18歳という若さで亡くなったアイドル・岡田有希子さんですが、没後30年経って明らかになった新事実が話題です。
今回は岡田有希子さんの自殺の経緯と現場や遺書、峰岸徹さんと神田正輝さんとの関係、真相や新事実をまとめました。
この記事の目次
岡田有希子のプロフィール
プロフィール
・名前: 岡田 有希子(おかだ ゆきこ)
・本名: 佐藤 佳代(さとう かよ)
・愛称: ユッコ
・生年月日: 1967年8月22日
・没年月日: 1986年4月8日(18歳)
・出身地: 愛知県一宮市
・死没地: 東京都新宿区四谷
・血液型: O型
・身長: 155 cm
・体重: 44 kg
・BMI: 18.3
・スリーサイズ: 86 – 58 – 84 cm
・デビュー: 1984年
・活動期間: 1983年 – 1986年
・事務所: サンミュージック
・レーベル: キャニオンレコード
岡田有希子のデビュー~芸能活動まとめ
中学生の頃から芸能界に憧れを抱き始めた岡田有希子
2人姉妹の次女として、大変な難産の末に体重2,700グラムの未熟児として誕生した岡田有希子さんは、幼少期には「さ行」が上手く発音できなかったそうです。
また、子供の頃から絵や文章を描く(書く)ことが大好きな少女で、小学生の頃の将来の夢は画家や漫画家、小説家になることでした。
そんな岡田有希子さんは、中学生になると芸能界に憧れを抱くようになり、「ホリプロタレントスカウトキャラバン」やテレビドラマなど、様々なオーディションに応募していたそうです。
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岡田有希子が「スター誕生」の地区予選から決戦大会に出場するまで
そんな1982年6月、岡田有希子さんが中学3年生の時のこと、1年前に応募していた当時大人気だったオーディション番組「スター誕生」の予選会出場の通知が届きました。
学校を無断欠席して名古屋地区の予選会に出場した岡田有希子さんは、北原佐和子さんの「マイ・ボーイフレンド」を歌い、見事決戦大会への切符を掴みました。
「Nikonフレッシュギャルコンテスト」で準グランプリに輝き、初めてプロのカメラマンに撮ってもらったポートレート。まだ芸能界入りする前なので、本名の「佐藤佳代」名義でした。
しかし、担任の先生や家族の猛反対を受け、12月の決戦大会出場を断念するんですよね。
絶望した岡田有希子さんは、それ以来部屋に閉じこもり、数日間は食事すら摂らなかったと言います。
そんな娘を見かねた母親が、次の3つの厳しい条件と引き替えに本選への出場を許したと言います。
1.学内テストで学年1位になること
2.住んでいる地方の統一模試で学年5位以内に入ること
3.第一志望である地元ではトップの進学校である向陽高校に合格すること
そして岡田有希子さんは、猛勉強の末、これら3つの条件を全てクリアしたのです。
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「サンミュージック」福田時雄氏が岡田有希子のスター性を一目で見抜く
“桜田淳子に通じるオーラ”を感じた。
後にこう語ったのは、芸能事務所「サンミュージック」専務・福田時雄氏でした。
福田氏は、以前に岡田有希子さんが出場した「スター誕生」の名古屋地区の予選会の会場に、その時たまたまゲストとして出演していた桜田淳子さんに付き添っていたようです。
岡田有希子さんが1983年3月30日に行われた「スター誕生」決戦大会への出場が許されたのは、そんな福田氏の家族への説得も功を奏していたようです。
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岡田有希子さんはこの決戦大会で、芸能事務所は「サンミュージック」「研音」、レコード会社は「キャニオンレコード」「VAP」の4社に指名されます。
最終的に岡田有希子さんは、「サンミュージック」と「キャニオンレコード」との契約が決まりました。
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岡田有希子は「ポスト松田聖子」と期待された逸材だった
岡田有希子さんはその後、猛勉強の末に合格した向陽高校を1学期通っただけで堀越学園に転校して名古屋から上京し、所属事務所の寮に入って本格的なデビューを目指すことになりました。
昭和58年夏、サンミュージックでは翌年春のデビューを目指して「岡田有希子プロジェクト」が発足したと言います。
