「池田屋事件」は、新撰組によって尊王攘夷派の浪士が襲撃され10数名が死亡した幕末の事件です。
この記事では池田屋事件をわかりやすく解説し、事件の場所や死者、有名な階段落ちシーン、事件の真相や坂本龍馬暗殺との関係などについてまとめました。
この記事の目次
池田屋事件をわかりやすく解説① 事件の概要
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「池田屋事件」とは、1864年7月8日(旧暦の元治元年6月5日)に京都三条木屋町(三条小橋)にあった旅館「池田屋」に潜伏し謀議をしていた長州藩、土佐藩、肥後藩を中心とした尊王攘夷派の志士(浪士)を、京都守護職配下で京都の治安維持を任務としていた「新撰組」が襲撃し、少なくとも志士9名を殺害、24名を捕縛した事件です。
この池田屋事件は、同年8月20日に発生した長州藩による挙兵事件「禁門の変」のきっかけにもなりました。
また、「新撰組」の名を一躍有名にした事件としても知られています。
今回はこの幕末でも最も有名な事件の中の一つである「池田屋事件」を出来る限りわかりやすくまとめていきます。
池田屋事件をわかりやすく解説② 事件発生までの動き
まずは「池田屋事件」が発生するまでの動きを簡単な時代背景も含めてわかりやすくみていきます。
「池田屋事件」が発生した当時の日本では、1853年のペリーの黒船来航、1858年の日米修好通商条約(不平等条約だった)などを例とする欧米列強からの外圧に危機感を強めた諸藩出身の浪士(いわゆる幕末の志士)らが尊王攘夷をはじめとする政治思想を掲げ、当時の政局の中心であった京都に潜伏して反幕府的な政治活動を行なっていました。
こうした反幕府的な動きに対抗するため、江戸幕府は1862年に浪士を募集して「新撰組(当初の隊名は浪士組)」を結成させ、京都守護職・松平容保の下、京都での治安維持任務にあたらせました。
1864年5月下旬頃、新撰組は、京都河原町で炭薪商・枡屋喜右衛門を名乗り、諜報活動や武器調達にあたっていた長州間者(スパイ)の大元締め・古高俊太郎の存在を突き止めました。
同年6月5日、新撰組は古高俊太郎の邸宅に踏み込んで古高俊太郎捕縛し、激しい拷問の末にある計画を自白させます。
その計画とは、「八月十八日の政変(尊王攘夷派の長州藩が政治の中心から排除されたクーデター事件)」によって京都を追われていた長州藩士らが、6月下旬の風の強い日を狙って京都御所に放火し、その混乱に乗じて、佐幕派(幕府支持派)の中川宮朝彦親王を幽閉し、京都守護職・松平容保(会津藩主)、禁裏御守衛総督(京都御所警護役)の一橋慶喜(後の徳川慶喜)らを殺害。そして、孝明天皇を長州へと連れ去るという内容でした。
この計画を事前に防ぐ目的で、同年7月8日の19時頃に新撰組は出動。新撰組を率いる近藤勇、土方歳三らは隊を3小隊に分け、尊王攘夷派の浪士が潜伏している可能性がある場所を虱潰しに捜索しました。
そして、捜索開始から約3時間後の22時頃に、近藤勇率いる10名の小隊が、三条小橋の旅館・池田屋の2階にて、新撰組に捕縛された古高俊太郎の救出計画を練るために会合している尊王攘夷派の志士ら約20数名を発見。近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名が旅館内に突入し「池田屋事件」が引き起こされたのでした。
池田屋事件をわかりやすく解説③ 新撰組突入からの戦闘経過
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池田屋で会合する尊王攘夷派の志士ら約20数名を発見した近藤勇らの新撰組の10名は、まず表口と裏口にそれぞれ3名ずつを配置して固めさせた後、残る近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名が池田屋内に突入しました。
「主人はおるか。御用改めである」の声に驚き、池田屋の主人の池田屋惣兵衛は志士らに危急を伝えようと2階への階段を駆け上がります。近藤勇らはそれに続いて尊王攘夷派浪士らの会合する部屋へと踏み込みました。
