たこ八郎の死因!身長と耳・結婚歴や嫁と子供(息子)・あき竹城との関係・強いボクサー時代とその後・仙台にある墓も総まとめ

たこ八郎さんは元ボクサーのコメディアンで、生前はあき竹城さんとの関係も話題になりました。

 

今回はたこ八郎さんの身長・耳・髪型、強いボクサー時代とその後、結婚歴や嫁や子供(息子)の有無、死因や仙台にある墓などを紹介します。

たこ八郎のプロフィール:元ボクサーの役者・コメディアン

生年月日:1940年11月23日

出身地:宮城県仙台市

所属事務所:不明

たこ八郎さんは元プロボクサーで、コメディアンとしても活躍した人物です。

 

本名は「斉藤清作」で、役者として「太古八郎」「多胡八郎」「多古八郎」「タコ八郎」などの名義でも活動していました。

 

一般的にコメディアンのほうが有名ですが、プロボクサーとしても功績を残しており、元日本フライ級王者でもあります。

 

 

たこ八郎の身長は低め?

出典:https://www.bing.com/

 

たこ八郎さんの身長は公開されていません。

 

しかし過去の画像を見る限り、身長161cmのタモリさんよりも低く見えますよね。

 

また、他のボクシングチャンピオンより20cm以上低かったという記述もあるため、おそらく158~160cmほどと推測できます。

 

 

たこ八郎の特徴的な髪型と耳:耳の欠損は喧嘩相手にかじり取られていた

 

たこ八郎さんは1960年代、河童のように刈り込んだ髪型から「河童の清作」と呼ばれていました。

 

また、お酒にまつわるエピソードも多く、毎晩居酒屋で飲んでいて収録現場に酩酊状態で現れることで知られていたそう。

 

たこさんはいつも酔っぱらっていて、それが酒のせいなのかパンチドランカーだからなのかも判然としないまま、普通にテレビに出てましたから。俳優仕事も多かったのですがセリフ覚えが異様に悪く、気付いたらちゃんとしたセリフをほとんど与えられなくなっていたというのも“時代”ですよね(笑)

 

引用:タモリに愛された伝説のコメディアン・たこ八郎さんが残したもの(2/2)

 

さらにたこ八郎さんは右耳の一部が欠損していますが、それも飲みの場が原因なのだとか。

 

飲み屋で客と喧嘩となり、相手に耳を噛みちぎられたと言われています。

 

出典:https://wadai7.com/

 

ちなみに、落語家・立川談志さんもたこ八郎さんが居酒屋で主人と揉めているところに居合わせたことがあるそうです。

 

たこ八郎さんが主人に首根っこを掴まれ、外につまみ出されそうな時、「これ(ボクサーでチャンピオンの)河童の清作だよ」と声をかけると、主人が思わずその手を離したといいます。

 

  •  

たこ八郎の生い立ち:8人兄弟の次男で、泥の投げ合いが原因で左目を失明

 

たこ八郎さんは8人兄弟の次男として誕生し、両親は農家だったそう。

 

少年時代には、友達との泥の投げ合いで泥が目に入り、左目の視力をほぼ失うという事件が起きています。

 

すぐに病院で治療すれば失明せずに済むレベルだったようですが、当時は実家が裕福ではないことを悟っていたたこ八郎さんは、両親に迷惑がかかると黙っていたそう。

 

そのため、医者にかかることなく視力を失うという結果になってしまいました。

 

そんなたこ八郎さんは中学を卒業後、仙台育英学園高等学校へと進学。ボクシング部へと入部し、2年生の時に宮城県大会で優勝しています。

 

 

たこ八郎の経歴① 王者となるほど強いボクサーだった

 

たこ八郎さんは高校を卒業後に上京。

 

いくつかの職業を転々としたのちに笹崎ボクシングジムへと入門しました。そして、1960年にプロボクサーとしてデビュー。

 

プロテストの際には視力検査がありましたが、左目の視力がないというハンディは伝えず、視力表を丸暗記してなんとかやり過ごしたといいます。

 

