1902年の八甲田山雪中行軍遭難事件は、世界最大級と名高い雪山遭難事故です。
今回は八甲田山雪中行軍遭難事件のルートや行軍詳細、当時の写真、死者と生存者、服装や案内人の有無など事故原因、心霊現象の噂、映画化をまとめました。
この記事の目次
- 八甲田山雪中行軍遭難事件とは
- 八甲田山雪中行軍遭難事件の概要まとめ
- 八甲田山雪中行軍遭難事件の行軍ルート
- 八甲田山雪中行軍遭難事件の詳細
- 八甲田山雪中行軍遭難事件の写真はある?
- 八甲田山雪中行軍遭難事件での服装がヤバイと話題に
- 八甲田山雪中行軍遭難事件の死者数と死亡率
- 八甲田山雪中行軍遭難事件の生存者の写真 【生き残った11名も無傷ではなかった…】
- 八甲田山雪中行軍遭難事件の原因まとめ
- 八甲田山雪中行軍遭難事件と同時期に出発した弘前歩兵第31連隊は成功している
- 八甲田山雪中行軍遭難事件で明暗を分けた理由①:案内人
- 八甲田山雪中行軍遭難事件で明暗を分けた理由②:準備
- 八甲田山雪中行軍遭難事件では心霊現象も報告されている
- 八甲田山雪中行軍遭難事件は映画化された
- 八甲田山雪中行軍遭難事件のまとめ
八甲田山雪中行軍遭難事件とは
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八甲田山雪中行軍遭難事件とは、1902年(明治35年)1月に起こった雪山遭難事件です。
日本陸軍の歩兵第5連隊210名が、極寒で雪深い1月の八甲田山で雪中行軍を行い、210名中199名が死亡し、ほぼ全滅という大惨事になりました。
この八甲田山雪中行軍遭難事件は、被害の甚大さから、世界最大級の雪山遭難事故とされています。また、日本の冬季軍事訓練において、もっとも多い犠牲者を出した訓練でもあります。
また、この八甲田山雪中行軍遭難事件の原因は、雪山を甘く見たことや指揮官の判断ミスとされ、ただ単に自然の脅威に負けたというだけでなく、「人災」の側面も持つ事件です。
八甲田山雪中行軍遭難事件の概要まとめ
八甲田山雪中行軍遭難事件の概要をまとめました。
・行軍ルート:青森~田代(田代新湯)までの片道20km
・行程予定:1泊2日
・行軍目的:ロシア軍侵攻に備えた訓練
・出発日:1902年1月23日
・参加者:210名
・指揮官:神成文吉大尉
・遭難日:1902年1月24日
・犠牲者:199名
・最終救助日:1902年2月2日
八甲田山雪中行軍遭難事件の行軍ルート
八甲田山雪中行軍遭難事件の行軍ルートを地図で見ていきましょう。
予定ルートは、青森市内の日本陸軍歩兵第5連隊の衛戍地から、田代までの約20kmでした。
田代でのゴールは田代新湯の宿で、調子が良ければ三本木(現在の十和田市)まで行く予定だったようです。
地図を見るとわかるように、歩兵第5連隊のルートは距離的には短いです。しかし、「厳冬期の八甲田山」ですので、かなり険しい山道であり、とても雪が深い場所になります。
紹介した地図には、「弘前第31連隊行軍ルート」というのがあります。
実は、事件があった1902年1月に八甲田山雪中行軍をしていたのは青森第5連隊だけではありませんでした。
弘前第31連隊は青森歩兵第5連隊とは逆ルートで、しかもずっと長いルートを行軍しています。
青森歩兵第5連隊が雪中行軍したのは、現在の青森県道40号の青森田代十和田線(田代街道)です。
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しかし、青森歩兵第5連隊は目的地の田代新湯まで直線距離であと1.5kmというところで、遭難状態になり、その後は真冬の八甲田山の山の中を遭難しながらさまよい歩くことになるのです。
八甲田山雪中行軍遭難事件の詳細
八甲田山雪中行軍遭難事件を詳細に見ていきましょう。
そもそも、八甲田山雪中行軍遭難事件はロシア軍の侵攻に備えた訓練の中で起こった遭難事件です。
青森歩兵第5連隊は「真冬にロシア軍が侵攻し、青森県内の列車が不通となった場合、真冬でも人力ソリで物資を運搬できるか?」という実験・調査を行うことになったのです。
「真冬の八甲田山で人力ソリで物資運搬の可否」を調査する行軍ですので、次の荷物を14台のソリで引いていくことになりました。
・燃料(木炭や薪)
・大釜
