派手なミニスカートを身にまとい甲高い声が特徴だったセレブタレント・大屋政子さんは、華麗なる家系図も話題です。
今回は大屋政子さんの若い頃や家系図、帝人社長の旦那・大屋晋三さんとの結婚や子供(娘)、死因や自宅など現在までの情報まとめました。
この記事の目次
大屋政子はセレブタレント&帝人の社長夫人
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女傑と呼ばれた大屋政子
大屋政子さんは、歌手やタレントとして活動したほか、実業家としても知られる女性です。
メディアに登場する際は常にピンクや赤などのど派手なドレスで、甲高い声で「うちのおとうちゃんは~」とのろけるトークの面白さやセレブな生活ぶりが注目を集めました。
1990年に死去しているので、大屋政子さんのことを知らない方も多いかもしれません。
まずは、プロフィールを振り返ってみましょう。
大屋政子のプロフィール
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大屋 政子(おおや まさこ)
別名義: 御風真弓
生年月日: 1920年10月27日
没年月日: 1999年1月16日
出身地: 大阪府大阪市阿倍野区
職業: 歌手、タレント、女優、実業家
大屋政子さんは戦前、軍属歌手として活動し、戦後は結婚相手である大屋晋三さんが経営していた「帝人」の経営に参加。一時はその資産は300億円とも言われていました。
テレビでの明るいキャラクターやセレブ生活から、常に煌びやかな人生を送っていたかに見えますが、挫折も多くを味わっていて、決して平たんな道のりばかりだったわけではないようです。
大屋政子さんの若い頃やこれまでの苦労については、この後の章で詳しく紹介します。
大屋政子の家系図① 父親は衆議院議員・森田政義
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大屋政子さんの家族は、父親は政治家、旦那も政治家で経営者という公人ばかりで、家系図がかなり豪華だと言われていることはご存知でしょうか。
まずは、父親の森田政義さんについて紹介します。
森田政義のプロフィール
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森田 政義(もりた まさよし)
生年月日: 1884年9月21日
出身地: 大阪府大阪市
職業: 弁護士、政治家
大屋政子さんの父親は、熊本県出身で明治大学の法学科を卒業。
弁護士をしていたのですが、1924年から衆議院議員を6期務めて、立憲政友会総務となりました。
大屋政子の家系図② 旦那は帝人社長の大屋晋三
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政治家で経営者の大屋晋三
父親が弁護士で政治家でしたが、結婚した旦那も政治家でした。さらに、現在も経営が続く「帝人」の社長を務めたことあります。
しかし若い頃の生活はかなり苦しく、一からのし上がっていったハングリー精神あふれる方だったようです。
簡単に、大屋晋三さんのプロフィールと経歴を紹介します。
大屋晋三のプロフィール
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大屋 晋三(おおや しんぞう)
生年月日: 1894年7月5日
没年月日: 1980年3月9日
出身地: 群馬県
職業: 政治家、会社経営者
進学を諦めて就職
大屋晋三さんは、群馬県で誕生し、教師をする父親のもとで育ちました。
中学生の頃に生活が苦しくなり、前橋の親族の家に書生として住み込みの仕事をすることに。
親族の家とは言え、肩身が狭く、お金が無いことに対する辛さと惨めさを嫌というほど味わった大屋晋三さんは、中学校を出ると、大学を卒業して官僚になることを考えて上京しました。
しかし、働きながら学費を貯めることが難しいと実感し、新興企業の貿易や海運業を営む鈴木商店に就職したのです。
第一次世界大戦がはじまると、あらゆる商品の需要が高まり、海運業や輸入業者はバブル状態で巨利を上げることに成功しました。
ちょうどこの頃に入社した大屋晋三さんは、経験の少ない新人だったにも関わらず、1日に100万円(今の貨幣に換算すると数億円)の取引を任されていたと言います。
その後、その辣腕を買われて帝人に派遣されたのです。
帝人で出世後に政界へ
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帝人に派遣された大屋晋三さんは、広島の絹糸の製造を工場長として切り盛りし、1944年には取締役へ、さらに1945年には社長に就任しています。
