倍賞美津子さんは数々の名作に出演する役者で、元旦那・アントニオ猪木さんとの離婚原因も話題です。
今回は倍賞美津子さんの若い頃の経歴、姉・倍賞千恵子さんなど家族、アントニオ猪木さんとの結婚、再婚の噂や子供、現在を紹介します。
この記事の目次
- 倍賞美津子のプロフィール:役者・歌手でアントニオ猪木の元嫁
- 倍賞美津子の実家の家族(兄弟)
- 倍賞美津子の姉・倍賞千恵子のプロフィール:代表作は「男はつらいよ」
- 倍賞美津子の若い頃の経歴① 松竹歌劇団を経て、松竹の看板女優に
- 倍賞美津子の若い頃の経歴② 高い演技力が評価される
- 倍賞美津子の若い頃の経歴③ 近年では母親・祖母役も多い
- 倍賞美津子が結婚した元旦那はプロレスラー・アントニオ猪木
- 倍賞美津子の元旦那アントニオ猪木のプロフィール:政治家としても活躍
- 倍賞美津子と元旦那アントニオ猪木の馴れ初め
- 倍賞美津子と元旦那アントニオ猪木の結婚エピソード
- 倍賞美津子の子供:娘の猪木寛子は役者・過去にはアニー役も
- 倍賞美津子と元旦那アントニオ猪木が離婚した原因は不倫?仕事?
- 倍賞美津子と元旦那アントニオ猪木の離婚後の関係
- 倍賞美津子と役者・萩原健一の関係
- 倍賞美津子は再婚していない
- 倍賞美津子の元旦那アントニオ猪木はその後2回再婚
- 倍賞美津子の現在① 今も役者として第一線で活躍中
- 倍賞美津子の現在② 姉・倍賞千恵子が海外の映画祭で受賞
- 倍賞美津子の現在③ 2022年にアントニオ猪木が死去、死因は心不全
- まとめ
倍賞美津子のプロフィール:役者・歌手でアントニオ猪木の元嫁
生年月日:1946年11月22日
出身地:茨城県
所属事務所:ロータス・ルーツ
倍賞美津子さんは役者で、1979年公開の映画「復讐するは我にあり」でブレイク。
TBS系列で放送された「3年B組金八先生」シリーズや、近年では「半沢直樹」「下町ロケット」シリーズなどにも出演しています。
歌手としても活躍しており、これまでに多数のシングル・アルバムを発売。
また、姉が役者の倍賞千恵子さん、元旦那がプロレスラーのアントニオ猪木さんであることでも有名です。
倍賞美津子の実家の家族(兄弟)
倍賞美津子さんの姉は、役者の倍賞千恵子さん。2人は、1967年公開の映画「純情二重奏」で共演も果たしています。
兄はアマチュア野球選手の倍賞明さんです。甲子園・国体にも出場し、日本大学在学時には「全日本大学野球選手権大会」で優勝。
社会人になると「全鐘紡」のメンバーとして社会人野球・「日本産業対抗野球大会」で優勝を果たしました。
弟は新日本プロレスの元リングアナウンサーで、専務を務めていた倍賞鉄夫さんです。倍賞鉄夫さんは、残念ながら2017年に亡くなっています。
新日本プロレスでリングアナウンサーとして活躍した倍賞鉄夫さんが8日に亡くなっていたことが10日、分かった。68歳だった。倍賞さんは女優の倍賞千恵子、美津子姉妹の実弟で、新日プロ旗揚げ時に入社。営業部員やリングアナとして活躍した後、専務の要職に就いた。関係者によると数年前に脳梗塞を患い、闘病生活を続けていたという。
倍賞美津子の姉・倍賞千恵子のプロフィール:代表作は「男はつらいよ」
生年月日:1941年6月29日
出身地:茨城県
所属事務所:不明
倍賞千恵子さんは役者で、歌手・声優としても活躍しています。また、夫が作曲家の小六禮次郎さんであることでも有名です。
幼い頃から「のど自慢大会荒らし」として有名で、1954年に歌手デビュー。
その後、「みすず児童合唱団」を経て、1957年に「松竹音楽舞踊学校」に入学しています。同校を首席で卒業すると、「松竹歌劇団」に入団。
18期生の中でも「逸材だ」と端役時代から注目されていたといいます。
グランドレビュー「東京踊り」で舞台デビューを果たして以降も活躍し、1961年公開の映画「班女」でスクリーンデビュー。同作出演を機に「松竹」所属となりました。
