かとう哲也さんは、戦後代表する国民的大歌手・美空ひばりさんの実弟です。
この記事では、美空ひばりさんの弟のかとう哲也さんの生い立ちや歌手や俳優としての活躍、問題になった山口組との関係や逮捕歴、死因が事故死の噂や本当の死因などについてまとめました。
この記事の目次
- かとう哲也(美空ひばりの実弟)のプロフィール
- かとう哲也(美空ひばりの実弟)の生い立ち① 美空ひばりの4歳下の弟として誕生
- かとう哲也(美空ひばりの実弟)の生い立ち② 16歳で歌手デビュー
- かとう哲也(美空ひばりの実弟)の生い立ち③ 俳優として多数の東映映画に出演
- かとう哲也(美空ひばりの実弟)の生い立ち④ 暴力団員になり何度も逮捕される
- かとう哲也(美空ひばりの実弟)の生い立ち⑤ 芸能界復帰し美空ひばりのプロデュースでも活躍
- かとう哲也(美空ひばりの実弟)の生い立ち⑥ 結婚するも10ヶ月で離婚
- かとう哲也(美空ひばりの実弟)は山口組系益田組の舎弟頭と発覚し問題に
- かとう哲也(美空ひばりの実弟)の実子・加藤和也は美空ひばりの養子
- かとう哲也(美空ひばりの実弟)の死因が事故死の噂はデマ
- かとう哲也(美空ひばりの実弟)の死因は心不全
- まとめ
かとう哲也(美空ひばりの実弟)のプロフィール
かとう哲也のプロフィール
本名 :加藤益夫
別芸名 :小野透
生年月日:1941年1月15日
没年月日:1983年10月24日(享年42歳)
出身地 :神奈川県横浜市磯子区滝頭
かとう哲也さんは、昭和を代表する歌姫・美空ひばりさんの実弟です。
過去には小野透の芸名で歌手や俳優として活躍し、東映の映画作品を中心に出演しています。かとう哲也さんは1962年に21歳で芸能界を引退しており、その後は音楽プロデューサー、芸能プロモーターとして姉の美空ひばりさんの活動に関わりました。
かとう哲也さんは作曲家としても活動し、姉の美空ひばりさんの楽曲では、多くの有名歌手がカバーしている大ヒット曲の「人生一路」をはじめ、「風の恋人たち」、「人生将棋」、「思い出の鞄」、「私はおんな」、「恋のパープル・レイン」、「女飛車角」、「月下美人」、「江戸ッ子佐七」、「母」、「ふるさとはいつも」などを作曲しています。
かとう哲也さんは、姉の美空ひばりさんの芸能活動をプロデューサーとして助ける一方で、山口組系の暴力団増田組の組員になり舎弟頭になっており、賭博や拳銃不法所持、拳銃密輸、暴行、傷害などで度々逮捕されています。この事が問題視され、美空ひばりさんの芸能活動が大きく制限される原因にもなりました。
また、このかとう哲也さんの実子の加藤和也さんは、美空ひばりさんの養子になり、その後「株式会社ひばりプロダクション」の代表取締役社長となり、現在も美空ひばりさんのコンテンツを保護する活動に力を注がれています。
この記事ではこのかとう哲也さんについてまとめていきます。
かとう哲也(美空ひばりの実弟)の生い立ち① 美空ひばりの4歳下の弟として誕生
写真正面から見て後列左側がかとう哲也(真ん中は美空ひばりさん、右側は弟の武彦さん)
かとう哲也さんは、1941年1月15日に、神奈川県横浜市磯子区で、滝頭魚屋「魚増」を経営する父・加藤増吉、母・喜美枝さんの長男として誕生しました。
かとう哲也さんは4人姉弟で、4歳年上の長姉の美空ひばりさんのほか、3歳年上の次姉の勢津子さん(演歌歌手の佐藤勢津子さん)、2歳年下の弟の武彦さんがいました。
かとう哲也さんが生まれたのは戦争の時代でしたが、両親は音楽が好きで家にはレコードが置いてあったそうです。また、姉の美空ひばりさんが幼い頃から天才的な歌の才能を示した事から、かとう哲也さんもその影響を受けて幼い頃から音楽や歌に触れながら成長したようです。
かとう哲也(美空ひばりの実弟)の生い立ち② 16歳で歌手デビュー
かとう哲也さんは、美空ひばりの実弟という売り込みで、1957年にコロムビアレコードから「小野透」の名義で歌手としてデビューしました。
この、かとう哲也さんの歌手デビューは、既に若手のスター歌手として国民的人気を得ていた姉の美空ひばりさんの実弟という話題性を利用した企画的なものでした。