かねてより政治に興味を持っていたことから、1947年の参議院議員選挙に出馬して見事当選しました。
その後、商工大臣や大蔵大臣臨時代理、運輸大臣を歴任。
政治活動は1956年まで続き、その後は帝人の経営者として現役を貫き、1980年3月9日に死去、享年85歳でした。
3回の結婚歴がある
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大屋晋三さんは、大屋政子さんと結婚する前に嫁が2人いました。
最初の嫁は、茂登子(もとこ)さんと言います。未亡人の年上の女性で、交際中に大屋晋三さんの子供を妊娠したことが発覚し、結婚したそうです。
茂登子さんは約20年間に渡って夫を支えますが、病気で他界しました。
その後、帝人の秘書だった女性と交際を経て再婚しています。
しかし、この秘書の女性にとっては最悪の結婚になりました。なぜなら、大屋晋三さんは大屋政子さんとの不倫に突入し、離婚を突きつけられることになるからです。
泥沼の離婚調停を経て離婚が成立し、1950年に晴れて大屋政子さんと夫婦となりました。まさに略奪婚そのものだったんですね。
大屋政子の家系図③ 子供は病院理事
大屋政子さんが大屋晋三さんと結婚後、子供が誕生しています。子供は何人いるのでしょうか。
娘は帝塚山病院理事
大屋晋三さんとの間に生まれた子供は一般人であるため、詳しい情報は公開されておらず、何人いるのかも明確ではありません。
少なくとも、登史子さんというお名前の娘がいて、大阪府の帝塚山病院グループの理事を務めていることは分かっています。
登史子さんは慈善事業にも力を入れており、病院の自動販売機に募金の機能を付けた「ハートフルベンダー」を設置したことを発表しています。
大屋政子の若い頃はお嬢様だった
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大屋政子さんの若い頃のエピソードを見ていきましょう。
政治家の娘としてとても裕福な生活を送っていましたが、突然没落したことで人生は大きく変わってしまったのです。
没落したらあかんねん
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父親は政治家で、母親の実家も大阪で両替商として成功していたため、大屋政子さんは資産家の娘として生まれ育ちました。
当時、大屋政子さんが住む家には2台の外車があり、父親はシボレー、母親はウズレーに乗っていたそうです。この時代、関西圏で2台の外車を持つ家は他にはありませんでした。
そんな超が付くお嬢様として何不自由なく生活していた大屋政子さんでしたが、19歳の時に父親が死去したことで人生初の挫折を味わっています。
これまでなら、自宅には父親の取り巻きがいつも訪れていてとても賑やかな環境でしたが、急に誰も寄り付かなくなったのだとか。
そして生活に困り、今まで懇意にしてきた人達に助けを求めても、門すら開けてもらえなかったと言います。
この時期に嫌というほど辛酸をなめた大屋政子さんは、「没落したらあかんねん」と再起を誓ったのです。
当時、大阪音楽大学に通っていたものの中退し、作曲家として知られる服部良一さんに口添えしてもらい、日本コロムビアに所属することに。
そして、第二次世界大戦中は軍属歌手として戦地を回って慰問活動をし、戦後はクラブ歌手として再スタートを切りました。
大屋政子が結婚した旦那・大屋晋三との馴れ初め
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大屋政子さんが不倫の末に略奪婚をしたのは1950年。
ここでは、大屋政子さんが語った2人の馴れ初めや、なし崩し的と言われるような無茶な結婚だった過去について調査しました。
馴れ初めは大屋晋三の一目惚れ
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大屋政子さんが24歳の時に、大屋晋三さんと出会いました。
当時の大屋晋三さんは51歳で、政治家を志して色々なツテを探し回っていました。
そして、鳩山一郎元総理の紹介状を手に、大屋政子さんと母親が住む自宅を訪れて「森田先生の選挙地盤を受け継がせて頂きたい」と頼みにきたのです。
この時に大屋政子さんを見た大屋晋三さんが一目惚れ。当時、大屋晋三さんには嫁がいましたが、「結婚してくれ」と熱烈なプロポーズをしてきたそう。
当然、父親ほども年齢の違う妻帯者の男性にいきなり求婚されても、すぐにはそんな気持ちにはなれませんよね。
しかし、断わっても断っても毎日のようにラブレターが届いたそうです。
ただ、大屋政子さんには親の決めた婚約者がいたので、大屋晋三さんの申し出を断る日々が続きました。
占いで駆け落ち