また、1963年公開の主演映画「下町の太陽」に出演して以来、”庶民派女優“として同作の映画監督・山田洋二さんの作品に多数出演しています。
さらに、倍賞千恵子さんの代表作ともいえるのが、映画「男はつらいよ」シリーズ。倍賞千恵子さんは同シリーズで、渥美清さん演じる主人公・虎次郎の妹、さくら役を演じました。
2004年には、ジブリのアニメ映画「ハウルの動く城」で、ヒロイン・ソフィーの声を担当。同作の主題歌も歌唱しています。
マルチに活躍する倍賞千恵子さんですが、実は2001年に乳がんが発覚。以降、ピンクリボン活動などにも積極的に携わっているそうです。
倍賞美津子の若い頃の経歴① 松竹歌劇団を経て、松竹の看板女優に
倍賞美津子さんは中学を卒業後、松竹音楽舞踏学校へと入学。
その後、1965年に「松竹歌劇団」へと入団し、18期生として舞台実習などを経て、グランドレビュー「東京踊り」でデビューを果たしました。
倍賞美津子さんは同年に新人賞を受賞するなど早くから注目を集めつつ、浅草国際劇場などで、歌とダンスを披露。
前述した、1967年公開の映画「純情二重奏」で姉・倍賞千恵子さんとの共演で、スクリーンデビューを果たしています。倍賞千恵子さんと倍賞美津子さんは同作で、異母姉妹を演じました。
1969年公開の映画「人斬り」では、主人公・人斬り以蔵(勝慎太郎)の馴染みの女郎を演じ、「京都市民映画祭」新人賞を受賞。
映画製作会社「松竹」へと入社すると、1969年公開の映画「喜劇・女は度胸」をはじめとする、森崎東さん監督作品を中心に出演し、松竹の看板女優の1人となりました。
また、コミックバンド「ザ・ドリフターズ」やお笑いコンビ「コント55号」が主演を務めた映画のヒロイン役を演じるなど、コメディエンヌとしての才能にも注目が集まっていたそうです。
倍賞美津子の若い頃の経歴② 高い演技力が評価される
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=nMPKcVgFTKU]
倍賞美津子さんは、1979年公開の映画「復讐するは我にあり」で緒形拳さん演じる殺人強盗犯の妻役を演じました。
この映画では「ブルーリボン」助演女優賞や「日本アカデミー賞」優秀助演女優賞などを受賞。”演技派女優”として一躍脚光を浴びます。
倍賞美津子さんは「女の情念」を表現する演技に定評があり、同作の監督・今村昌平さんをはじめ、黒澤明さん、五社英雄さんといった監督の作品を中心に活躍しました。
倍賞美津子の若い頃の経歴③ 近年では母親・祖母役も多い
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その後、1985年に出演した映画「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」「恋文」で見せた演技が高く評価され、数多くの映画賞を受賞。
以降も、1995年公開の映画「午後の遺言状」や1997年公開の映画「うなぎ」といった作品に出演し、役者として活躍しました。
その一方で、2000年頃には姉の倍賞千恵子さんと「居酒屋ばいしょう」を経営。
2002年には、フジテレビ系列で放送されたドラマ「OUT」などの演技によって「田中絹代賞」を受賞しています。
2007年にフジテレビ系列ドラマ「東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜」では、オカン役が好評を呼び、以降の作品では主人公の母親・祖母役での起用が増えるようになりました。
また、2014年には「キネマ旬報」がとりまとめる「オールタイム・ベスト日本映画男優・女優」の女優部で11位にランクインしています。
倍賞美津子が結婚した元旦那はプロレスラー・アントニオ猪木
倍賞美津子さんは、1971年にプロレスラー・アントニオ猪木さんと結婚。
