中西正一さんは作詞家のなかにし礼さんの兄であり、小説『兄弟』のモデルとなった人物です。
今回は中西正一さんの家族や経歴、なかにし礼さんとの絶縁、風吹ジュンさんの誘拐事件、結婚した嫁や子供(森田童子さん)、死因をまとめました。
この記事の目次
中西正一はなかにし礼の兄&「兄弟」のモデル
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「北酒場」や「石狩挽歌」など昭和歌謡のヒット曲を生み出した作詞家であり、『長崎ぶらぶら節』で直木賞を受賞した小説家のなかにし礼さん。
中西正一さんは、そんな有名人で才能あふれるなかにし礼さんの兄ですが、借金を作り、家族に迷惑をかけてきた破天荒な人物で、なかにし礼さんの小説『兄弟』のモデルでもあります。
また、シンガーソングライターの森田童子さんの父親としても知られています。
中西正一の家族:両親
中西正一さんの家族情報を見ていきましょう。まずは両親です。
中西正一の父親
中西正一さんの父親(政太郎さん)は満州で商売をしていました。
もともとは北海道小樽市にいましたが、1933年に満州に渡り、酒造業で関東軍にお酒を納めたり、ガラス工場やホテルを経営して、かなり裕福な生活をしていました。
しかし、出張中に終戦になり、ソ連軍に拘束されてシベリア抑留となり、強制労働に従事することになりました。
そして、そのまま体を壊して、日本に戻ることなく亡くなったようです。
中西正一の母親
中西正一さんの母親の詳細は不明です。
弟のなかにし礼さんとは、異母兄弟(異父兄弟という説もあり)ですので、満州で一緒に暮らした母親とは血のつながりがないものと思われます。
中西正一の家族:兄弟 【弟はなかにし礼】
中西正一の弟
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中西正一さん弟は昭和歌謡曲の作詞家であり、直木賞作家でもあるなかにし礼さんです。なかにし礼さんは14歳年下の弟でした。
なかにし礼さんが作詞した楽曲には、次のような代表作があります。
・「恋の奴隷」
・「さくらの唄」
・「恋のフーガ」
・「石狩挽歌」
・「時には娼婦のように」
・「北酒場」
・「まつり」
・「AMBITIOUS JAPAN!」
石原裕次郎さんからTOKIOまで、非常に幅広いですね。
1969年の時点で総売り上げ枚数は1000万枚を突破し、なかにし礼さんが作詞した楽曲は日本レコード大賞を3回受賞、さらに日本作詞大賞は2回受賞しました。
また、小説家としても活躍しています。
・『長崎ぶらぶら節』
・『赤い月』
・『てるてる坊主の照子さん』
『兄弟』は兄の中西正一さんをモデルとした内容で直木賞候補になり、2000年に『長崎ぶらぶら節』で直木賞を受賞しました。
中西正一の妹
中西正一さんには、7歳年下の妹・宏子さんもいました。
ただし、この妹については具体的な情報はありません。
終戦の時は満州にいて、弟のなかにし礼さんや母親と一緒に日本に引き揚げてきています。
中西正一の経歴
中西正一さんの経歴を若い頃から見ていきます。
特攻隊で終戦を迎える
中西正一さんは1924年に北海道で生まれます。
そして1933年、父親の仕事の都合で満州に渡り、満州では1、2位を争うほどの裕福な家庭で過ごしました。
その後、大学進学のために1人で日本に戻り、立教大学に進学します。
戦争末期には学徒出陣で陸軍に入隊し、特別操縦見習士官として特攻隊に配属されましたが、出征することなく終戦を迎えました。
事業の失敗を繰り返す
終戦後は満州から引き揚げてきた母親や弟のなかにし礼さんと合流し、一家の大黒柱として事業を起こします。
1947年からはニシン漁を行いますが、長続きせずに東京→青森→東京と転居を繰り返しました。
1950年頃は、青森県の三沢基地で通訳の仕事をしていたこともあったようです。
東京に拠点を移してからは、一獲千金の夢に取りつかれて、事業を起こしては失敗することを繰り返していました。
しかし一攫千金の夢に取り憑かれ、博打のようにコロコロと稼業を変えたという。
「兄貴は、押出しのある雰囲気でしたから、金のありそうな人のところに行って『一緒に仕事をやろう』と持ちかけると、相手は信用する。それで、兄貴は社長になって、相手が工面した金を使ってしまい、会社が潰れる。その繰り返しですよ」
このような生活をしていましたので、中西正一さんはどんどん借金が膨れ上がっていきました。
借金を作りながらもなかにし礼のお金で豪遊
中西正一さんの借金が膨れ上がっていくのと時を同じくして、弟のなかにし礼さんは作詞家として人気が出てきました。そして、大金を稼ぐようになっていきます。
すると、中西正一さんは弟のなかにし礼さんに金の無心をして、なかにし礼さんのお金で豪遊するようになったのです。