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そんな当時、岡田有希子さんを見出した福田専務は、彼女を連れてキャニオンレコードの営業所へ挨拶に訪れた時のことが今も忘れられないと言います。
有希子は『恋人のいらっしゃる方は3分の1、奥様のいらっしゃる方は4分の1で結構ですから有希子に愛情をください』と言いました。こんなことを話した子は初めてでした。独身の男性社員が『僕は100%です』と言いだし、大変、盛り上がりました。
引用:「愛情をください」と訴えた岡田有希子 死の直前、シクシク泣いて「事務所へ行きたい」 https://dot.asahi.com/
1983年10月にタレント活動を開始した岡田有希子さんは、翌1984年4月には予定通り歌手デビューを果たします。
そして、歌謡大賞新人賞、レコード大賞新人賞など、昭和59年度の新人賞レースを総なめにしました。
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その後もトップアイドル歌手として、全国ツアーやプロモーション、連続ドラマ出演と大活躍し、わずか2年の芸能生活の中で、シングルレコード8枚とアルバム6枚をリリースしています。
それらは全て10万枚を超えるヒットを収め、岡田有希子さんはスターの階段を軽やかな足取りで駆け上がっていきました。
そして、最後のシングルとなった「くちびるNetwork」はヒットチャート1位を獲得し、累計32万枚を超える大ヒットを記録!トップアイドルの地位を確固たるものとしたのです。
が、しかし!そんな岡田有希子さんの突然の自殺は、まさにその矢先の出来事だったのです…。
岡田有希子の自殺騒動① 前日~自殺当日の経緯
1986年4月当時の岡田有希子さんと言えば、デビュー2年目にしてシングル「くちびるNetwork」が初のチャート1位を獲得し、まさに「ポスト松田聖子」として人気絶頂にありました。
この3月末には堀越高校を卒業し、4月4日からは、それまで下宿していたサンミュージック社長の相澤秀禎氏の家を出て、念願の独り暮らしを始めたばかりだったんですよね。
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独り暮らしを始めて4日目の4月7日、岡田有希子さんが自殺する前日の様子から振り返ってみたいと思います。
【1986年4月7日】 岡田有希子が自殺する前日の様子
この日、岡田有希子さんはオフで、主演ドラマ「禁じられたマリコ」で共演したタレントの浅見純子さんと一緒に映画鑑賞をして過ごしています。
趣味は映画鑑賞だった岡田有希子さんは、1日に2、3本見ることもざらだったそう。
この日はまずは新宿で「STARS / ウィ・アー・ザ・ワールド」、続いて渋谷で「ロッキー4 / 炎の友情」を鑑賞しています。
渋谷パンテオンで行われた「ロッキー4」の試写会に現れた岡田有希子さんは、偶然、招待客を撮影しにきていた数社のカメラマンの写真に収められています。そのうちの1枚がこちら。
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そして、この時の写真が生前の岡田有希子さんを写した最後の1枚になるのですが…そのにこやかな表情からは、死の兆候は全く感じられません。
映画鑑賞を終え、岡田有希子さんが自宅マンションに戻ったのは午後10時頃のことでした。
その直後である10時10分頃にマネージャーからの電話を取った時の岡田有希子さんは、いつもと変わらず元気そうだったようです。
その後、同じく「禁じられたマリコ」で共演した女優の生田智子さんと、何度か電話でやり取りをしているんですよね。
午後11時過ぎに岡田有希子さんが生田さんにかけた電話では、いつもと変わらない明るい声だったそうです。
そして11時半前に、生田さんが用事を思い出して今度は彼女の方から岡田有希子さんに電話をするのですが、岡田有希子さんは出なかったのだとか。
生田さんが留守電に用件を残しておいたところ、11時半過ぎに岡田有希子さんから折り返しの電話がかかってきた時の岡田有希子さんはひどく落ち込んだ暗い声をしていたと言います。
つまり、1回目の生田智子さんとの電話を切ってから、2度目に話した電話までの約30分の間に、岡田有希子さんを激しく落ち込ませる出来事が起こったことになりますね。
【1986年4月8日】 自殺当日の岡田有希子の様子
落ち込む出来事があっても、一晩眠れば嘘のようにスッキリ…ということもありますが、この時の岡田有希子さんの精神状態は、時間の経過とともに絶望のどん底へと墜ちていったようです。
