人気芸妓と娼妓を経て「阿部定事件」の犯人となった阿部定は、美少女だと評判だった生い立ちやその後も注目されています。
今回は阿部定について、生い立ち、阿部定事件の経緯や真相、その後や現在をまとめてみました。
この記事の目次
「阿部定事件」の犯人・阿部定の生い立ち① 評判の美少女~不良へ
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阿部定のプロフィール
名前:阿部定(あべ さだ)
生年月日:1905年5月28日
出身地:東京府東京市神田区(現:東京都千代田区神田多町)
芸妓や娼妓として生き、阿部定事件を起こした美少女の阿部定。その生い立ちは過酷なものでした。
阿部定は、東京都神田区新銀町(現在の東京都千代田区神田多町)の畳店「相模屋」の阿部重吉・カツ夫妻の間に、末娘として生まれました。
生まれたときは仮死状態で、母親の乳の出が悪くて1歳になるまで近所の家で育てられ、家族とは4歳になるまで会話ができなかったなど、生まれた瞬間から苦労をしてきたような人です。
幼児期の環境が関係しているのかは定かではありませんが、癇癪持ちでヒステリーな性格はこの体験が原因で形成されたのではないか、と考える人もいるようです。
美少女と評判の子供時代
阿部定は進学する前の幼少期から、母親の勧めで三味線や常磐津を習っており、近所からも「相模屋のお定ちゃん」と呼ばれる美少女として評判でした。
末娘ということもあり、母娘の年齢は孫ほども離れており、稽古事の時には毎回新しい着物を着せて着飾らせ、阿部定は幼い美少女でありながら大人っぽい風格をも漂わせていきます。
阿部定の美少女っぷりは両親の自慢でもあり、本人も両親の猫かわいがりを受けて、見栄っ張りで高慢とも言える性格が作られていきました。
両親は日常生活や学校生活よりも、歌や踊り、三味線の稽古を優先して育てていたことから、小学校の教師から注意されるような生活を送っていたようです。
10歳になる頃には性行為の意味を知るような早熟さで、この頃から他の少女とは違うカリスマ的なオーラのようなものがあったのかもしれません。
強姦されて不良少女に
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ほとんどを稽古事で過ごしていた阿部定は、学校には通ったものの、15歳の時に自主退学をしました。
さらにその頃、大学生と2人でふざけて遊んでいるうちに男子学生から強姦されてしまう騒動が起きます。
初体験を無理やり奪われ、2日間も出血が止まらなかった阿部定。
母がその男子学生と話をするために自宅まで赴いたものの本人には会えず、阿部定は泣き寝入りするしかなくなりました。
その後、阿部定は16歳で初潮を迎えました。初潮前に強姦されて心に傷を追い、自暴自棄になった阿部定はこの頃から不良少女へとなっていきます。
当時の日本は明治で、まだ処女であることが結婚の条件になるような、そんな時代でした。
阿部定は「もう自分は処女ではない、これを隠してお嫁に行くのは嫌だし、これを話してお嫁に行くのはもっと嫌だ。もうお嫁には行けない」と語り、ヤケになってしまったといいます。
不良少女への道に足を踏み入れた娘を心配し、母親は物を買い与えたり、優しい言葉をかけたようですが、自暴自棄になっている思春期の阿部定には逆効果で、更に非行に走ってしまいます。
その頃の阿部定は家から現金を持ち出して、不良仲間と共に浅草界隈で遊びまわっていました。
その額は、現代の金額に換算すると10万円から60万円という大金です。
この大金を手に、10人以上の不良少年を引き連れて凌雲閣で映画を見て、夜には居酒屋で豪遊し、夜遅くに帰宅するという生活を1年に渡って続けます。
浅草界隈を拠点に遊びふける阿部定を父親は激しく叱りつけ、家から閉め出したり、折檻を加えるなど厳しく躾けようとしていました。
しかし、当の阿部定は非行を止めることはなく、いつしか浅草の女極道「小桜のお蝶」とも張り合うまでになり、阿部定の名は地元神田まで届くほどに大きくなっていきました。
「阿部定事件」の犯人・阿部定の生い立ち② 人気芸妓から娼妓へ
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不良少女として遊びまわりながら、男性との交際を繰り返していた阿部定。