また、なかにし礼さんの印税が自分の銀行口座に入るようにもしていたといい、これを聞くだけで、中西正一さんは相当ヤバイ人物であることがわかると思います。
中西正一は兄弟のなかにし礼から絶縁されている
借金をなかにし礼にかぶせて行方不明に
借金を作りながらも、弟のなかにし礼さんのお金で豪遊していた中西正一さんは、1970年に本人に黙って、なかにし礼さんを生命保険に加入させました。
そしてその後、自分の事業失敗で作った借金4億円と、個人的な借金2億円を弟に全部かぶせて、失踪してしまいました。
この失踪は、おそらく1973年頃と思われます。1973年に弟のなかにし礼さんは中野の自宅と北青山のビルを売却し、さらに借金3億円を背負っています。
弟は兄の借金を返しながらも、ヒット曲を生み出し続けていたのです。
戻ってきたらまた借金
そんなある日、中西正一さんはひょっこり帰ってきました。
弟のなかにし礼さんはそんな兄を見捨てることなく、1975年には自分の会社である「ナカニシオフィス」の役員にします。
しかし、中西正一さんは今度はクラブの女性に入れあげて、2000万円の借金を作っていることが発覚。
6億円の借金を弟にかぶせて、自分は失踪。その後、帰ってきて仕事をもらったのに、また借金・・・。中西正一さんは、どうしようもない破天荒な性格であることは間違いないでしょう。
兄の中西正一さんのことを、なかにし礼さんは次のように回想しています。
「ずるくて、強欲で、無責任でどうしようもないところのある兄貴でした」
中西正一さんに勝手に自分の生命保険を掛けられた時には、命の危険すら感じたなかにし礼さんは、「いつか殺されるのではないか?」とまで追い詰められていたそうです。
ついには絶縁
弟のなかにし礼さんは、兄の中西正一さんをあまり邪険に扱うと、母親が悲しむと思って我慢してきました。
しかし、1977年に母親が亡くなったことで絶縁を決意し、1980年に中西正一さんは弟から絶縁を言い渡されたのです。
中西正一さんが役員を務めていた「ナカニシオフィス」も畳んでしまいました。
なかにし礼さんは兄の中西正一さんにかなり苦しめられていたため、絶縁してから16年後に兄の訃報を聞いた時には「ばんざい!」とつぶやいたそうです。
中西正一は風吹ジュン誘拐事件の犯人
女優の風吹ジュンさんが、若手の頃に誘拐された事件があったことを知っていますか?
この風吹ジュン誘拐事件の犯人が、中西正一さんだったのです。
中西正一はアド・プロモーションの重役だった
1971年頃、「アド・プロモーション」という芸能事務所が設立され、風吹ジュンさんはアド・プロモーションにスカウトされて芸能界入りします。
このアド・プロモーションは前田亜土さんという男性が社長として設立した事務所ですが、中西正一さんとなかにし礼さんは、このアド・プロモーションの重役・役員という立場でした。
前田亜土さんは中西正一さんの次女の夫であり、中西正一さんとは舅・婿という関係でした。
前田亜土さんにとっては中西正一さんが義理の父、なかにし礼さんが義理の叔父という間柄ですね。
1974年に風吹ジュンを誘拐
風吹ジュンさんは、アド・プロモーションと仮契約を結んだ状態で、1973年に写真集を出版。
さらに1974年には歌手デビューをしました。デビュー曲は25万枚のヒットとなり、一躍スターとなっています。
しかし、風吹ジュンさんの当時の月収は23万円でした。
当時、風吹はアド・プロモーションという事務所と仮契約を結んでいたが、レコードがヒットしても月給は23万円に過ぎなかった。
待遇に不満を持った風吹ジュンさんは、アド・プロモーションの倍の月収を提示してきたガル企画に移籍してしまったのです。この移籍は1974年9月9日のことでした。
その3日後の1974年9月12日、フジテレビでの収録を終えた風吹ジュンさんの前にアド・プロモーションのマネージャーなど3人が現れ、風吹ジュンさんを喫茶店に連れ去りました。
風吹ジュンさんは不安に思い、新事務所のガル企画の石丸社長に電話をかけると、「その人たちの指図通りに動けばよい」と言われたため、そのまま車でホテルまでついていきました。
そして、ホテルの部屋に入ると、アド・プロモーションの社長である前田亜土さんや中西正一さんが現れて、ガル企画との契約を考え直すように迫ったのです。
石丸社長も監禁
風吹ジュンさんを誘拐しているのと同時に、弟のなかにし礼さんはガル企画の石丸社長の監禁に関わっていました。
借金があった社員の借金返済のために、石丸社長は暴力団の事務所にを連れていかれ、監禁されていたのです。
暴力団の組長は、なぜかなかにし礼さんに電話をかけ、その後に中西正一さんに石丸社長の身柄を引き取るように話しました。
こで石丸社長は中西正一と電話で話すことになったが、その際、中西正一は、石丸社長の身柄引き取りの条件として、風吹ジュンが石丸社長に書いた委任状を渡し、風吹との契約を解除し、石丸社長がなかにし礼に貸した280万円の借金を帳消しにすること、を突きつけた。