翌4月8日の午前10時頃、岡田有希子さんは遂にリストカットした上で、ガス自殺を図ったんですよね。
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幸い、岡田有希子さんの異常にいち早く気付いた近隣住民の通報により、この時の自殺は未遂に終わりました。
岡田有希子さんは北青山病院に救急搬送されるのですが、駆けつけたサンミュージックの元専務・福田時雄氏は、後に次のように当時の岡田有希子さんの様子について振り返っています。
「その朝、(創業者の故・)相澤(秀禎)から『有希子が大変だ。北青山病院に迎えにすぐ行ってくれ』と電話が入ったんです。駆けつけるとカーテンの奥で手首に包帯を巻かれた有希子が泣いていた。ワーッと声を出して泣くのではなく、シクシクという感じで。
幸いためらい傷だけだったので、医者に入院の必要はないと告げられ、私は有希子を連れてタクシーに乗りました。『どこに行きたい? 名古屋の実家へ戻るか? 自宅マンションへ帰るか? 事務所に行く?』と尋ねると、事務所がいいと言うので、四谷へ向かったのです」
引用:「愛情をください」と訴えた岡田有希子 死の直前、シクシク泣いて「事務所へ行きたい」 https://dot.asahi.com/
こうして生前最期の場所となるサンミュージックの事務所ビルに戻ってきた岡田有希子さんですが、この時には既にある覚悟を持っていたのかも知れませんね。
「有希子を6階の社長室に連れていき、私と付き人の女の子が寄り添いました。しばらくすると外にいた相澤から電話が入ったので、私が隣室に移った。その隙に彼女はスウッといなくなってしまったのです」
引用:「愛情をください」と訴えた岡田有希子 死の直前、シクシク泣いて「事務所へ行きたい」 https://dot.asahi.com/
その直後、岡田有希子さんはビル屋上へと駆け上がり、そのまま身を投げることに…。
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岡田有希子の自殺騒動② 自殺現場の生々しい状況が現在も動画に残っていた…
ワイドショー全盛だった当時、岡田有希子さんの自殺現場に駆けつけた梨元勝リポーターが、その時の緊迫した状況をテレビで伝えるのですが、その動画が現在も残っているので紹介します。
ただ、自殺直後の現場であり、路上にはシートがかけられた岡田有希子さんの遺体らしきものや、おびただしい血が流れていることも確認できます。くれぐれも閲覧注意でお願い致します。
なお、レポートが始まった当初は、情報が錯綜していたようで、それを伝える梨元勝さんも自殺したのは岡田有希子さんのマネージャーとの情報の下、取材を進めていたようです。
しかし、取材を進める中で、自殺したのは実は岡田有希子さん本人であることが判明するという生々しいレポートになっています。
特に、北青山病院から岡田有希子さんに付き添っていた福田氏が、自殺原因を問われた際、「わからない」としながらも「躁鬱の激しい子ではあった」と答えているのが印象的ですね。
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また、当時人気絶頂にあった18歳のアイドルの突然の自殺騒動は、色々な意味で大きな反響を呼び、さらにはファンの後追い自殺が相次ぐといった社会現象にもなりました。
「ユッコ・シンドローム」と呼ばれたこの問題は、国会でも議論されるほどだったんですよね。
本事件は「ユッコ・シンドローム」と呼ばれた。正確な人数は不明だが、自殺から2カ月が経過した6月8日の朝日新聞には「30人を超える若者が自殺している」との記載があり、少なくとも岡田の死後、30~40人が若者が自死を選んだとされている。
引用:岡田有希子、hide、野猿の解散まで…世間に衝撃を与えたファンによる「後追い」 https://www.excite.co.jp/
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岡田有希子の自殺騒動③ サンミュージック・相沢会長が最期まで守り抜いた遺書
1986年4月8日に自殺した岡田有希子さんの自宅には、遺書と思われる鉛筆で書かれたノートがあったと言われています。
そして、そこに書かれていたこととは…報道によると次のようなことが書かれていたとされています。
この記事の中の遺書の内容部分を拡大してみると…
「男優の峰岸徹さんにふられた…あこがれていたのに、最近冷たくされて悲しい……勝手なことをしてごめんなさい…」