・工具
運搬物資は合計1.2トン、ソリは1台80kgでしたので、ソリ+物資は3.3トン以上になります。
第1日目(1月23日)
八甲田山雪中行軍第1日目。午前6時55分に衛戍地を出発しました。
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行軍がちょうど中間地点の田茂木野に着くと、田茂木野の地元民は行軍を辞めるように忠告します。
さらに、地元民は「どうしても行くなら、案内役をやっても良い」と進言しますが、指揮官は「どうせ案内料が欲しいだけだろう。私たちには方位磁針と地図がある!」と案内を断ります。
その後、小峠あたりまでは問題なく行軍できたものの、その直後あたりからソリが遅れ始めます。そのため、昼休憩を取りました。
ちょうど休憩を取っている頃、天候が悪化し、暴風雪になります。
軍医は行軍を中止し衛戍地に引き返すことを進言し、指揮官たちも行軍中止と帰営するようにと検討を促しました。
しかし、「下士官たちからの反対+田茂木野で案内役を断ったプライド」が邪魔をして、行軍を続けることを決定しました。
暴風雪の中、なんとか6km進軍して馬立場まで来ましたが、そこからはさらに難所になり、ソリは2時間以上遅れていました。そこで、ソリを捨て、人力で荷物を背負うことにしています。
・日没で暗くなった
・吹雪で道が見えなくなった
このようなピンチに陥った青森歩兵第5連隊は、午後8時15分ごろ、やむを得ず、平沢の森で露営することになりました。
しかし、テントなど持っていなかったため、スコップで広さ2×5m、深さ2.5mの穴を掘って、そこに40名が立って入り、立ったまま夜を越すになったのです。
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各壕(穴)に木炭や缶詰、餅などが配給されましたが、40名という人数を補うには到底足りない状況でした。
・雪の上にしかかまどを作れず、水平にするのも難しい
・雪を溶かして調理用の水を調達しなければならない
・とにかく寒い(氷点下20度以下)
このような状況で生煮えのご飯ができたのは、日付が変わった午後1時。
体を温めるために熱燗がふるまわれましたが、ご飯の釜で温めたため、異臭がして飲めたものではないという、踏んだり蹴ったりの状態でした。
第2日目(1月24日)
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座るスペースもなく、眠ったら凍傷になるということで、立ったままでまともに休息できない状態の隊員たち。
このままではどん詰まりになると判断した将校たちは、1月24日の午前2時に帰営することを決断します。
そして、午前2時30分に露営地を出発しました。もちろん、真っ暗な中+猛吹雪の中での出発です。隊はすぐに道に迷ってしまいました。
その時、隊員の1人が「田代新湯への道を知っています!」と進言したため、指揮官はその言葉を信じて進んだものの、正しい進路に戻ることはできなかったようです。
この頃には吹雪で足跡が消されていて、自分たちがどこにいるかわからなくなり、完全に遭難してしまいます。
崖をよじ登り、見晴らしの良いところに出ますが、この時に落伍者が続出。さらに、華族の水野忠宜中尉が凍死したことで、隊全体の士気は大きく下がりました。
その後も吹雪にさらされながら、雪山をさまよい歩いた青森歩兵第5連隊は、夕方ごろに露営することを決断します。この時点で隊の4分の1は凍死・落伍したと見られています。
つまり、約50名が死亡または行方不明になり、残りは150名となったのです。
露営をすることにしたものの、スコップなどはなく、吹きさらしの中で立ったまま夜を明かすことになりました。
持っていた餅などは凍り付いているため、食べられたものではありません。軍歌を歌い、足踏みし、お互いに摩擦し合いながら、必死に空腹に耐えたようです。
第3日目(1月25日)
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露営中にも凍死者が続出したため、午前3時ごろに出発を決めます。
この時点で死者・行方不明者は70名にもなります。一晩で20名が凍死した計算になります。