その後、1962年に第13代日本フライ級チャンピオンに輝いたたこ八郎さん。その際も、左目が見えないハンディを対戦相手に気づかれないよう、相手のパンチをあえてかわさなかったそう。

 

ひたすら打たれ続け、さらには「効いてない効いてない」などといった言葉で相手を挑発。相手に打たせるだけ打たせて、疲れたところを反撃するというスタイルでした。

 

この唯一無二のスタイルは、アニメ化もされた大人気ボクシング漫画「あしたのジョー」の主人公・矢吹丈のモデルになったとも言われています。

 

しかし、ひたすら相手の攻撃を受けるというスタイルから頭部にダメージが蓄積。パンチドランカーとなってしまい、1964年の王座防衛戦に敗退したことを機に引退しました。

 

パンチ‐ドランカー
《punch-drunkから》頭部への打撃の蓄積のため脳に障害を起こしたボクサー。→ボクサー脳症

 

引用:パンチ‐ドランカー

 

たこ八郎の経歴② ボクサー引退後はコメディアンとしてブレイク

 

たこ八郎さんはボクサーを引退した翌日に、コメディアン・由利徹さんに弟子入り

 

実は、ボクサー時代にも弟子入りを希望してきたそうですが、当時の由利徹さんは弟子にするつもりはなかったそう。

 

そのため、「ボクシングチャンピオンになったら」と条件を提示したところ、本当にチャンピオンになって弟子入りを再度希望してきたのです。

 

その後、由利徹さんに「たこ八郎」と芸名をもらったたこ八郎さんは、由利徹さんの自宅に住み込み、劇場・キャバレーを中心に出演

 

しかし、パンチドランカーとなってしまった影響でなかなかセリフを覚えられず、しばしば寝小便をしてしまうこともあったそう。

 

師匠の家で寝小便をしてしまうことを気にかけたたこ八郎さんは、友人宅を泊まり歩いていたといいます。

 

また、作家の団鬼六さんのアシスタントとして、事務所の留守番や家事全般を担っていた時期もあるのだとか。

 

そして、団鬼六さんプロデュースの喜劇一座で座長となったたこ八郎さん。

 

ポルノ映画館で映画の前座として公演を行い好評を博すも、ポルノ映画業界自体が前座システムを辞めたために一座自体が解散となりました。

 

その後、酩酊状態のような様子やコミカルなヴィジュアル、「たっこでーす」という決め台詞でお茶の間の人気者に。

 

彼のつかみギャグである『たっこでーす!』は自己紹介ギャグの走り。画面に出てくるだけで笑いを取れるという意味では、最強の芸人でした。テリー伊藤さんの発案で『バカなたこ八郎に東大生の血を輸血したら知能指数が上がるのか?』という、今の時代なら間違いなく問題になる企画を二つ返事で受けたそうです。

 

引用:タモリに愛された伝説のコメディアン・たこ八郎さんが残したもの

  •  
  • 1982年放送の日本テレビ系列のバラエティ番組「今夜は最高!」や1983年~1984年、1985年にはフジテレビ系列のお昼の大人気番組「笑っていいとも」などに出演しました。

 

全身に金粉を塗って走る(皮膚呼吸ができなくなるため苦しい)という、大変な企画のパイオニアでもあったといいます。

 

簡単に言うと“おバカの代名詞的存在”でしたが、当時はここまで愛らしくてわかりやすいタレントはいなかったので、昭和のバラエティ界を支えるほどの売れっ子になれたんだと思います。

 

引用:タモリに愛された伝説のコメディアン・たこ八郎さんが残したもの

 

 

たこ八郎の経歴③ 役者として映画・ドラマに引っ張りだこに

 

たこ八郎さんはコメディアンとして活躍しつつも、役者としても様々な映画やドラマに出演していました。

 

1966年公開の映画「汚辱の女」、1968年公開の「鞭と陰獣」をはじめ、「新網走番外地」シリーズなどに出演。

 

