NHK朝ドラ「てるてる家族」のモデルであり、なかにし礼さんの妻として有名な石田ゆりさんですが、若い頃も話題です。
今回は石田ゆりさんの若い頃の経歴、旦那のなかにし礼さんとの結婚や馴れ初め、子供、闘病生活や現在を紹介します。
この記事の目次
石田ゆりのプロフィール
出典:https://idol.ne.jp/
本名: 石田 由利子(いしだ ゆりこ)
生年月日:1951年11月23日
出身地:大阪府池田市
血液型:不明
身長・体重:不明
職業:歌手、女優
ジャンル:歌謡曲
活動期間:1970年 – 1971年、1978年 – 1980年
レーベル:東芝音楽工業
石田ゆりさんは、ブレイクこそしなかったものの1970年代に活動していた元歌手です。
なかにし礼さんの妻であり、歌手のいしだあゆみさんの実妹でもあります。
ちなみに、夫のなかにし礼さんは「北酒場」や「石狩挽歌」など、昭和歌謡史を彩ったヒット曲の作詞家であり、直木賞作家です。
いしだあゆみの実妹で姉は石田治子
石田ゆりさんは4人姉妹の末っ子です。
長女は、1968年の冬季オリンピックにフィギュアスケート日本代表選手として出場した石田治子さん。
次姉のいしだあゆみさんは、「ブルーライト・ヨコハマ」などヒット曲を多数持つ大御所歌手であり、ドラマ「北の国から」や映画「駅 STATION」などで女優としても活躍しました。
まさに、才能に溢れた姉妹だったようです。
石田ゆりと石田ゆり子は別人
石田ゆりさんの名前を検索すると、現在活躍中の女優である石田ゆり子さんの名前がしばしばヒットします。
とてもよく似た芸名なので混同しがちですが、石田ゆりさんと石田ゆり子さんは全くの別人で血縁的にも関係がありません。
石田ゆり子さんも妹の石田ひかりさんが女優として活躍しており、姉妹で芸能人という境遇も似ているため間違いやすいと言えるでしょう。
石田ゆりは「てるてる家族」のモデル
石田ゆりさんは、2003年度下半期のNHK連続テレビ小説「てるてる家族」の主人公・冬子のモデルとしても有名です。
「てるてる家族」は、なかにし礼さんの著書である『てるてる坊主の照子さん』が原作。
大阪を舞台とした、肝っ玉母さんと4姉妹の成長を描いた物語で、登場するヒロインで末っ子の冬子は石田ゆりさんがモデルだったんです。
このヒロイン役を決めるオーディションには2000人が応募し、その中から石原さとみさんが冬子役に起用されています。
その他、共演者には浅野ゆう子さん、岸谷五朗さん、上野樹里など豪華な顔ぶれのドラマでした。
石田ゆりの若い頃の経歴① 宝塚入団を蹴って歌手デビュー
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石田ゆりさんは、1968年に大阪にある梅花女子高校に1年間在籍した後、かねてから憧れを抱いていた宝塚音楽学校に編入します。
同級生には、小柳ルミ子さんや麻美れいさんなどがいました。
1970年に同校を卒業後、「名月ゆり」の芸名で宝塚歌劇団への入団が決まっていたものの、入団を辞退して上京し、芸映プロへ所属して歌手活動をスタートさせています。
石田ゆりの若い頃の経歴② リリースした楽曲は4曲
ここでは、石田ゆりさんが若い頃にリリースした4曲の楽曲について簡単に紹介してきます。
石田ゆりの若い頃の楽曲① 悲しみのアリア
すでに歌手としてブレイクしていた実姉いしだあゆみさんの実妹として、世間から注目を集めた石田ゆりさんのデビュー曲が「悲しみのアリア」です。
同年3月に、いしだあゆみさんのヒット曲「あなたならどうする」をなかにし礼さんと筒美京平さんが共作しており、「悲しみのアリア」もこの2人によるものでした。
「アリア」はイタリア語でオペラなどでの独唱を指しますが、その曲名通り、優雅な印象の曲に仕上がっていたものの、姉のいしだあゆみさんほど鮮烈な印象は与えられなかったようです。
石田ゆりの若い頃の楽曲② 愛ある限り