出発したものの、頼りのコンパスは凍り付いていたため、すでに使い物にならず、地図と自分たちの勘・運頼みで行軍を進めた結果、当然、遭難し続けました。
そして、この日に指揮官の神成大尉やほかの将校たちは協議の末、「ここで部隊を解散する。各兵は自ら進路を見出して、青森または田代へ進行するように」と宣言したと言われています。
このような無責任な指示を出されたことで、今までなんとか正気を保っていた隊員たちは一気にタガが外れてしまい、発狂したような行動に出る者が続出しました。
・「この崖を降りれば青森だ!」と叫んで川に飛び込む
・「いかだを作って川下りで帰るぞ!」と銃剣で木を切りつける
・手が凍傷になりズボンのボタンをが外せず、そのまま尿を出してしまい、そこから凍傷になる
第4日目(1月26日)
3日目の夜には71名の生存者がいましたが、それからも凍死者が続出したようで、日付が変わった1月26日午前1時に点呼したら、生存者は既に30名に減っていました。
この時点で、軍隊としてはもう機能しておらず、全員がバラバラの状態になっています。
この日は朝から晴天で、天候は回復していましたが、空腹と疲労からあまり距離を歩くことができず、この日も遭難したままで終わっています。
青森衛戍地では、本来なら1月24日に戻るはずの第5連隊が帰ってこないため、この日から救助隊が結成され、捜索が行われましたが、遭難者たちを発見することはできませんでした。
第5日目(1月27日)
遭難5日目になると、なんとかまとまっていた20数名は二手に分かれることになりました。
第5連隊の指揮官の神成大尉についていく数名と、倉石大尉+山口少佐についていく倉石隊約20名です。
しかしその後、倉石隊は崖にはまり、身動きが取れなくなりました。発狂して川に飛び込んだ者もいたようです。
神成大尉一行は吹雪の中を進み、脱落者が続出し、最終的には神成大尉と後藤伍長の2人になりました。
神成大尉は後藤伍長に「田茂木野に行って住民を雇い、隊に連絡せよ!」と命じたため、後藤伍長は猛吹雪の中、意識朦朧としながらも必死に前に進みました。
そして、午前10時半ごろに救助隊が雪の中で直立不動の状態で立っている後藤伍長を発見します。後藤伍長は仮死状態でしたが、救助隊に蘇生処置を施され、意識を回復しています。
後藤伍長はかすかに「神成大尉」と言ったので、救助隊があたりを捜索すると、100m先で神成大尉が倒れているのを発見します。首まで雪に埋まっていたそうです。
医師が神成大尉に気付け薬を注射しようとしますが、皮膚が凍り付いていて針を刺すことができず、口の中に針を刺して注射しますが、蘇生することはなく、そのまま死亡しました。
遭難5日目にして、ようやく1名の生存者が救助されたのです。
第6~8日目(1月28日~30日)
6日目、倉石隊の一行はまだ川沿いの崖にいました。この隊の最上官である山口少佐はかなり衰弱していたといいます。
しかし7日目、8日目も生存者は救助されていません。そして8日目には、救助隊は36名の遺体を発見しています。
第9日目(1月31日)
1月31日、救助隊の1人が面白半分でウサギを追いかけていたところ、偶然に炭小屋を見つけました。
中には生存者が2人、死亡者1人がいました。炭小屋の周りには、16名の遺体を発見しています。
この日は倉石隊の倉石大尉らが崖をよじ登り、救助隊に発見されて、4名が救助されています。
そのほか、33名の遺体が発見されました。
第10日目(2月1日)
2月1日は、遺体が発見されたのみで、生存者は発見されていません。
第11日目(2月2日)
遭難11日目、炭小屋で4名の生存者が発見されて救助されました。
また、田代湯元の小屋で生存者1名(村松伍長)と死亡者1名が発見されています。
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村松伍長らは1月25日に隊からはぐれてさまよい、偶然小屋を見つけました。
温泉の湯などを飲んで生きながらえていましたが、27日には一緒にいた1名が亡くなり、それ以降は1人で雪を食べていたといいます。
これで、生存者の救出は終わりになりました。救助・捜索は延べ1万人が動員され、最後の遺体が収容されたのは5月28日のことでした。
八甲田山雪中行軍遭難事件の写真はある?