  • 1977年公開の映画「幸福の黄色いハンカチ」などといった名作にも出演しており、主演の高倉健さんとの喧嘩シーンではボクサー時代を垣間見せる場面も。

 

また、共演していた武田鉄矢さんも、たこ八郎さんに関するエピソードを披露。

 

撮影中に絡んできた数人のチンピラの前にヌッとたこ八郎さんが出てきて、フッと動いたその時にはチンピラ全員を倒していたといいます。

 

そんなたこ八郎さんは、以降も多数の映画に出演しており、1977年公開の「こちら葛飾区亀有公園前派出所」や1979年公開の「トラック野郎・熱風5000キロ」にも出演。

 

ドラマについては、1972年にTBS系列で放送されていた「刑事くん」第48話への出演をはじめ、「ムー」シリーズなどに出演しました。

 

1979年に日本テレビ系列で放送された「探偵物語」第7話、1984年にフジテレビ系列で放送された「裸の大将」第14話など、名作とされるドラマにも出演しています。

 

 

たこ八郎の師匠・由利徹のプロフィール

生年月日:1921年5月13日

出身地:宮城県

所属事務所:不明

由利徹さんは喜劇役者・コメディアンで、本名は「奥田清治」といいます。

 

 

1950年代にお笑いトリオ「脱線トリオ」としてブレイクし、解散後は喜劇役者・コメディアンとして活躍しました。

 

宮城県出身、6人兄弟の次男でボクサーに憧れていた時期もあるなど、とたこ八郎さんと共通点も多かったようです。

 

由利徹さんは、1940年に18歳で家出して上京。叔母の家で居候しつつ働き、1942年にムーランルージュへと入団しています。

 

途中、大日本帝国陸軍による応召もありつつ、1945年に再び復帰。

 

1956年に南利明さん・八波むと志さんとお笑いトリオ「脱線トリオ」としてブレイク。しかし、1961年に解散してしまいます。

 

ピンで活動しつつも、役者としての仕事も増えていき、1973年に放送されたTBS系列のドラマ「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」などの人気作品にも出演。以降、活躍し続けました。

 

そして、1999年に肝臓がんで死去。享年78歳でした。

 

 

たこ八郎は結婚している?嫁はいるの?

 

たこ八郎さんはそのキャラクターと相まって、プライベートは謎に包まれています。

 

そのため、結婚していたどうか・恋人がいたかどうかなどは明らかにされていません。

 

公開していないだけで結婚していた可能性もありますが、近しい人たちもたこ八郎さんの嫁やパートナーといった人物について言及しておらず、独身の可能性が高いのではないでしょうか。

 

 

たこ八郎に子供はいない?息子がいるという噂は東八郎との勘違い?

 

 

たこ八郎さんの子供の存在についても謎に包まれていますが、いない可能性が高いと言われています。

 

一部では息子がいるのでは?と噂されているようですが、おそらく東八郎さんと勘違いしているのではないでしょうか。

 

東八郎さんは、たこ八郎さんと同年代の昭和を代表するコメディアンで、芸風こそ違いますが芸名はかなり似ています。

 

そんな東八郎さんの息子は、「東MAX」の愛称で知られているお笑いコンビ・Take2の東貴博さんです。

 

恐らくは、芸名の響きから、たこ八郎さんの息子=東貴博さんと勘違いした人が数多くいたのではないでしょうか。

 

 

たこ八郎の死因は心臓麻痺!墓は故郷の仙台にある?