石田ゆりさんのセカンドシングル「愛ある限り」は、作曲が川口真さん、作詞がなかにし礼さんで、 「私があなたを愛しているかぎり」のフレーズのリフレインが特徴的な美しい曲です。
歌謡界では一般的に、セカンドシングルはファーストシングルの売り上げを超えるのは難しいと言われていますが、この曲もデビュー作ほどは売れなかったと言われています。
石田ゆりの若い頃の楽曲③ 愛を知ったから
サードシングル「愛を知ったから」は、なかにし礼さんと筒美京平さんの共作に戻りました。
ただ、売れ行きはセカンドシングルよりもさらに落ち込んでしまいました。
石田ゆりの若い頃の楽曲④ いつも二人
1971年に立て続けに3曲リリースし、通算4曲目となる最後のリリース曲が 「いつも二人」です。
この楽曲もなかにし礼さんと筒美京平さんのコンビによるものでしたが、これもヒットすることはなく、石田ゆりさんの芸能界引退を決定づける曲となってしまいました。
なお、このシングルのB面には「嫁ぐ朝」が収録され、リリースした直後に石田ゆりさんとなかにし礼さんが結婚するというロマンチックな展開となりました。
石田ゆりの若い頃の経歴③ 女優として「ムー一族」などに出演
石田ゆりさんは、なかにし礼さんと結婚した後に一度芸能界を引退しています。
しかし、1978年にスタートしたTBSドラマ「ムー一族」に、居酒屋の女将役で出演して話題になりました。
このドラマの演出は、TBSの敏腕プロデューサーだった久世光彦さん。
物語の進行中に突然「ムー情報」が挿入されたり、郷ひろみさんと樹木希林さんが挿入歌を踊りながら歌い出したりと、それまでのドラマの概念をうち壊す演出で注目を集めました。
石田ゆりさんはその後、ドラマ「風光る・亜紀子」にも出演しましたが、これを最後にテレビ出演から遠ざかりました。
石田ゆりの若い頃がピーターと似てる?
石田ゆりさんは、石田ゆり子さんとは芸名がよく似ていることで話題になりますが、ピーター(池畑慎之介)さんとはルックスがそっくりだと言われることもあるようです。
画像見る限りでは、少々キツネ目なところと、凛とした雰囲気は似ていると言って差し支えないレベルでしょう。
石田ゆりが結婚した旦那はなかにし礼
なかにし礼のプロフィール
本名: 中西禮三(なかにし れいぞう)
生年月日: 1938年9月8日~2020年12月23日
没年齢: 82歳
出身地: 満州国の牡丹江省牡丹江市
血液型: 不明
身長: 不明
体重: 不明
活動内容: 小説家・作詞家
所属グループ: 不明
所属事務所: 不明
なかにし礼さんは、大学在学中だった1963年に最初の妻となる女性と結婚し、娘をもうけました。
しかし、1966年に別居した後、1968年に離婚が成立しています。
この頃、石原プロにプロデュースした楽曲「涙と雨にぬれて」が大ヒット。1969年には総売上枚数が1000万枚を超えるなど、なかにし礼さんの出世作となりました。
その後、1998年には小説『兄弟』が第119回直木賞候補となり、2000年には小説『長崎ぶらぶら節』で晴れて第122回直木賞を受賞するなど作家としても成功。
前述の『てるてる坊主の照子さん』を始め、『赤い月』『夜盗』『さくら伝説』『戦場のニーナ』『世界は俺が回してる』『夜の歌』などを立て続けに執筆しています。
石田ゆりと旦那・なかにし礼の馴れ初め
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石田ゆりさんは、自身がリリースした楽曲4曲の全てを担当していたなかにし礼さんと1971年10月16日に結婚しています。
つまり、新人歌手と作詞家として2人は出会ったことになりますね。
結局、なかにし礼さんは石田ゆりさんを人気歌手にするような楽曲を作ることができませんでしたが、一方でかけがえのない生涯の伴侶を得ていたようです。
石田ゆりと旦那・なかにし礼の子供は2人
石田ゆりさんとなかにし礼さんの間には、長男の康夫さん、長女の夏奈子さんという2人の子供がいます。