ただ、岡田有希子さんの遺書は実際に公開されたわけではなく、彼女の死後は長らくサンミュージックの相沢秀禎会長が管理する金庫の中に保管されてきたと言われています。
一般に岡田有希子さんが自殺を選ぶほど辛い失恋をした相手は、俳優の峰岸徹さんだと言われています。
しかし、実際に岡田有希子さんの遺書を保管している相沢秀禎会長は、遺書に関しては頑なに口を閉ざしていたようです。
あるときは酒の席で相澤会長に突っ込んだが「どんなに酔っていても、その話になると『その話はやめてくれ』の一点張りで、教えてもらえなかった」という。
「でも、当時取材した芸能リポーター(故人)からは、日記自体の存在を会長が認めた話も聞きましたし、日記の最期の言葉が“さようなら”だったということも分かっています」(同)
引用:サンミュージック故・相澤秀禎会長が、最期まで守り通した岡田有希子さんの“日記ノート” https://news.infoseek.co.jp/
そんな「サンミュージックプロダクション」創業者であり、代表取締役会長の相澤秀禎さんも、2013年5月23日に83歳でこの世を去っています。
相沢秀禎会長と言えば、岡田有希子さんが上京以降、自殺する数日前まで彼女を自宅に下宿させて生活を共にしてきた、言わば岡田有希子さんの第2の父親のような存在でした。
それだけに、相沢秀禎会長が岡田有希子さんの自殺の真相を知っていたとの見方は根付く、マスコミはことあるごとに探りを入れてきたことは言うまでもありません。
それでも最期まで、岡田有希子さんの最大の秘密を守り通し、文字通り墓場まで持っていったわけですから、タレント事務所のトップとしては完璧な仕事をやり遂げたと言えそうですね。
岡田有希子の自殺の真相① 失恋相手は峰岸徹?神田正輝説も
岡田有希子さんの死については、現在も不可解な点が多いため、一部の間では他殺説まで囁かれるなど、さまざな憶測が流れています。
この記事では、岡田有希子さんの自殺の真相として最も有力視されている“失恋説”に注目して、代表的な峰岸徹説と神田正輝説の2つの説についてまとめてみたいと思います。
岡田有希子の失恋相手① 峰岸徹説
前述したように、岡田有希子さんが残した遺書とされるノートには、俳優・峰岸徹さんの名前と、振り向いて貰えない辛い心の内が記されていたと報じられています。
出典:https://ameblo.jp/
そんな岡田有希子さんと峰岸徹さんは、1985年のドラマ「禁じられたマリコ」で共演しています。
峰岸徹さんは1983年に前妻・女優の藍とも子さんと離婚しているため、2人が知り合った当時は独身でした。
その意味では、2人が交際するには年の差以外に支障はないわけですが、実は、岡田有希子さんと知り合った当時は、峰岸徹さんは既に別の女性と交際していたとも言われているんですよね。
そんなこともあってか、峰岸徹さんは岡田有希子さんの自殺後にマスコミの囲み取材を受け、次のように語っています。
出典:http://img-cdn.jg.jugem.jp/
「正直、ものすごくショックです。僕は兄貴のつもりでいたんですが、彼女はそれ以上のプラスアルファがあったのかもしれない。それが愛だったら、責任を感じます」
引用:峰岸徹が死ぬまで向き合い続けた「岡田有希子自殺」の衝撃 http://www.excite.co.jp/
峰岸徹さんは岡田有希子さんとの交際関係を完全に否定し、岡田有希子さんはあくまで妹的な存在であり、恋愛感情は一切無かったとキッパリと断言しています。
ただ、岡田有希子さんから恋慕されていた可能性については肯定しているんですよね。これを受けた一部のマスコミが暴走。
「岡田有希子は峰岸徹にもてあそばれた挙げ句に自殺に追い込まれた」とか、「岡田有希子は峰岸徹の子供を身籠もっていた」と事実に基づかない扇情的なタイトルの記事が溢れることに…。
いつしか、この“峰岸徹説”には尾ひれがつき、やがて独り歩きを始め、現在では岡田有希子さんの自殺原因の最有力説として多くの人が認識していると言っても過言ではないでしょう。
出典:https://ameblo.jp/
岡田有希子の失恋相手② 神田正輝説
その一方で、岡田有希子さんの自殺原因となった失恋相手は、実は峰岸徹さんではない…という見方もあるんですよね。
その失恋相手の正体は、岡田有希子さんが自殺する前年に松田聖子さんと電撃結婚した、俳優の神田正輝さんです。
ちなみに、神田正輝さんと松田聖子さんの間には1986年10月に長女・神田沙也加さんが誕生するのですが、1997年には2人は離婚しています。
出典:https://buyee.jp/
そして、実はこの神田沙也加さんが、岡田有希子さんの自殺に関連していると見られているようです。