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そんな中、大屋政子さんが占いをしてもらうと、占い師に「許婚とは絶対に添い遂げられない。その男性(大屋晋三さん)こそが一生の主人になる人ですよ」と告げられたそう。
その後、許嫁が戦死してしまい、大屋政子さんは心が揺れてきました。それまでに届いたラブレターは264通にもなり、気になる存在になっていたのです。
占いを信じた大屋政子さんは、駆け落ち同然に大屋晋三さんとの結婚を決意しました。
ただ、当時は大屋晋三さんに嫁がいたので、離婚が成立するのを待って1950年に入籍、結婚式は挙げていません。
なお、大屋晋三さんは現職大臣の身の上で、略奪婚と後ろ指を指されてしまったそうです。
大屋政子は旦那との結婚後、愛人の存在に打ちのめされていた
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物語であれば、結婚して「めでたしめでたし」となるのですが、大屋政子さんの場合、決して幸せな結婚とは言えませんでした。
あれだけ熱烈に毎日プロポーズされて愛され、周囲から非難されても大屋晋三さんとの愛を選んだ大屋政子さんでしたが、結婚後とんでもない事実が発覚したのです。
愛人の存在に絶望
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結婚してから、大屋晋三さんには複数の愛人がいることが発覚します。この時の大屋政子さんは「死んでしまいたくなった」というくらい深い絶望を感じていたそうです。
この当時、戦争で若い男性が沢山亡くなってしまったので、生きるために甲斐性のある男性の愛人になる女性がとても多かったという社会背景がありました。
このため、愛人や元嫁にお金が渡っていくことに対して、不満を口にすることができない時代でした。
しかし、旦那の給料は全て愛人と政治家としての選挙活動に消えてしまい、借金が膨れるばかり。
追い打ちをかけるように、大屋晋三さんは大屋政子さんに向かって「稼げ稼げ、ワシの100倍稼げ」と口癖のように言ってきたのだとか。
そこで仕方がなく、大屋政子さんは仕事をすることになります。しかし、実際にやってみると意外な才能が開花しました。
大屋政子の結婚後の経歴① 帝人の「テトロン」開発に貢献
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大屋政子さんの旦那・大屋晋三さんは、1956年に政治家を引退し、古巣の帝人へ戻って再び経営者として歩き始めました。
当面の課題は、外国からポリエステル繊維製造の技術をどうやって導入するかという点だったようですが、大屋政子さんの貢献が会社に大きな利益をもたらすことになるのです。
ディクロンの洋服に惚れ込んだ
大屋晋三さんはまだ政治家だった1953年9月、参議院議員議長として列国議員同盟会議に大屋政子さんを伴い参加しました。
この時に、アメリカのデュポン社製の合成繊維である「ディクロン」に惚れ込んだのが大屋政子さんだったのです。
大屋晋三さんが帝人の社長に返り咲くと、大屋政子さんは「ディクロンをうちでも作れへんかな」と競合他社に対する施策として提言しました。
大屋晋三さんも「これを手掛けるのは帝人だ」と確信を持ち、合成繊維の技術導入許可を取得して、作られた繊維の名前は「テトロン」でした。
このテトロンの誕生で、帝人はポリエステル繊維のメーカーとして一躍有名になり、大屋晋三さんは「名経営者」と呼ばれるようになりました。
また、大屋政子さんもこれ以降、「現代の女傑」「女実業家」「北条政子の再来」など異名を付けられることになりました。
大屋政子の結婚後の経歴② セレブタレントとしてテレビでも大人気
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テトロンのヒットで、一気にセレブになった大屋政子さん。
「セレブタレント」としてバラエティ番組に出演すると、濃いキャラクターが受けて、瞬く間に人気者に。
ピンクのミニスカートや真っ赤なフリフリのドレスを着て、甲高い声で「うちのおとうちゃんはなー」と関西弁でまくしたてる姿にお茶の間は釘付けになりました。
一方で、若手タレントや芸人に食事を振る舞ったりするなど、共演者への気遣いを忘れない優しい人物というエピソードも多数あります。
大屋政子の結婚後の経歴③ 旦那の死去後に側近に裏切られている
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大屋晋三さんが1980年3月に死去したのをきっかけに、大屋政子さんは再び人生の苦悩を味わうことになります。
ここからは旦那の死因や、その後の大屋政子さんの晩年について紹介します。
旦那の死因は?