長女はすでに結婚しており、旦那はフランス人のようです。
長男の康夫さんは音楽プロデューサーとして活躍中です。なお、奥様の女優・有沢比呂子さんは、2015年11月11日に心不全のため43歳の若さで亡くなられています。
石田ゆりは旦那はなかにし礼の闘病を支え続けた
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なかにし礼ががんになり、石田ゆりは介護生活
なかにし礼さんは、2012年に食道がんを発症したと言われています。
担当医師には手術を勧められたようですが、なかにし礼さんは自分が手術に耐えられる体ではないと自覚していたため手術を拒否したようです。
そんな中、なかにし礼さんはネットで治療法を探した結果、「陽子線療法」に出会って治療開始したところ、仕事を再開するほどまでに一時は回復しました。
ただ、その期間もわずかなもので、2015年にがんが再発。
再発したのは食道の裏側で気管支に近い場所だったようで、陽子線療法が使えない部位というだけでなく、いつ急変してもおかしくないと診断を受けたそうです。
そのため、石田ゆりさんは気落ちしたなかにし礼さんを毎日介護する生活となり、そのうち自身も介護うつを発症してしまいました。
そんな妻の異変をなかにし礼さんも気づき、同じ病院内にあった看病する家族の精神面を支える「精神腫瘍科」の医師に相談したところ、次第に石田ゆりさんは回復に向かったようです。
2020年に旦那・なかにし礼が死去
石田ゆりさんとなかにし礼さんがともに支え合いながら歩んできた闘病生活でしたが、2020年12月23日、なかにし礼さんは亡くなりました。享年82歳でした。
がん発覚後も、なかにし礼さんが男性の平均寿命以上生きることができたのは、献身的な石田ゆりさんの介護のおかげと言えるでしょう。
ただ、なかにし礼さんの死因はがんではなく、心筋梗塞でした。なかにし礼さんはもともと心臓が弱かったようで、手術を受けて心臓の機能を維持してきました。
そのため、加齢による寿命だったという見方もできるかもしれません。
石田ゆりの現在
石田ゆりはなかにし礼と『徹子の部屋』に出演
しばらくメディアへの出演がなかった石田ゆりさんですが、2015年と2019年に「徹子の部屋」に夫のなかにし礼さんと一緒に出演しています。
2015年に出演した時には、なかにし礼さんや子供達との生活や家族エピソードを語りました。
2019年に出演した時には、なかにし礼さんががんの闘病生活中でした。
そのため、その介護にあたっていた石田ゆりさんも介護うつになってしまったことや、その後に回復した経緯などを伝えています。
いろいろと大変な夫婦生活の中でも、それでもお互いに支えあって仲良く過ごしてきた様子が明かされたようです。
旦那・なかにし礼の死後
2022年1月14日に、なかにし礼さんの一周忌の追悼番組として「なかにし礼ヒット全集 一周忌追悼・名曲誕生秘話」が放送されました。
多くの歌手を新人賞や歌唱賞などに導いた、巨匠なかにし礼さんの活躍の軌跡を貴重な映像とともに紹介する2時間の特別番組でした。
もしかしたら、石田ゆりさんも自宅でゆっくりと当時の2人の関係に思いを馳せながら、懐かしくテレビを眺めていたかもしれませんね。
なかにし礼さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
まとめ
1970年代に歌手としてデビューした石田ゆりさんについて、若い頃にリリースした楽曲、なかにし礼さんとの馴れ初めや結婚生活、現在などをまとめてきました。
姉のいしだあゆみさんが歌手として一世を風靡した一方、妹の石田ゆりさんは芸能界での成功には縁がなかったものの、最愛のパートナーであるなかにし礼さんとの出会いがありました。
壮絶ながん闘病を支えた石田ゆりさんには、これからゆっくりと余生を楽しんで欲しいですね。