新撰組の突入に気がついた志士らは一切に抜刀して抵抗の構えを見せますが、近藤勇はここで「御用改めである。手向かいいたすにおいては容赦なく斬り捨てる」と降伏を促しました。永倉新八の証言によれば、この時の近藤勇の気迫に押され、浪士らは一斉に後ずさったといいます。
しかし、浪士らは近藤勇らが少数である事を見てとると、この場を突破して逃走を図りました。1人の志士が斬りかかったのを、沖田総司が切り捨てたのを合図に激しい戦闘が開始されました。
20数名の志士に対したった4名の無勢ながら、戦闘経験豊富な新撰組は敵を圧倒。窓から庭に飛び降りて逃走を図るものも続出し、表口と裏口を固めていた隊士らとの戦闘も開始されます。
脱出を図る浪士のうち、熊本藩士・宮部鼎蔵ら数名は、裏口を守っていた安藤早太郎、奥沢栄助、新田革左衛門の3名に斬り込み突破しています。この戦闘で奥沢栄助が斬死し、安藤早太郎と新田革左衛門も傷を負ってそれが元で1ヶ月後に死亡しています。(安藤、新田の死亡に関しては異論もあり)
この戦闘の最中、沖田総司は体調が悪化して戦闘を離脱しています。ドラマや映画などでは、沖田総司が喀血して自分の死期が近い事を悟る場面として描かれますが、これは事実ではない可能性が高く、単なる長時間の捜索活動の末の激しい戦闘で体調を崩して倒れたというのが真相とする見方が有力です。
また、池田屋1階で戦っていた藤堂平助も、暑さのあまり鉢金を取ったところ、額を斬られ、流れ落ちる血が目に入ったため戦場から離脱しています。(敵に鉢金を打ち落とされたとの説もあり)
結果、新撰組側で池田屋内で戦っているのは近藤勇と永倉新八の2名だけとなり一時苦戦となりますが、その後、土方歳三率いる別働隊が到着した事で形成が逆転し、最終的にその日の戦闘で新選組があげた戦果は、尊王攘夷派の浪士のうち戦闘中に死亡が4人、戦闘で負傷し逃亡後に死亡した者が4人、捕縛された者が3人と推測されています。
池田屋での戦闘が終結する頃には、会津藩、桑名藩からの応援が到着しており、池田屋周辺から京都の長州藩屋敷までの要所はその兵力で固められていました。
そのため、池田屋から辛くも脱出した尊王攘夷派の浪士らもその逃走中に多数が討たれ、捕縛されています。
正確な戦果は不明で諸説ありますが、近藤勇は最終的にこの池田屋事件での戦果を手紙で「打取7人、手負2人、召取23人」と書いています。
池田屋事件をわかりやすく解説④ 事件後の影響
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「池田屋事件」のその後の影響についても見ていきます。
まず、単独で池田屋に切り込んで倍する人数の浪士らを打ち破り、京都御所焼き討ちの計画を未然に防いだ新撰組の名は天下に轟くこととなり、組織を巨大化させる事になります。新撰組は反幕府勢力から恐れられる存在となりますが、同時に強い恨みを買う事になりました。
そして、この池田屋事件で多くの仲間を討たれた攘夷派は、追い詰められることになり、強硬派に押し切られる形でついに長州藩が挙兵、会津藩主で京都守護職の松平容保を排除する目的で上洛し「禁門の変」を引き起こす事へとつながっていったのでした。
池田屋事件の発生場所について
池田屋事件の発生した場所は、京都三条木屋町(三条小橋)にあった旅館・池田屋です。
「池田屋事件」の後、主人の入江惣兵衛が尊王攘夷派の浪士を匿った罪で投獄され獄中死していますが、池田屋は親族によって経営が引き継がれ、その後建物は100年近く存続し1960年頃に取り壊されたという事です。
その後、池田屋があった場所はテナントビル、ケンタッキーの店舗、パチンコ屋を経て、2009年からは「旅籠茶屋 池田屋 はなの舞」という居酒屋が経営されています。住所は「京都府京都市中京区 東入中島町82」です。近くの場所には「維新史跡池田屋騒動之址」という石碑も建てられています。
池田屋事件での死者
「池田屋事件」での尊王攘夷は志士の死者は分かっているだけで以下となっています。
宮部鼎蔵(池田屋内で自刃)
北添佶摩(池田屋内で自刃)
大高又次郎(池田屋内で討死)
石川潤次郎(池田屋内で討死)
松田重助(池田屋内で討死)
伊藤弘長(池田屋内で討死)
福岡祐次郎(池田屋内で討死)
広岡浪秀(池田屋内で討死)
吉田稔麿(脱出後に自刃)
望月亀弥太(脱出後に自刃)
杉山松助(長州藩屋敷から応援に駆けつけたところを会津藩兵に切られ死亡)