八甲田山雪中行軍遭難事件の写真は、実はあまり残っていません。
インターネットで「八甲田山雪中行軍遭難事件」と検索して出てきた写真は、後に映画化された映画のワンシーンのものであることが多いんです。
八甲田山雪中行軍遭難事件は、210名中199名が死亡するという大惨事で、1日目夜からほぼ遭難状態になりましたので、写真撮影どころの話ではなかったと思われます。
八甲田山雪中行軍遭難事件で残っている写真は、同時期に逆ルートでの八甲田山雪中行軍を成功させた弘前歩兵第31連隊のものか、救助活動中の写真のみになります。
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この残っている写真だけ見ても、八甲田山は雪が深く吹雪いていたこと、さらに極寒だったこと、そして想像以上に装備・服装が軽装だったことわかります。
八甲田山雪中行軍遭難事件での服装がヤバイと話題に
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八甲田山雪中行軍遭難事件では、行軍していた隊員たちは現代では考えられないほど、頼りない服装・装備でした。
上記写真が、八甲田山雪中行軍遭難事件の時の隊員の服装です。見ただけで、極寒の地で過ごすには明らかに頼りない感じですよね。
・毛糸の外套1着
・毛糸の軍帽
・ネル生地の冬軍服
・軍手1組
・長脚型軍靴
・長脚型雪沓(藁で作った長靴)
・毛糸の外套2枚重ね着
・フェルト地の普通軍帽
・小倉生地の普通軍服
・軍手1組
・短脚型軍靴
これで、厳寒期の八甲田山に挑もうなんて、現代の常識で考えると自殺行為以外の何物でもありません。
厳寒期の八甲田山は積雪は6~9mになるところもあり、最低気温は氷点下20度になります。
八甲田山雪中行軍遭難事件では、吹雪の時は体感気温は氷点下50度にもなったと言われています。
普通の軍服に毛糸の外套2枚を着ただけで、マイナス20度の世界へ…。
これだけで八甲田山雪中行軍遭難事件がなぜ起こってしまったのかがわかるくらい、当時の隊員たちの服装がヤバかったんです。
八甲田山雪中行軍遭難事件の死者数と死亡率
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八甲田山雪中行軍遭難事件では、死者は199名にのぼりました。
210名中199名が死亡していますので、死亡率はなんと94.8%にもなります。どれだけ八甲田山雪中行軍遭難事件が過酷なものだったかがわかる数字です。
八甲田山雪中行軍遭難事件の死者の中には、一度は救出されながらも、治療の甲斐なく亡くなってしまった人もいます。
倉石隊の最上官だった山口少佐も2月1日に救出されましたが、翌日にクロロホルムによるショックのために亡くなっています。(拳銃自殺説や軍部による暗殺説もあり)
また、死者全員の遺体が回収されて遺族のもとに返されたわけではなく、川に飛び込んだ人は遺体が海まで流れてしまったケースもあったようです。
八甲田山雪中行軍遭難事件の生存者の写真 【生き残った11名も無傷ではなかった…】
八甲田山雪中行軍遭難事件の生存者は全部で11名です。
・伊藤格明中尉
・長谷川貞三特務曹長
・後藤房之助伍長
・小原忠三郎伍長
・及川平助伍長
・村松文哉伍長
・阿部卯吉一等卒
・後藤惣助一等卒
・山本徳次郎一等卒
・阿部寿松一等卒
生存者はみんな東北の山間部出身で、普段はマタギや炭焼きに従事していて、冬山の知識がある者でした。
ただ、この生存者たちは「助かって良かったね!」というわけではなかったんです。