なにぶん週刊誌の記事なので、ある種の“眉唾感”は否めません。
しかしこの記事には、岡田有希子さんと神田正輝さんの関係のみならず、彼が所属する石原プロモーションを巻き込む驚くべき内容が書かれおり、ごくごく簡単にまとめてみると…。
・岡田有希子さんが思いを寄せていたのは、峰岸徹さんではなく実は神田正輝さんだった
・松田聖子さんが妊娠発表したのは、岡田有希子さんが自殺する前日である1986年4月7日だった
・岡田有希子さんも神田正輝さんの子供を妊娠していた
つまり、石原プロモーションが、当時結婚したばかりだった神田正輝さんの醜聞を嫌って、岡田有希子さんと峰岸徹さんとの噂をでっち上げたと言うものです。
これにより、石原プロから峰岸徹さんに対して莫大なお金が動き、峰岸徹さんは様々な仕事上の優遇を受けたとも…。
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また、この記事はこれ以外にも…
・政界人に対するアイドルの枕営業が常態化しており、それを斡旋していたのが石原慎太郎という政界に太いパイプを持つ石原プロだった。
・岡田有希子さんの1度目の自殺未遂後に、事務所の人間が岡田有希子さんに「とんでもないことをしてくれたな!」と2度の平手打ちを食らわして、彼女を必要以上に追い詰めた。
なんて話もあるのですが、さすがにそこまでいくと、もはや眉唾の域を通り越しているような気がするのですが…真相は不明です。
さらに神田正輝と松田聖子の結婚自体が偽装だった…なんて話まで
さらにネットなどでまことしやかに囁かれているのが、松田聖子さんと神田正輝さんの結婚そのものが偽装で、実は松田聖子さんと石原裕次郎さんの不倫を隠すためだったとの説なんです。
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つまり、石原裕次郎さんは松田聖子さんとの不倫関係を隠すため、当時、神田正輝さんと交際していた岡田有希子さんを無理やり別れさせ、松田聖子さんと結婚させたというのです。
一見するとぶっ飛んだ説ではありますが、一応筋は通っているせいか、妙な説得力があるんですよね。
とは言え、当時の峰岸徹さんと言えば、既に名バイプレイヤー俳優としての地位を確立しており、いくらお金や仕事のためとは言え、そこまでするとも考えられません。
ただ…そもそも峰岸徹さんが俳優を目指したのは、石原裕次郎さんに憧れたからなんですよね。
そんな憧れの人に「トン(峰岸徹さんの愛称)、頼む!」なんてあの渋い声で言われたら断れないかも…。
岡田有希子の自殺の真相② 没後30年…元専務・福田氏が番組で語る
岡田有希子さんが自殺する直前まで、彼女に寄り添っていたサンミュージックの元専務・福田時雄氏が、2016年12月2日放送「爆報!THEフライデー」に出演。
没後30年を迎えた岡田有希子さんの自殺の真相を語り、話題になりました。
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前述したように、岡田有希子さんは飛び降り自殺をする約2時間前にも、自室にてガス自殺を図っています。福田元専務によると、この2つの自殺にはそれぞれ異なる背景があるのだとか。
1回目は「一途な思い」、2回目は「自責の念」
番組のインタビューに応じた福田元専務は、岡田さんの1回目の自殺未遂は「(当時関係を噂された)男性への一途な思いから」の行動であり、2回目の自殺は「(自殺未遂で)大変なことをしてしまったから、もう生きてはいけないと思い詰めたのではないか。皆に迷惑かけたという自責の念」などと語り、午前中の自殺未遂が正午過ぎの飛び降り自殺につながったとの見方を示した。
引用:岡田有希子さん「自殺の真相」 サンミュージックの元専務が語る https://news.livedoor.com/
岡田有希子さんが恋慕していた相手が誰だったかは置いておくとして、最終的に飛び降り自殺に至った原因は、彼女の責任感からくる自責の念によるものだったとの見方を示されたわけです。
この番組にゲスト出演し、流されたVTRを見た田原俊彦さんは、当時の芸能界の特殊性について次のように語っています。
当時の芸能界は隔離された社会だった。18歳の女の子には悩みを打ち明ける場面、同業者にも言えなかったと思う。
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岡田有希子の自殺の新事実とは 【資料を盗んだ元社員を直撃】
