島』に書かれた内容によれば、「ノーパン喫茶」は1981年に流行したサブカルとされています。
『週刊現代』によると、1978年10月に「ジャーニー」というお店が先駆けだとされていますが、これは前述の京都のお店です。
ただ、『週刊新潮』によれば、発祥の地は福岡・博多で、1979年にオープンした「ピンク喫茶」が「ノーパン喫茶」に変化したとしており、他にも東京、大阪説もあるようです。
山本 ノーパン喫茶の始まりには諸説あるんだよ。京都説、大阪説、福岡説、東京説といろいろあって、いまだにどれが本当かわからない。でも、最初は2〜3軒だったのが雨後の筍みたいに増えていって、あっという間に何百軒とできちゃった。
みうら 普通の喫茶店だったのに、ある日突然ノーパン喫茶に衣替えした店もありました。以前から店にいた女性がそのままノーパンでウェイトレスをやっていて驚いた。
初期は完全に見えなかった
「ノーパン喫茶」と銘打ちながらも、初期の頃はウェイトレスの局部がもろに見えないようにパンストを履いていたため、男性客はもどかしい思いもしていたようです。
みうら でも、初期の頃はノーパンといってもパンストを履いていたので、そんなにはっきり見えるわけじゃないんですよね。
山本 そうなんだよ。女の子を横から見ると、後ろのほうのスカートの丈が前よりもちょっとだけ短かった。だから、ヒップラインは丸見えで、そこに肌色のパンストを履いていたから見ようによっては裸に見えたということ。
みうら なかには、「俺は(女性器も)バッチリ見えた」と豪語する奴もいたけど、よほど動体視力がよくないと無理。
さまざまなタイプの「ノーパン喫茶」が登場
「ノーパン喫茶」は少しずつ進化しながら、1980年12月、大阪に「あべのスキャンダル」というお店がオープンしました。
山本 一口にノーパン喫茶と言っても、バリエーションはスゴかった。『あべのスキャンダル』なんて、そのうち喫茶店では飽き足らず、後にノーパンラーメンやノーパン牛丼の店も始めちゃった。
みうら ’90年代に流行った「ノーパンしゃぶしゃぶ」もその流れだけれど、違ったのは客が大人だったこと。学生や若いサラリーマンに流行ったノーパン喫茶が、今度はおっさんを中心に広がったわけです。
「ノーパン喫茶」がブームに乗って人気が高くなるにつれて、色々なシチュエーション、バリエーションが増えていき、店の形態は多様化していきました。
オーソドックスなスタイルに若干変更を加えたものから、ウサギ耳を着けたバニーガールスタイルのもの、首に蝶ネクタイなど、女性たちのファッションも様々だったようです。
完全ノーパンの「ノーパン喫茶」も登場
ウェイトレスの局部を見たいという男性客の強い要望と、お店側も飽きられないように試行錯誤をする中で、次第に完全ノーパンの過激なスタイルのお店も出てくるようになりました。
『週刊現代』の特集記事では、初期はノーパンにストッキングのスタイルが主流だったものの、男性客の客離れを防ぐために、次第に風俗店並みに過激になっていったと書かれています。
ストッキングを履かず、正真正銘のノーパンはもちろん、陰毛をすべて剃るといういわゆるパイパンの状態に。
これについて、局部をもろに晒していることになるため「わいせつ物陳列罪」に当たるのでは?と論争が起きました。
ですが、陰毛を剃ってもすぐに生えるからそれには該当しない、などとなど上手く言い逃れていたようです。
みうら いい時代でしたね。それにしても、ノーパン喫茶を考え出した人はスゴいですよ。女の子にパンスト一丁でコーヒーを出させようなんて発想がそもそも狂っている。すさまじい概念の改革です。
山本 たしかに。おさわりは禁止で、体裁としては女の子側はウェイトレスをやっているだけだから、警察もどう取り締まっていいのかわからない。ホント、考えた奴は頭がいい。
みうら しかも、それをやったのが大阪じゃなくて京都だったところが面白い。えげつないことは大阪がすごく得意だけど、とんでもない発想でありえないようなことをやっちゃうのは京都のほう。京都には平安の昔からそういう革新的なところがあるんですよ。
「ノーパン喫茶」の店内の様子とは?