もちろん、命が助かったことは何物も代えがたい幸運ですが、ほとんどの人がひどい凍傷を負っていました。
倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長の3名以外は、凍傷で四肢や指を切断することになっています。
こちらは生存者の集合写真ですが、この時は義手・義足をつけていたそうです。
また、凍傷で四肢切断を免れた倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長の3名も、その後は悲惨な運命をたどりました。
日露戦争で、倉石大尉は戦死、伊藤中尉と長谷川特務曹長も重傷を負っています。
八甲田山雪中行軍遭難事件の原因まとめ
ここからは、八甲田山雪中行軍遭難事件の原因を探っていきましょう。
八甲田山雪中行軍遭難事件はなぜ、199名の死者を出すような大惨事になってしまったのでしょうか?
悪天候
八甲田山雪中行軍遭難事件は、厳寒期の八甲田山の中でもまれにみる悪天候に襲われました。
神成大尉たちが予行練習を行った時は天候に恵まれたこともあり、成功しています。
しかし、1月23日からは未曽有のシベリア寒気団が日本列島を襲い、八甲田山だけでなく、日本各地で観測史上最低気温を記録していたのです。
青森でも例年の平均気温よりも8~10度も低く、青森市内の観測所では1月24日の最低気温は氷点下12.3度、最高風速14.3mとなっています。
山間部である八甲田山ではそれよりももっと気温は低く、風速は強かったはずです。
雪山へ認識不足
八甲田山雪中行軍遭難事件の原因の2つ目は、雪山を甘く見ていたことでしょう。
青森歩兵第5連隊の隊員の多くは東北出身者でしたが、青森の地元出身者よりも南東北出身のものが多く、「八甲田山の厳寒期の恐ろしさ」を甘く見ていたようです。
生存者の長谷川特務曹長は、「タオル1本だけ持って、温泉に行く気分で出発した」という旨のことを証言しています。
また、神成大尉たちの予行練習は晴れていたこともあり、隊員の多くが遠足&トレッキング気分で参加していました。
貧弱な装備
八甲田山雪中行軍遭難事件が199名の犠牲者を出したのは、貧弱な装備も原因の1つでした。
先述の通り、あまりにも服装は軽装で、厳寒期の八甲田山を雪中行軍するには不向きな装備のままスタートしています。
替えの服も用意していなかったため、汗で濡れても着替えられず、そこから凍傷が始まってしまいました。
さらに、食料は凍って食べられないし、火をつけることにも一苦労の状態。1日で田代新湯の宿につく予定だったとはいえ、野営の用意も全くなしの状態でした。
指揮系統の混乱
八甲田山雪中行軍遭難事件が「人災」と言われているのは、指揮系統の混乱があったためです。
軍隊の場合、指揮系統がしっかりしていないと、グダグダになったり、隊の分裂が起こったりします。この青森歩兵第5連隊では、まさにそれが起こっていました。
・指揮官と同階級の大尉が複数名いた
これらの理由で、青森歩兵第5連隊は指揮系統に混乱が生じます。
神成大尉が命令しようにも山口少佐のお伺いを立てなくてはいけない状況ですし、実際に山口少佐は途中から指揮を執っていたという情報もあります。
また、指揮官の判断ミスも大きな要因でしょう。
・せめて地元民を案内役につけていたら…
・昼休憩時に軍医の進言に従い、下士官たちの言うことを無視して帰営していたら…
この八甲田山雪中行軍遭難事件は、こんな大惨事になる前に助かるチャンスが3回もあったのです。それなのに、指揮官は判断ミスを3回もしています。
これも、指揮系統が混乱していたこと、そのことで指揮官に変なプライドが沸いてしまっていたことが関係しているのかもしれません。