さらに、岡田有希子さんの死後、サンミュージックに保管されていた岡田有希子さんに関する大量の貴重な資料が紛失するという事件が発生しています。
この時の「爆報!THEフライデー」では、資料を持ち出したとされる元社員を特定し、その人物に直撃するシーンも放送されたんですよね。
出典:https://nozuesake.hamazo.tv/
番組では、岡田さんの死の2年後にサンミュージックに入社し、2年勤めた後に突然退社したオーストラリア出身の白人男性・リチャード氏(50)と特定。都内に住む本人を直撃した。
同氏は「(資料を)持ち出したことは本当のことです。会社から勝手に持ち出したことは申し訳ないと思っています」と謝罪。都内の倉庫のコンテナに岡田さんの資料194点を大切に保管していることを告白した。
サンミュージック勤務当時、岡田さんの貴重な資料が同社の倉庫の奥深くにしまい込まれているところを目撃。「30年でも100年でも残すことに意味がある」と、資料持ち出しを決意した理由を明かした。
引用:岡田有希子さんの資料30年ぶりに見つかる、持ち出した元社員「残すことに意味がある」 http://www.hochi.co.jp/
さらに番組では、岡田有希子さんの直筆のスケッチや文章、デビュー当時のブロマイド、さらに本人が語りかける肉声映像などの貴重な資料を初公開しました。
出典:http://40owata.xyz/
また、資料を無断で持ち出された形のサンミュージックは、「岡田有希子を愛するが故の行動であるため不問にする」とのこと。
これに対するネット上の反応は次の通りです。
568: 渡る世間は名無しばかり 2016/12/02(金) 20:23:09.22 ID:+gLVqkbg
単なるドロボーじゃねーかw
889: 渡る世間は名無しばかり 2016/12/02(金) 20:28:27.08 ID:VpTUzQau
ガチヲタwwwwwwwww
894: 渡る世間は名無しばかり 2016/12/02(金) 20:28:33.53 ID:MVJbK48v
それでサンミュージックに潜りこんだのかよ
すげえな
134: ユメ見る男色家 ◆69OToKo1TI 2016/12/02(金) 20:31:08.32 ID:HcTZso3j
いやいやあかんやろ
盗んで独り占めしたのと一緒やぞ
この番組が追っかけてなかったら盗んだこと言ってなかっただろ
136: 渡る世間は名無しばかり 2016/12/02(金) 20:31:11.18 ID:+jre3u8p
不問ってなんだよw
引用:爆報!THEフライデー【あの昭和スターの謎が明らかに!2時間SP】★7 http://hayabusa2.2ch.sc/
岡田有希子の資料を盗んだ外人は「Youは何しに日本へ?」に出演していた!
さらにネット上では、岡田有希子さんの資料をサンミュージックから持ち去った元社員・リチャードについて、別の騒ぎが起こっていたんですよね。
この放送を見ていた視聴者の中に、このリチャード氏の顔に見覚えのある人がいたようです。
そしてすぐに、以前に「Youは何しに日本へ?」に岡田有希子さんの大ファンとして登場していたことが突き止められたのです。
出典:https://nozuesake.hamazo.tv/
YOUは何しに日本へ?にも出てたヤツじゃん!!
横領してたのに良いファンぶってテレビ出てるんじゃねぇよ~
事務所は不問にするみたいだけど
こうなったら責任を持ってこの資料をファンに公開しろよ!!!
引用:グッズ横領事件。。。 https://nozuesake.hamazo.tv/
「岡田有希子を愛するがゆえの行為のため不問」
というサンミュージックの対応には激しく意味不明ではありますが、もしかするとサンミュージック側にも不問にしなければならない事情があったのかも知れませんね。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
わずか18歳という若さで自殺した、人気絶頂のアイドル・岡田有希子さんの壮絶な自殺現場の様子と、残された遺書の存在について調べてみました。
また、峰岸徹さんとも神田正輝さんとも言われている、岡田有希子さん自殺の原因となった失恋相手など真相、さらに岡田有希子さんの没後30年で明らかになった新事実をまとめました。
出典:https://twitter.com/
最後に、岡田有希子さんの葬儀の際、サンミュージックの相澤社長と福田専務に対して、岡田有希子さんの父親は次のように言ったそうです。
「短い人生でしたが、人生を凝縮したような幸せな子でした」
岡田有希子さんのご冥福を心よりお祈りいたします。