1億円かかったとも言われた結婚式は当時、給与所得者の年収平均が100万円ほどであったこともあり、大きな話題となりました。
「猪木きのう倍賞とジャンボ挙式」と報じたのは1971(昭和46)年11月3日発行の本紙。前日の2日、東京・京王プラザホテルで開かれた女優倍賞美津子との披露宴には政財、芸能、スポーツ界から1500人が招待され、ウエディングケーキの高さは5メートルだった。倍賞の姉で歌手・女優の倍賞千恵子は生歌唱で祝った。
倍賞美津子の元旦那アントニオ猪木のプロフィール:政治家としても活躍
生年月日:1943年2月20日
出身地:神奈川県
職業:プロレスラー・実業家・政治家
所属:新日本プロレス
アントニオ猪木さんはプロレスラーで、実業家・政治家としても有名です。
アントニオ猪木さんは12歳まで日本で過ごしていましたが、5歳の時に父親を亡くして以降は貧困に苦しんでおり、13歳の時に家族でブラジルへ。
過酷な状況下で働きつつ、陸上競技の選手として現地の大会に出場したところ、当時ブラジルを訪れていたプロレスラー・力道山からスカウトを受けてプロレスラーとなります。
そして、プロレス団体「日本プロレス」の選手としてプロレスラー・ジャイアント馬場さんと同日にデビュー。
1964年のアメリカ武者修行を経て、プロレス団体「東京プロレス」に。しかし、集客力に問題があり、同団体は旗揚げからわずか3か月で破産。
アントニオ猪木さんは古巣の日本プロレスへと戻ることになりました。
日本プロレスでは、ジャイアント馬場さんに次ぐ待遇で迎えられ、ジャイアント馬場さんとタッグを組んだ「インターナショナル・タッグ」で王座を獲得するなど活躍。
しかし、度重なる日本プロレスへの不信感から同団体を離脱し、プロレス団体「新日本プロレス」を旗揚げしたアントニオ猪木さん。1983年には「IWGP」も立ち上げました。
その後の1988年、プロレスラー・藤波辰爾さんとの対戦で「負けたら引退する」と宣言。試合は引き分けでしたが、同試合がアントニオ猪木さんにとって最後のIWGPとなりました。
そして、1998年に引退。引退後は、「PRIDE」「INOKI BOM-BA-YE」「Dynamite!」などの格闘技関連イベントに盛り上げ役として出演するようになります。
また、1989年には「スポーツ平和党」を結成し、「第15回参議院議員通常選挙」において比例区で当選。参議院議員となりました。
以降、政治家としても活躍しましたが、捏造を含む複数のスキャンダル暴露に見舞われ、窮地に陥る事態に。結果として、1995年の選挙では落選しています。
その後、2013年に再び国政復帰を果たすも、2019年に政界を引退しています。
倍賞美津子と元旦那アントニオ猪木の馴れ初め
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2人の馴れ初めは、アントニオ猪木さんが倍賞美津子さんの舞台を見に行ったことなのだとか。
出会いは1966年、当時、倍賞美津子が在籍していたSKD(松竹歌劇団)の公演を、先輩レスラーの豊登に誘われて一緒に観に行ったことに始まる。豊登はすでに顔見知りで、終演後、SKDの女優たちと渋谷で中華料理を食べたのだという。
その後、何度か食事にいくも倍賞美津子さんのガードは固く、いつも他に誰かいたといいます。それもそのはずで、当時のアントニオ猪木さんにはすでに妻子がいたんです。
そんな状況が一転したのはそれから3年後でした。
アントニオ猪木さんは元妻と離婚したことを機に、倍賞美津子さんへ猛アタックを開始。
さらに、交際を懸念していた家族にも熱心にアプローチすることで、結婚にこぎつけたといいます。
倍賞美津子と元旦那アントニオ猪木の結婚エピソード
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アントニオ猪木さん率いるプロレス団体「新日本プロレス」旗揚げ時には、宣伝カーのナレーションを担当したり、融資先に同行して多額の融資を受けたりと倍賞美津子さんも尽力。