 

たこ八郎さんは、人気を博していた1985年に突如死去しています。

 

死因は心臓麻痺で、神奈川県の海水浴場で飲酒したのちに海水浴をしていた際の出来事だったといいます。

 

また、たこ八郎さんは当時、フジテレビ系列のお昼の番組「笑っていいとも!」にレギュラー出演しており、同番組放送中に司会のタモリさんによって訃報が世間へと伝えられました。

 

たこさんは人気絶頂の1985年7月24日、酒を飲んで酔っ払ってるのに海で泳いでしまい、心臓マヒで急死。たこさんが当時レギュラー出演していた『笑っていいとも』の生放送中にタモリさんによって彼の死が全国に伝えられました。後日、弔問に訪れたタモリさんは『たこが海で死んだ。何にも悲しいことはない』と独特な言い回しで追悼の意を述べたことが今でも忘れられません。

 

引用:タモリに愛された伝説のコメディアン・たこ八郎さんが残したもの(2/2)

 

葬儀・告別式は、漫画家の赤塚不二夫さんが葬儀委員長を務めて執り行われていますが、これは生前にトーク番組で共演した際にたこ八郎さんが「もし俺が死んだら」と依頼していたそう。

 

そして、葬儀は師匠である由利徹さんが先導、参列者が三本締めをしたのちに霊柩車が見送られたといいます。

 

なお、たこ八郎さんの墓は故郷である宮城県仙台市にあるそうです。

 

しかし、東京でも参詣できる場所をと、有志によって「たこ地蔵」が東京都台東区の法昌寺に建立されています。

 

たこさんの死後、東京台東区の法昌寺には彼のトレドマークだった髪型と欠損した右耳がそのまま象られた「たこ八郎地蔵」が置かれ、今でも手を合わせに来る人が途絶えないそうだ。そして、このたこ地蔵には彼の座右の銘である「めいわくかけてありがとう」としっかり掘られている。誰からも愛され、昭和を駆け抜けたコメディアンは、これからも忘れ去られることはないだろう。

 

引用:タモリに愛された伝説のコメディアン・たこ八郎さんが残したもの(2/2)

 

 

出典:https://ameblo.jp/

 

境内にある「たこ地蔵」は、喜劇俳優・由利徹(ゆりとおる)、漫画家・赤塚不二夫、映画監督・山本晋也らを発起人として昭和60年に建立された地蔵尊。
実はこの寺、プロボクサーで、日本フライ級チャンピオン、後に俳優、コメディアンとしても活躍したたこ八郎(本名:太古八郎)の菩提寺なのです

 

引用:法昌寺

 

 

たこ八郎は赤塚不二夫ファミリー?赤塚不二夫宅で起こした珍事件も紹介

 

たこ八郎さんの告別式・葬儀を取り仕切った漫画家・赤塚不二夫さん。

 

元ボクサーのコメディアンと漫画家というと接点がなさそうですが、赤塚不二夫さんはたこ八郎さんの師匠・由利徹さんとも元々交流があったのだとか。

 

仲良くなったきっかけなどはわかりませんが、赤塚不二夫さんと親交のあったジャーナリスト・二田一比古さんいわく、たこ八郎さんは「赤塚不二夫ファミリー」の一員だったのだとか。

 

そのため、たこ八郎さんも赤塚不二夫さんの自宅に出入りしていたといいます。

 

そんな赤塚不二夫さんの家にはサワーをつくる機械があり、その機械に関するたこ八郎さんのエピソードがなかなか強烈です。

 

先生がほぼ居座る2階の居間は和室。長いテーブルの奥が先生の定位置。そこから左右に来たもの順に座る。酒は基本的に飲みたい酒を居間の入り口横の冷蔵庫から各自、取ってくる。赤塚家の台所には近所の酒屋さんに作らせた特注のレモンサワー専用のサーバーが設置されていた。栓をひねれば自動的にサワーが出てくる優れものである。

 

引用:赤塚不二夫編<4>たこ八郎はママレモン入りサワーを作った

 

ある日、赤塚不二夫さんに「たこ、レモンサワーを作ってよ」と指示されたたこ八郎さん。

 

焼酎・炭酸・カットレモンと具体的に指示されたのにもかかわらず、出来上がったレモンサワーはなぜか異様に泡立っていたのだそう。

 

カットレモンではなく、台所洗剤・ママレモンを混ぜるというぶっ飛んだミスをしたたこ八郎さんでしたが、普段のキャラクターからか、叱られるどころか笑い話として終わったといいます。

 

 

たこ八郎とあき竹城の関係

 