行軍ルートの情報不足
八甲田山雪中行軍遭難事件は、行軍ルートの情報不足も原因の1つです。
神成大尉が雪中行軍の指揮官になったのは、行軍の3週間前です。それまでは雪中行軍の経験もありません。
予行練習はしていたものの、八甲田山周辺のルートの情報はほとんど持っておらず、明らかに経験不足でした。
それなのに、地元民の案内役の申し出を断わり、コンパス(結局凍って使えなくなる)と地図だけで、雪中行軍するのは明らかに無謀だったと言えるでしょう。
また、指揮官は雪中行軍の知識がなかったため、夜明けまで待つことができず、深夜に露営地を出発してしまい、状況がさらにひどくなる事態に陥りました。
準備不足
八甲田山雪中行軍遭難事件の原因はなんといっても、準備不足が原因と言えるでしょう。
先ほどの神成大尉のルート・雪中行軍の知識不足もそうですが、すべてにおいて準備不足の状態でした。
雪中行軍をすることが隊員に伝えられたのは、1月21日のこと。これは出発の2日前であり、準備期間はたったの1日でした。
また、出発前日は遅くまで宴会をしていたこともわかっています。「準備不足」、この一言に尽きると言っても過言ではありません。
八甲田山雪中行軍遭難事件と同時期に出発した弘前歩兵第31連隊は成功している
出典:mainichi.jp
先ほども少し触れましたが、八甲田山雪中行軍遭難事件が起こった同時期、弘前第31連隊は、逆ルートから八甲田山雪中行軍を行いました。そして、1人の死者も出さず成功させています。
・行程:11泊12日(予定では10泊11日)
・行軍ルート:弘前 – 十和田湖 – 三本木 – 田代 – 青森 – 浪岡 – 弘前の全長224km
・参加者:37名+記者1名
・死亡者:0名(途中で負傷者1名は離脱している)
この1月28日にはちょうど青森歩兵第5連隊が遭難した地点を通り、1月29日には青森に到着しています。
ちなみに、青森第5連隊と弘前第31連隊は、お互いに同じ日程で同じルート(お互いに逆方向からだが)を雪中行軍するとは知らない状態でした。
八甲田山雪中行軍遭難事件で明暗を分けた理由①:案内人
八甲田山雪中行軍遭難事件で199名の犠牲者を出した青森第5連隊と死者0名の弘前第31連隊の明暗を分けたものは、案内人の存在です。
青森第5連隊は田茂木野で、地元の人から「どうしても行くなら案内人になってやる」と言われましたが、それを断っています。
それに対し、弘前第31連隊は全行程で地元の案内人を次々と雇っています。11泊12日の中で合計7人の案内人を雇いました。
地元民は雪山を熟知し、さらに道についても詳しく知っているので、案内人の存在が2つの隊の雪中行軍の明暗を分けることになりました。
案内人は七勇士
案内人をつけた弘前第31連隊は「素晴らしい」ともてはやされますが、弘前第31連隊はヒーローだったというわけではありません。
なぜなら、弘前第31連隊は案内人に対してひどい扱いをしていたんです。
・案内人が引き返すことを進言しても、叱り飛ばして無理やり案内させた
・露営をしている時に複数いる案内人の1人を人質にして、残りの案内人に無理やり道や小屋を探させた
八甲田山雪中行軍遭難事件で明暗を分けた理由②:準備
八甲田山雪中行軍遭難事件で明暗を分けた理由の2つ目は、やはり準備でしょう。
青森第5連隊と弘前第31連隊では、準備状況が全く違ったのです。
項目 | 青森第5連隊 | 弘前第31連隊 |
行軍告知日 | 出発の2日前 | 出発の1ヶ月前 |
指揮官 | 神成大尉 3週間前に雪中行軍の指揮官になるが 雪中行軍の経験・知識なし | 福島大尉 2年前から雪中行軍を経験していて、知識は 十分 |