この時に、風吹ジュンさんが石丸社長に電話をかけてきて、石丸社長は指図に従うようにと言ったんですね。
石丸社長はこの後に釈放されて、警察に行きます。
警察は風吹ジュンさんを救出するために、警察官80人とパトカー20台をホテル前に待機させ、「翌日の仕事用の衣装を取りに行く」とロビーに降りてきた風吹ジュンさんを保護しました。
刑事告訴されている
この風吹ジュンさん誘拐事件は、芸能事務所の稼ぎ頭である風吹ジュンさんの事務所移籍を阻止すべく、中西正一さんやなかにし礼さんが仕組んだ誘拐事件でした。
この誘拐事件では、風吹ジュンさんと石丸社長が中西正一さんと前田亜土さん、なかにし礼さんを監禁、強要、強盗傷人などで刑事告訴しています。
風吹ジュンさん誘拐事件では、中西正一さんが事件の犯人として一番クローズアップされましたが、実はなかにし礼さんが黒幕で事件を仕組んだのではないか?とも言われています。
なかにし礼さんは当時、すでに超売れっ子の作詞家で、テレビにも出演していました。
それに対し、中西正一さんは借金を作って、それを弟に全部かぶせて行方不明になるというどうしようもない破天荒な人物でした。
そのため、芸能界特有の忖度が働いて、中西正一さんがクローズアップされたのかもしれません。
中西正一と結婚した嫁の苦労エピソード
中西正一さんは1947年頃には結婚しています。終戦後すぐのことですね。
嫁はどのような人物なのかはわかっていませんが、苦労したことは間違いないでしょう。
中西正一さんは事業に何度も失敗し、借金を作っています。また、無職の時期もあったので、弟のなかにし礼さんの家に家族で居候していたこともありました。
また、お金で苦労しただけでなく、女性問題でも苦労したようです。
中西正一さんの嫁の苦労ポイントを挙げてみましょう。
・無職で弟の家に居候する
・夫が借金を残して失踪する
・風吹ジュンさん誘拐事件に関わっていた
・クラブの女に入れあげて2000万円の借金を作る
・売れっ子作詞家の弟に絶縁される
この途中で離婚したのかどうかは不明ですが、中西正一さんの嫁が苦労したことは間違いないでしょう。
中西正一の子供は3人・次女は森田童子
中西正一さんの子供は3人います。女の子が2人、男の子が1人です。
・次女(森田童子)
・弟
森田童子は次女
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森田童子
生年月日:1952年1月15日
没年月日:2018年4月24日
出身:東京都
所属:小澤音楽事務所
活動:シンガーソングライター
中西正一さんの次女は森田童子です。
森田童子さんは1975年、「さよなら ぼくの ともだち」でデビューし、一部で熱狂的なファンを得ていましたが、1984年に音楽活動を休止したシンガーソングライターです。
1993年にTBSで放送された「高校教師」の主題歌である「ぼくたちの失敗」で、森田童子さんを知った人は多いかもしれません。
「ぼくたちの失敗」は100万枚の大ヒットになり、あのはかなげで透き通るような声が印象的でした。
この森田童子さんが、アド・プロモーションの社長である前田亜土さんと結婚したことで、中西正一さんと前田亜土さんは義理の親子の関係性になったんですね。
一部報道では、森田童子さんは活動休止後にマネージャーだった前田亜土さんと結婚したとあります。
ですが、森田童子さんがデビューする1年前の風吹ジュンさん誘拐事件の時点で、結婚していた可能性が高いようです。
1974年の風吹ジュン事件の雑誌記事には妻・前田美乃生になっているから既に夫婦だった。
しかし事実婚かもしれない。
森田童子さんのファンの間では、1980年の森田童子さんのワーナー移籍は父親の中西正一さんと叔父のなかにし礼さんの絶縁が関係していると言われています。
なお、森田童子さんは活動休止後は主婦として生活していましたが、2018年に自宅で心不全で亡くなっています。
中西正一は1996年に死去している・死因は不明
中西正一さんは、1996年(一部情報では1994年)に埼玉県上尾市で亡くなっています。
死因は不明ですが、なかにし礼さんが中西正一さんの死を聞いて「バンザイ!」とつぶやいたのは前述の通りです。
そして、なかにし礼さんは翌年に中西正一さんをモデルにした『兄弟』を執筆し始めています。
中西正一のまとめ
中西正一さんの家族や経歴、なかにし礼さんからの絶縁や風吹ジュンさん誘拐事件との関係、結婚した嫁や子供(森田童子さん)、死因などをまとめました。
中西正一さんはあまりにも破天荒な人生でした。
もともとの気質もあると思いますが、満州で事業に成功した父親、さらに超人気作詞家となった弟の姿を見て、「自分も何かやらなければ!」という思いに取りつかれたのかもしれませんね。