1958年頃からは美空ひばりさんとのデュエット曲として「お姉さんは恋人のよう」、「危険な恋人」、「恋を待つならバス・ストップ」などの楽曲を発表しています。
1958年11月9日には、小野透の歌手デビューを祝うコンサート「姉弟リサイタル」を東京サンケイホールで開催しています。
かとう哲也(美空ひばりの実弟)の生い立ち③ 俳優として多数の東映映画に出演
かとう哲也さんは歌手デビューとほぼ同時に俳優としても売り出されており、主に東映映画を中心に出演しました。
かとう哲也さんの俳優としてのデビュー作は、1958年の東映映画「ひばりの花形探偵合戦」で、姉の美空ひばりさんと、当時の国民的俳優・高倉健さんのダブル主演の話題作だったこの映画に、かとう哲也さんは準主役的な立ち位置での俳優デビューでした。次作の「希望の乙女」でも、美空ひばりさんと高倉健さんと共演しており、この事からも、かとう哲也さんを美空ひばりの実弟という触れ込みで大々的に売り出そうとしていた事がわかります。
その後もかとう哲也さんは次々と東映映画に出演しており、1959年の東映映画「台風息子 花形三銃士」で初主演を飾っています。
翌1960年には新たに設立された第二東映の売り出し戦略の一環として、「殴りつける十代」、「波止場野郎」、「嵐の中の若者たち」の3作品に主演。
さらに1961年にも第二東映映画、「銀座野郎」と「ネオンの海の暴れん坊」に主演。同年2月に第二東映がニュー東映に改称された後も、「飛ばせ特急便 深夜の脱獄者」、「飛ばせ特急便 魔の十八号線」の飛ばせ特急便シリーズ、「台風息子 お化け退治」、「台風息子 冒険旅行の巻」の台風息子シリーズの他、「風の野郎と二人づれ」、「銀座の旅笠」など多数の東映系映画に主演しています。また、1961年11月に公開されたニュー東映映画「悪魔の手毬唄」では、再び高倉健さんと共演しています。
しかしその後、ニュー東映自体が客が入らずに解散する事となり、その後、1962年に美空ひばりさん主演の東映映画「民謡の旅・桜島 おてもやん」に出演したのを最後に、かとう哲也さんは芸能界を引退しています。
かとう哲也(美空ひばりの実弟)の生い立ち④ 暴力団員になり何度も逮捕される
芸能界引退後のかとう哲也さんは、国民的スターの美空ひばりさんの実弟であるが故に芸能界で活躍できた事にコンプレックスを抱いていていたようで、次第に生活面が荒れ、山口組系の暴力団関係者とつるむようになり、程なくして山口組系暴力団益田組の暴力団員になっています。
そして、1963年3月には、横浜市磯子区の間坂の美空ひばりさんの自宅に家宅捜索が入り、かとう哲也さんは、山口組系益田組の5人と共に、賭博幇助、賭博開帳図利等の容疑で逮捕されてしまいます。
さらに、かとう哲也さんは、1964年には拳銃の不法所持、1966年には、傷害、暴行、拳銃密輸の容疑で逮捕される事を繰り返しました。
かとう哲也(美空ひばりの実弟)の生い立ち⑤ 芸能界復帰し美空ひばりのプロデュースでも活躍
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かとう哲也さんは、1969年に「かとう哲也」の芸名で再び芸能界に復帰し、姉の美空ひばりさんの公演にも歌手として参加しています。
この頃からかとう哲也さんは芸能プロモーターとして美空ひばりさんのプロデュースにも関わるようになり、美空ひばりさんに新たにジャズを歌わせたりと新たな境地を切り開きました。
かとう哲也(美空ひばりの実弟)の生い立ち⑥ 結婚するも10ヶ月で離婚
1969年にかとう哲也さんは、美空ひばりさんの付き人でその興行にも参加していた歌手の円山鈴子(後の女優円山理映子)さんと結婚されています。
かとう哲也さんと円山鈴子さんの新婚旅行先はハワイで、美空ひばりさんや母親の加藤喜美枝さんも同行されています。
しかし、かとう哲也さんと円山鈴子さんはそのわずか10ヶ月後に離婚しています。この円山鈴子さんとの間に、1971年8月10日に子供の加藤和也さんが誕生していますが、既に離婚していた事もあり、和也さんは美空ひばりさんに引き取られて養育されています。
かとう哲也(美空ひばりの実弟)は山口組系益田組の舎弟頭と発覚し問題に