野老山吾吉郎(脱出後に自刃)
藤崎八郎(脱出後に自刃)
また、事件に巻き込まれる形で一般人の死者も出ており、近江屋の女将の近江屋まさが、尊王攘夷派捜索のために「近江屋」に踏み込んだ会津藩兵に斬殺されています。
池田屋事件で有名な階段落ちはフィクション
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池田屋事件といえば、映画やドラマなどでは、浪士の1人が新撰組に切り倒されて豪快に階段を転げ落ちる「階段落ち」のシーンが有名ですが、この「階段落ち」は史実にあった出来事ではなく、フィクションだと見られています。
というのも、当時の池田屋の階段はかなり狭く急勾配であり、人が転がるように階段落ちが起こるとは考えづらいためです。
池田屋事件の真相として新撰組による捏造説も有力とされている
「池田屋事件」は、尊王攘夷派の浪士が京都御所に放火し、その混乱に乗じて佐幕派の有力大名を暗殺し、同じく佐幕派の中川宮朝彦親王を幽閉した上で孝明天皇の身柄を長州に連れ去る計画があり、それを阻止するために新選組が動いたとする説が定説とされていましたが、近年の研究では真相は全く違ったとする説が出ています。
「池田屋事件」の真相として有力な説となりつつあるのが、そもそも尊王攘夷派の浪士たちが謀ったとされる京都御所放火計画や佐幕派大名暗殺計画、孝明天皇連れ去り計画は新撰組による捏造だったというものです。
その根拠としては、この謀議の内容や古高俊太郎が自白したとする史料が幕府側からは見つかるものの、尊王攘夷派側の史料からはそうした計画を示すものが一切残されていない事、また、この古高俊太郎も事件後に口封じのように殺害されており、客観的な証拠がほとん無い事などが挙げられています。
この事から「池田屋事件」の真相は、新撰組が自らの組織のイメージアップを図ると同時に、長州の攘夷派をトンデモないテロリストのように仕立て上げるために企てられた陰謀だったのではないかとする説が唱えられています。
この説が池田屋事件の真相としてここ数年でかなり有力とされてきています。
池田屋事件と坂本龍馬は直接無関係で暗殺されたのは「近江屋事件」
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「池田屋事件」を坂本龍馬が暗殺された事件だと誤認している人も多いようですが、ここまで見てきたように池田屋事件と坂本龍馬の間には直接的な関係はありません。
坂本龍馬が何者かに暗殺された事件は、池田屋事件の3年後の1867年12月に発生した「近江屋事件」です。
また、坂本龍馬が伏見奉行によって襲撃されたものの、妻のお龍の機転によって命を救われた事件は1986年に発生した「寺田屋事件」です。
なお、「池田屋事件」と坂本龍馬には全く関係がないというわけではありません。坂本龍馬はその当時、幕府からの弾圧に晒されていた尊王攘夷過激派を蝦夷地(北海道)に逃し開拓する計画を立てていましたが、この池田屋事件の発生によって計画が中止となってしまったのでした。
まとめ
今回は新選組によって、尊王攘夷過激派の浪士が襲撃され多数が殺害された幕末の事件「池田屋事件」について出来る限りわかりやすくまとめてみました。
池田屋事件は、尊王攘夷過激派の浪士らが、京都御所へ放火し、その混乱に乗じて佐幕派の有力大名を暗殺、孝明天皇の連れ去りを計画しているという情報を掴んだ新選組が、その計画を未然に防ぐために、京都市内の旅館・池田屋に集まって謀議をしていた浪士らを襲撃した事件です。
この事件によって新撰組の名は世に轟き、これをきっかけにして組織を拡大させていきました。
池田屋事件のあった場所は現在は「旅籠茶屋 池田屋 はなの舞」という居酒屋になっています。
池田屋事件当日の死者は分かっているだけでも尊王攘夷派志士13人、一般人1人、新選組隊士が1人です。
また、池田屋事件の有名なシーン「階段落ち」はフィクションです。
池田屋事件の真相として、攘夷派の浪士が企てていたとされる陰謀は、実は新撰組によって仕組まれた捏造だったとする説も有力となっています。
また、池田屋事件には坂本龍馬は直接関係しておらず、龍馬が暗殺されたのはこの3年後に発生した「近江屋事件」です。