「ノーパン喫茶」の店内での様子について、山本晋也さんやみうらじゅんさん、イヴさんが対談した際、以下のように語っています。
みうら 最初はどんな店なのか想像もつかなかった。店内をノーパンの女の子がウロウロ歩いているのかと思ったら、注文をしないと女の子は近くに来てくれない。床が鏡貼りだったので、女の子が注文をとりにくると、ワカサギ釣りみたいに客は一斉に下を向いていました。
山本 自分のところに注文を取りにきたときは、対面するから顔しか見えないんだよな。でも、ほかの客のところに行くと、後ろ姿が見えるじゃない。コーヒーをテーブルに置くときに、女の子がちょっとかがむと客の視線が一斉にそっちに向いていた。
イヴ ズルズルと体をずらしていって、できるだけ低い姿勢になろうとする人もいました。なかには手鏡を持ち込む人も。そういうときは、「お客さん、ダメですよ。そこまでしなくても見えるんじゃないの?」って、やさしく注意しました(笑)。
山本 よく磨いたジッポーのライターを鏡の代わりにして、一生懸命スカートの中を覗こうとしている奴もいたな。「ああ、人間っていうのは、こういうことには頭を使うんだな」と思ったね(笑)。
男性はどんな場所でもカッコつけてしまうものなので、客の中には露骨に見ることをせず気取っていた人もいたことでしょう。
しかし、中にはウェイトレスの女の子のアソコを見たいがために、常軌を逸した行動を取る人もいたのかもしれません。
「ノーパン喫茶」で人気を誇ったウエイトレス・イヴ
正統派風俗よりも過激度が劣る「ノーパン喫茶」は、次第に廃れていきます。
そんな中、起死回生を図るために、1983年頃から客が好きなウェイトレスを指名して個室に連れ込み、ハンドフィニッシュのサービスを受けられる風俗店化が進みました。
これにより、「ノーパン喫茶」は第2次ブームを迎えました。
そして、このブームを牽引する存在として圧倒的な人気を誇っていたウェイトレスがイヴさんであり、新宿歌舞伎町にある「USA」というノーパン喫茶の看板娘でした。
イヴさんは、地元である静岡のデパートでデパートガールをしていましたが、友人から高時給のウェイトレスの仕事があると紹介されて「USA」に在籍しました。
イヴさんはアイドルのようなルックスと、天真爛漫な明るいキャラクター、サービス精神旺盛な性格で瞬く間に話題に。
ブームの絶頂期には、イヴさんに相手をしてもらうために長蛇の列ができるほどでした。
山本 イヴちゃんは性格が明るくて気さくだし、サービスも満点。まだ「ノーパン喫茶の女王イヴ」と騒ぎになる前、取材で店を訪れたときに「あの子はいいねぇ」と店の人に話したら、「ええ、指名も多いです」と言っていた。それがマスコミに紹介されると、一気に火が付いた。
イヴ 山本カントクには「かわいい顔して下ネタもチラッと言う。天然だね」と言われたことを覚えています(笑)。
みうら カントクが『トゥナイト』でイヴちゃんを紹介したことも大きかったんだと思います。『トゥナイト』の宣伝力は、いまのネットの比じゃないですから。カントクが番組でレポートした翌日はお客が殺到して店に入れませんでした。
なお、イヴさんはその後「イヴちゃんの花びら」としてポルノ女優デビューも果たしています。
「ノーパン喫茶」が消えた理由
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「ノーパン喫茶」は、1985年2月に施行された改正風俗営業法によって営業が難しくなり、多くの店舗が閉店し、その他の店舗はファッションヘルスの風俗店へと転業しました。
「ノーパン喫茶」はそうした煽りを受けてブームが鎮静化、風俗業態として再ブームを果たすものの、店舗数は最盛期の18分の1以下になっていたと言われています。
もちろん、現代では「ノーパン喫茶」という看板は風俗街でも見ることはありません。
「ノーパン喫茶」の現在
現在はファッションヘルスになっている
「ノーパン喫茶」が完全に終焉してしまった理由は、よりサービスが過激な風俗業態のファッションヘルスに客が流れ、生き残る事ができなかったからだと言われています。
ただ、「ノーパン喫茶」は、あくまで日常の空間においてウェイトレスのアソコを拝めるかもしれない、というシチュエーションにエロティシズムが感じられる文化でした。
みうら 客も恥ずかしがっている体でやらないと、ノーパン喫茶は成立しませんから。だから個室のサービスが出てきた頃からノーパン喫茶が風俗になってしまい、ブームがしぼんでしまったような気がします。
「ノーパン喫茶」が廃れた後に、その流れを受け継いだのがガールズ居酒屋やセクシービキニ居酒屋だと言われています。
こうしたお店の中には、乳首を拝めるブラチラや、下着を拝めるパンチラなどの裏メニューがあり、さらにボディタッチができるお店もあるようです。
まとめ
1980年代頭にブームが起きたエロティシズムな文化「ノーパン喫茶」について、発祥からブームなどの歴史と消えた理由、現在についてまとめてきました。
日常空間の中であり得ないエロを体験できるという「ノーパン喫茶」は、まさに昭和ならではのお店だったと言えます。