案内人 | 断る | 複数名を雇う |
隊員 | 各中隊から210名 | 厳選した37名 |
情報収集 | なし | マタギや農家から事前に雪山の情報収集を行う |
隊列 | 途中でバラバラ | 隊員同士を縄で結んではぐれないようにした |
荷物 | 釜や薪など自分たちで運んだ | 各地で消耗品の補給は手配しておいた |
休憩 | 特に考えずに不定期に取る | こまめに休憩をとる |
これだけ見ても、青森第5連隊の無謀さがわかると思います。
弘前第31連隊はしっかり準備していただけでなく、隊員も地元青森出身で体格や資質も考えて、厳選した37名で行軍しています。
また、指揮官の雪中行軍に対する知識の差も、この2つの隊の明暗を分けたものの1つと言えるでしょう。
八甲田山雪中行軍遭難事件では心霊現象も報告されている
出典:aptinet.jp
八甲田山雪中行軍遭難事件は、199名の犠牲者が出ました。そして、この亡くなった199名の隊員たちの幽霊が出る、心霊現象が起こると言われているんです。
331 :本当にあった怖い名無し:2006/07/28(金) 00:14:12 ID:n9aYgCHW0
明治35年1月、厳冬期の八甲田山中にて、青森五連隊の雪中行軍隊210名が遭難し、199名が死亡すると言う事件がありました
それから1~2ヶ月後の寒い夜、青森五連隊連隊長の所へ、
営門の兵士が血相を変えて報告に来ました
連隊長が営門に駆けつけると、遠くの闇の中から、大勢が行進する音、軍歌、ラッパの音が近づいて来たそうです。
…だんだん近づいて来て、もう少しで闇の中から姿を現すと言う時、
連隊長はおもむろに軍刀を抜いて闇に向かって叫んだそうです
「雪中行軍隊の諸君! よーく聞け! 貴様等は勇戦奮闘し見事な最後を遂げた!
今や無情雪山の鬼と化すも、迷ってはならん! お前達の死は無駄ではなかった!
厳冬期の軍装及び戦術については、一大改革がなされる事となったぞ!
来たるべき戦役に於いて、未然に軍の損失を防いだその功績は大きい!
貴様等行軍隊員は、みな靖國神社に合祀される事になったのだ!
迷うな! 心安く眠れ! ここはお前達の帰って来る所ではない!
帝国軍人として見苦しい振る舞いは、この連隊長が許さん!
青森五連隊雪中行軍隊、回れ~右! 前へ~進め!」
足音はピタリと止まり、八甲田山に向けて進んで行き、二度と戻らなかったそうです。
また、これ以外にも八甲田山では心霊現象が良く起こると言われています。テレビでも、特集されていました。
八甲田山雪中行軍遭難事件は映画化された
出典:amazon.co.jp
八甲田山雪中行軍遭難事件は、今までに2回映画化されています。
・ドキュメンタリー八甲田山(2014年)主演:荒井隆人
高倉健さんが主演した1977年公開の八甲田山は有名ですね。
高倉健さんが弘前第31連隊の指揮官、北大路欣也さんが青森第5連隊の指揮官を演じています。
この映画「八甲田山」はかなりのリアリティを持って作られていて、「見ていて怖くなる」と評判です。
また、映画の原作となった新田次郎の「八甲田山死の彷徨」も八甲田山雪中行軍遭難事件を題材にした名作の1つです。
八甲田山雪中行軍遭難事件のまとめ
八甲田山雪中行軍遭難事件の概要まとめやルート地図、行軍詳細、当時の写真と死者・生存者について、死者が増えた原因、心霊現象や映画などをまとめました。
八甲田山雪中行軍遭難事件は知れば知るほど恐ろしい事件です。
この八甲田山雪中行軍遭難事件での教訓が日露戦争で生かされたことが、せめてもの救いと言えるかもしれません。