たこ八郎さんは前述のとおり、酩酊状態でいることが多く、それを面倒見ていたのが役者のあき竹城さんだったといいます。

 

恋人同士というわけではなかったそうですが、あき竹城さんはたこ八郎さんの飲酒の多さを心配し、ちゃんと食事をとるように諭すなど、よく身の回りの世話を焼いていたそうです。

 

「たこを真人間にする会」を結成し、会長にまでなったあき竹城さん。そのため、周囲からは熱愛関係にあると勘違いされることも多かったといいます。

 

80年代には、ボクシングの元全日本フライ級王者でコメディアンだった、故たこ八郎さんとの熱愛が世間をにぎわした。2人きりでサイパン旅行するほどの仲。あきさんは母性本能がくすぐられるのか、7歳年上で酒浸りだったたこさんを「体が心配。母と子のようなもの」と気にかけており、一方のたこさんも「男女の関係はないけど、甘やかしてくれるタイプが好きなんだ」と話していた。

 

引用:あき竹城さん 「体が心配…」たこ八郎さんを母性本能で支え 熱愛が世間をにぎわしたことも

 

 

たこ八郎と熱愛疑惑があったあき竹城のプロフィール

生年月日:1947年4月4日

出身地:山形県

所属事務所:オフィスあきこ

 

 

あき竹城さんはたこ八郎さんと同じく6人兄弟で、末っ子だったそう。

 

小学校4年生からモダンダンスを学び、高校でもダンス部に所属していました。その後、大阪へと移住してダンサーデビュー

 

フロアダンサーやヌードダンサーなどを経て、1974年からは「日劇ミュージックホール」に出演するように。

 

そこで出演したコントで山形弁を披露したことが評判を呼び、コメディエンヌとしてブレイク

 

1976年に放送されたテレビ東京系列のバラエティ番組「独占!男の時間」に出演して以降、テレビにも出演するようになりました。

 

その後、徐々に映画・ドラマなどに出演し、1983年公開の映画「楢山節考」では緒形拳さんの後妻役に大抜擢され、役者としての地位を確立。

 

それまでは、過去の経歴からストリッパー役などヌードシーンを要請されることが多かったものの、以降は興味深いキャラクターを演じる”性格俳優”として活躍するように。

 

1981年にTBS系列で放送されたドラマ「野々村病院物語」や、1983年放送の大河ドラマ「徳川家康」などに出演。

 

特に大河ドラマ・朝の連続テレビ小説ではコミカルな役からシリアスな役まで演じ切り、バイプレイヤーとしての実力を発揮しました。

 

また、1990年代後半からは山形弁と飾らないキャラクターがウケ、バラエティ番組・トーク番組などでも活躍。

 

しかし、2020年に患った大腸がんによってレギュラー番組を降板する事態となり、2022年秋ごろより病状が悪化していたそう。

 

そして、2022年12月5日に死去。享年75歳でした。

 

 

まとめ

たこ八郎さんは元ボクサーのコメディアン。幼い頃に左目を失明し、それを隠しつつプロテストに合格。

 

漫画「明日のジョー」の主人公のモデルとなったとされる「ノーガード戦法」でチャンピオンにまで上り詰めました。

 

しかし、相手に打たせるだけ打たせるという戦法が災いして、脳に影響が出てしまいパンチドランカーに。

 

引退後はコメディアン・由利徹さんに弟子入りし、のちにコメディアンとしてブレイクしました。

 

また、役者としてもドラマ・映画などで活躍。お酒が好きで常に酩酊状態だったそうですが、あき竹城さんをはじめ、周囲の人物から愛され続けたといいます。

 

残念ながら、酒に酔って海に入ったことで、心臓麻痺を引き起こし帰らぬ人に。

 

墓は地元である宮城県仙台市にあるそうですが、親交のあった赤塚不二夫さんらによって、東京都内に「たこ地蔵」が建立されています。

 

今後も、数多くの人がたこ八郎さんの死を悼んでいくことでしょう。

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