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大屋晋三さんは亡くなるまで帝人の社長を務めました。
死去したのは1980年3月9日で、享年85歳でした。死因は公表されていません。
大屋政子さんは「おとーちゃんのために」と、帝塚山病院を建設しているので、なんらかの持病を患っていたのかもしれませんね。
信頼している人に裏切られた
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大屋政子さんは自身で多くの不動産や資産を保有し、自身で運用していたのですが、晩年に側近に裏切られるというショッキングな出来事が起こっています。
1996年、大屋政子さんがオーナーを務めるゴルフ場の売上2億3000千万円が側近に横領されたことが判明したのです。
ゴルフ場の運営を全て任せられていた側近は、コースなどの修復費や改修費などの架空工事をでっちあげては着服していたといいます。
よくよく調査をしてみると、ゴルフ場は100億円の負債を抱えていたそうで、大屋政子さんは借金返済のために、自身の資産だった国内外のゴルフ場やマンションなど不動産を次々に売却。
どうにか負債を返したものの、これまで300億円と言われた資産は一気に数億円にまで目減りしたと言われています。
テレビに出演している時は常に明るいキャラを貫いていた大屋政子さんでしたが、実は心に傷を負っていたようです。
大屋政子の死因は胃がん
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1997年に胃がんが発覚した大屋政子さん。緊急手術を受けたものの、がんは他の臓器にも転移していて、治療のしようがなく、医者から余命2年だと宣告されました。
そして、入院しても病室にお見舞いに来る客はなく、淋しく絶望の淵にいたそうです。
そんな状況から救ってくれたのは、娘の登史子さんでした。病院に寝泊まりして付き添ってくれたといいます。
そして2年が経過する間に大屋政子さんの病状は徐々に進行し、娘の登史子さんに「こんな母親でごめんな」と告げて、1999年10月27日に死去しました。
享年78歳、死因は胃がんでした。
大屋政子の死去後の現在、自宅はどうなった?
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大屋政子さんが死去して20年以上という長い年月が経過しています。
大阪の高級住宅街として知られる帝塚山の自宅は現在、どうなっているのでしょうか。
自宅跡地はマサコーヌ帝塚
大屋政子さんの生前の自宅は、帝塚山と呼ばれる高級住宅街に立てられました。
700坪という広大な土地に鉄骨の地上3階建ての豪邸で、リビングはなんと300人収容できるという広さ。さらに部屋は14部屋あったそうです。
ただし、その自宅は大屋政子さんの死後に更地になり、現在は「マサコーヌ帝塚山」という名前の老人ホームになっています。
施設名はもちろん大屋政子さんから取ったもの。この老人ホームは、娘である登史子さんが理事長を務める医療法人健友会のグループに名を連ねています。
まとめ
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大屋政子さんは歌手やタレント、そして元政治家で帝人を経営していた大屋晋三さんの3人目の嫁です。
その人生は波乱万丈そのもので、若い頃は政治家の娘としてお嬢様ライフを送っていたものの、父親が死去すると生活に困窮し、苦労したようです。
それまで通っていた学校を中退して、第二次世界大戦下では軍属歌手を務め、戦後はクラブ歌手として働く日々でした。
そんな中で出会ったのが旦那の大屋晋三さんで、不倫の末に結婚しますが、旦那は愛人や選挙活動の資金などで給与を使ってしまい、大屋政子さんには厳しい生活が待っていました。
しかし、大屋晋三さんが社長を務めていた帝人の経営者の1人として新事業を提案したり、セレブタレントとして芸能活動をしたりと、独特なキャラクターを生かしてマルチに活動。
1997年に胃がんを発症し、娘の看病を受けて2年後の1999年に死去しました。
現在、自宅は有料老人ホーム「マサコーヌ帝塚山」に生まれ変わっています。
生前、辛い経験があったとは思えない明るさとパワフルさで人気だった大屋政子さん。ご冥福をお祈りします。