芸能界復帰後は、美空ひばりさんのプロデュースを手がけ、その公演にも参加していたかとう哲也さんでしたが、1973年に、かとう哲也さんが三代目山口組系の暴力団益田組の舎弟頭だった事が発覚し、当時の暴力団排斥の動きの強まりも関連して、美空ひばりさんの劇場からの追放運動が起こってしまいました。
当時の芸能界は興業を山口組が取り仕切るのが慣例となっており、美空ひばりさんの個人事務所は、山口組三代目組長の田岡一雄氏が立ち上げた芸能事務所「神戸芸能社」傘下だった事もあって元々関係が深く、かとう哲也さんが暴力団関係者である事は周知の事実でしたが、見せしめの意味もあって、それがあえて表に出されて攻撃の対象とされたという事でしょう。
- 同年、賭博開帳図利や銃刀法違反等でかとう哲也さんは逮捕され、執行猶予付きの判決を受けましたが、翌1974年に「保護観察中も暴力団と付き合った」のを理由に執行猶予が取り消され、2年間刑務所に服役しています。
出所後にはかとう哲也さんは山口組と絶縁し、1981年に改めて「ひばりプロダクション」の社長に就任され、晩年は美空ひばりさんのプロデュースに力を注がれました。
かとう哲也(美空ひばりの実弟)の実子・加藤和也は美空ひばりの養子
かとう哲也さんの実子の加藤和也さんは、1977年に正式に美空ひばりさんと養子縁組して親子関係を結んでいます。
それまでも加藤和也さんは美空ひばりさんに息子として養育されていましたが、実父のかとう哲也さんとの親子としての交流も普通にあったようで、和也さんが10歳の頃に、かとう哲也さんが赤坂の高級クラブに連れて行ったエピソードなども知られています。
その後、加藤和也さんは父の後を継ぐ形で「ひばりプロダクション」の社長に就任し、現在もその経営に力を注がれています。
かとう哲也(美空ひばりの実弟)の死因が事故死の噂はデマ
かとう哲也さんは、1983年10月24日に42歳の若さでこの世を去っています。かとう哲也さんの死因が事故死という噂が存在するのですが、これは事実ではありません。
おそらくこの噂には、姉の美空ひばりさんが9歳の頃に大きな交通事故に遭っている事や、出版社「株式会社カーグラフィック」の社長の加藤哲也(かとう哲也さんとは別人)さんが、2017年に高級外車で交通事故を起こした事が関連しているようです。
かとう哲也さんが実際に関連した事故の情報は一切ありません。
かとう哲也(美空ひばりの実弟)の死因は心不全
かとう哲也さんの本当の死因は「心不全」と発表されています。享年は42歳(1983年10月24日死去)とかなり若いのですが、死去する少し前に体調を崩して入院していたそうです。
しかし、息子の加藤和也さんとは入院の直前に焼肉に行く約束をするなど、元気な様子だったそうで、本当に突然の死だったようようです。
美空ひばりさんは最愛の弟であったかとう哲也さんを亡くした事で力を落とされ、酒の量が増えた事も原因となって体調を崩され、かとう哲也さんの死からわずか5年半後の1989年6月24日に52歳の若さで亡くなっています。美空ひばりさんの死因は「特発性間質性肺炎による呼吸不全」でした。
まとめ
今回は、戦後を代表する歌姫・美空ひばりさんの実弟で、歌手や俳優としても活躍されたかとう哲也さんについてまとめてみました。
かとう哲也さんは、美空ひばりさんの4歳年下の弟として生まれ、16歳の頃に既に国民的スター歌手であった美空ひばりさんの実弟という売り込みで歌手デビューしました。その後は美空ひばりさんとのデュエット曲を発表したり、俳優として東映映画などに出演したりと活躍した後、1962年に芸能界を引退しています。
かとう哲也さんはその後、山口組系の暴力団益田組の組員となり、銃刀法違反や賭博罪などで何度も逮捕されています。その後、かとう哲也さんは再び芸能界に復帰して姉の美空ひばりさんのプロデュースなども手がけましたが、1973年にかとう哲也さんが山口組系の暴力団益田組の舎弟頭だった事が問題視され、美空ひばりさんが劇場から締め出される事態につながりました。
かとう哲也さんはその後も「ひばりプロダクション」の社長として美空ひばりさんを支え続けましたが、1983年10月24日に42歳の若さでこの世を去りました。死因は事故死の噂もありましたが、本当の死因は「心不全」です。