その放蕩ぶりを見かねた父と兄が「そんな男好きは芸妓になってしまえ」と、彼女が17歳の時に女衒の秋葉正義に売ってしまいました。
初めての店は、神奈川県横浜市住吉町の芸妓屋「春新美濃」で、前借金300円で契約しました。
ここでは源氏名を「みやこ」とし、生まれて初めて芸者の世界に足を踏み入れます。春新美濃には1年ほど在籍しました。
「平安楼」の芸妓に
1923年(大正12年)、関東大震災が起きた時、阿部定は当時交際していた女衒・秋葉の家に遊びに来ていました。
大震災で家が全焼した秋葉を助けるために、阿部定は富山県富山市清水町の芸妓屋「平安楼」に1000円以上の前借金をして店変えし、前の店に返済した残金から300円を秋葉に渡しました。
当時のお金の価値は諸説あり、当時の1円が現代の何円かというのは一概には言えませんが、少なくとも1000円あれば立派な家が建つほどの大金であったことは間違いありません。
震災後は秋葉一家の生活の面倒を見るようにもなり、秋葉は阿部定のヒモになりました。
阿部定は男を支えながら、芸妓として生きていたのです。
阿部定20歳、「三河屋」の芸者に
20歳になった頃、生活の全てを支えて面倒を見ていた秋葉に騙されていたことを知った阿部定は、彼と縁を切ることを決心しました。
しかし、「平安楼」の契約書が秋葉との連判であり、借金も残っていました。
その借金を返すため、1925年(大正14年)に長野県飯田市の「三河屋」に店変えをします。
しかし、ここでも女衒の手を借りなければ移転することができず、仕方なく秋葉との連判で契約をすることになりました。
三河屋で源氏名を「静香」とし、売れっ子芸者となったものの、性病にかかってしまいました。
飛田新地の高級遊郭「御園楼」へ
1927年(昭和2年)になると、大阪府大阪市西成区、飛田新地にある高級遊郭「御園楼」に店を変えました。
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前借金は過去最高額の2800円で契約、とうとう秋葉と手を切り、連判者は父親の重吉になりました。ここでは源氏名を「園丸」とし、売れっ子娼妓としてその名を轟かせていきます。
「御園楼」で働き始めて1年、馴染みとなった会社員の男性から身請け話が出ましたが、その客の部下も阿部定の常連だったことで、身請け話は白紙になりました。
身請け話が立ち消えになった後辺りから、阿部定は逃走を繰り返すようになり、失敗しては店を変え、飛田新地を飛び出して大阪・兵庫・名古屋などの娼館を転々としていったそうです。
最後には客層も悪い店となり、人気の売れっ子娼妓は落ちぶれていったのです。
最後の遊郭「大正楼」
1931年(昭和6年)、兵庫県篠山の下等遊郭「大正楼」に店変えした阿部定。ここが阿部定最後の遊郭となります。
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大正楼の建物は現在まで残り、観光地としても知られていましたが、2019年に取り壊しが決定しました。
大正楼では源氏名を「おかる」「育代」として働いていましたが、下等遊郭ということもあり、真冬でも外で客引きをしなければならず、働く環境としては最低だったかもしれません。
現に阿部定自身が遊女時代、一番辛い職場だったと語っていたこともあり、働き始めて6ヶ月後には逃げ出して、娼妓としての仕事を辞めることになりました。
「阿部定事件」の経緯と真相
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娼妓を辞めた阿部定は、東京・中野の鰻料理店「吉田屋」で、田中加代という偽名で働き始めます。
その店の主人・石田吉蔵とお互いに惹かれ合い、関係を持つようになった2人。
今も語り継がれる「阿部定事件」は、この2人の間に起きました。
2人はその後、店を離れて2人で逢引していましたが、駆け落ちして各地を転々とした後、尾久の待合旅館「満佐喜」に滞在しました。
2人の性行為はいわゆるアブノーマルなプレイにふけることが多く、首を絞めて快感を得る行為を繰り返し行っていました。
阿部定が石田吉蔵の呼吸を止めるために腰紐を使い、約2時間に渡り首絞めを続けた時は、石田吉蔵の首はうっ血してしまったといいます。
その首絞めプレイの果てに、阿部定事件が起きました。
「阿部定事件」で起きたこと
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昭和11年5月18日、午前2時頃に石田吉蔵が眠っているのを確認した阿部定は、普段から性行為の際に首絞めに使用している腰紐で、彼が死ぬまで首を絞めたのです。
さらに阿部定は、愛人の性器を包丁で切断しました。切断した性器は紙に包み、大事に持ち歩いていたといいます。
また、阿部定は血でシーツと石田吉蔵の太ももに「定、石田の吉二人キリ」と文字を書き、彼の左腕に自身の名前を刻みました。
阿部定は石田吉蔵の服を身に付け、宿の人間に石田は具合が悪くて寝ているから午後まで起こすなと言付けて、宿を出て行きました。
阿部定ついに逮捕
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身震いするような事件から2日後、昭和11年5月20日、逃亡していた阿部定はついに逮捕されました。
石田吉蔵の切断した性器を持ち歩き、彼が身に付けていた血濡れのシャツやステテコを身に付けていたという阿部定。
逮捕された阿部定は、彼を非常に愛していたことを警察に語りました。
「愛していたから、すべてが欲しかった。愛人関係で正式な夫婦ではないから、彼は他の女性を抱くこともできる」…そんな感情を抱き、愛しているからこそ殺した、と語るのです。
また、「彼を殺せば他の女性は二度と彼に触ることができない。だから殺した」と、狂って歪んでしまった愛を述べました。
切断した性器についても、「彼の頭か体と一緒にいたかった」と供述しています。
自分で殺しておきながら、いつも彼のそばにいるためにそれを持ち歩いたと、そう語りました。
歪んだ愛情を殺人という方法で昇華させた阿部定は、石田吉蔵を殺した後に「肩の重荷が外れたように楽になった」とも供述しています。
裁判では痴情の末と判定され、阿部定は懲役6年(求刑10年)の判決を受けて服役することになりました。
刑務所での阿部定は、真面目に人一倍作業をこなす模範囚となりました。
しかし、石田吉蔵の死から1年が経ち一周忌を迎えた頃から、泣き喚いたり呼ばれても動かなくなったりと、癇癪を起こすようになったのです。
教誨師と話すことで癇癪は収まり、今度はさまざまな思想本を読むように。徐々に平常心を取り戻し、最終的には日蓮宗に帰依するようになりました。
その後の昭和16年、「紀元二千六百年」を理由に恩赦を受け出所しています。
この阿部定事件では、熱狂的な阿部定ファンを生むことになり、服役中にファンレターや結婚の申し込みが1万通届いたという逸話があります。
「阿部定事件」の犯人・阿部定のその後・現在
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出所後、7年ほどは刑事から与えられた偽名「吉井昌子」を使い、一般人として生活していた阿部定。
しかし終戦直後、「お定本」と呼ばれるカストリ本(出版自由化されて発行された大衆向け娯楽・エログロ雑誌)の1つ「昭和好色一代女 お定色ざんげ」を巡って、名誉毀損として著者と出版社を告訴しました。
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その時期は、阿部定であることを隠してサラリーマンの男性と事実婚をしていましたが、自分の妻が阿部定だと知った男性は逃げるように阿部定の元を離れ、破局に至っています。
失踪、その後
訴訟から約20年後、62歳になった阿部定は「若竹」というおにぎり屋を開店しました。
おにぎり屋とは名ばかりで、実際にはスナックの様相を呈していたこの店には、現在も名が知られる大物芸能人や有名力士、政治家までが客として訪れていました。
しかし、昭和46年に置き手紙を残して失踪してからは、消息不明となっています。
ただ、その後も石田吉蔵の命日にはお寺に花束が届けられていたことから阿部定によるものと考えられていました。
そして、昭和62年頃を境に花束が届かなくなったため、その頃に阿部定は死亡したのではないかと言われています。
数々の男を虜にし、愛する人を殺した阿部定。
波瀾万丈の生涯を送った阿部定も、現在はこの世にいないでしょう。
まとめ
明治に生まれ芸妓・娼妓として生き、愛人を殺して現在もなお語り継がれる「阿部定事件」を起こした阿部定の生涯を紹介しました。
街で噂の美少女が不良少女となり、殺人犯になるまでの生涯は、小説化や映画化もされています。
気になった方はぜひ、阿部定関連の作品もご覧になってみてください。