71年11月の挙式から2カ月余りの72年1月に新日旗揚げ。宣伝カーのナレーションを吹き込んだり、融資先にも足を運ぶなど、内助の功もエネルギッシュだった。猪木さんもこれに応えるように「彼女は明るくて、人を喜ばせることが上手だった。人がいるとワーッと楽しく振る舞い、周りにいる人の心が明るくなる」と語り、76年6月のムハマド・アリとの「格闘技世界一決定戦」に突き進んでいく。
1976年のパキスタン遠征に帯同した際には、試合でアントニオ猪木さんが対戦相手の肩を折って勝利しましたが、暴動すら起きかねない状況でも冷静に対応していたといいます。
パキスタン遠征にも倍賞は同行した。同国の英雄アクラム・ペールワンとの試合では、死闘の末アームロックでギブアップしないペールワンの腕を脱臼させてしまう。
暴動寸前のような会場で倍賞は「新間(寿・新日専務=当時)さん、私はいいからアントンを頼むわ」と肝の据わったところをみせた。猪木さんがほれ込んだきっぷの良さだった。
倍賞美津子の子供:娘の猪木寛子は役者・過去にはアニー役も
倍賞美津子さんとアントニオ猪木さんの子供は、役者の猪木寛子さんです。
猪木寛子さんは、子役の登竜門ともいえるミュージカル「アニー」で主人公・アニーを演じた経歴の持ち主。
そんな猪木寛子さんは、インタビューで父親・アントニオ猪木さんについて以下のように述べています。
はっきり言って、最低なお父さんかもしれないです。普通のお父さんみたいに送り迎えとか、学校で何かやったり、見に来てくれたり、そういうのはなかったけど、反対に人より素晴らしい人間だから、悪い父親でもその人間としての素晴らしさで…、悪いお父さんでもよかったなと思います。
そんな猪木寛子さんの元旦那・サイモン猪木さんは、プロレス団体「新日本プロレス」の元社長を務めていました。
倍賞美津子と元旦那アントニオ猪木が離婚した原因は不倫?仕事?
倍賞美津子さんは、アントニオ猪木さんの団体立ち上げに尽力してきましたが、1988年に離婚。離婚の原因には、アントニオ猪木さんの不倫が原因だとされています。
しかし、そんな倍賞美津子さん自身も、すぐに役者・萩原健一さんとの熱愛が報じられていました。
88年、結婚17年目の離婚もメディアの注目を集めた。原因は猪木さんの不倫騒動だったが、倍賞の方にも後に萩原健一との熱愛が伝えられた。猪木さんも倍賞も非難めいたことはいっさい口にしなかった。夫婦関係にはピリオドを打っても、世界を舞台に戦った同志としての絆は切れなかった。
一方で、アントニオ猪木さんがブラジル事業にのめりこみ、家を空けがちだったことが原因だと報じるメディアも。
「どうしても今夜は家にいてほしい。そうでなきゃ私たちはダメになる」そう訴える妻の言葉に反して、猪木さんは家を空けがちになった。倍賞が映画で共演した萩原健一さん(享年68)との不倫疑惑を報じられたのは1985年。翌年、猪木さんも六本木のクラブママとの密会をすっぱ抜かれ、1988年に離婚が成立した。当時、倍賞と萩原さんは共に不倫を否定したが、離婚成立後に堂々と交際宣言。
倍賞美津子と元旦那アントニオ猪木の離婚後の関係
出典:http://www10.plala.or.jp
2003年のアントニオ猪木さん主催の「新日本プロレス30周年記念東京ドーム大会」に倍賞美津子さんがサプライズゲストで出演するなど、絶縁状態だったわけではなさそうです。
同イベントでは、倍賞美津子さんが元旦那となったアントニオ猪木さんとともに、「1、2、3、ダー!を披露したのだとか。
そんな倍賞美津子さんは、過去にインタビューで以下のように離婚を振り返っています。
《離婚したての頃は恨んだこともあったけれど、そういうことは時間が癒してくれたし、(中略)人を一生懸命愛した記憶って、たとえそれが別れにつながっても、素晴らしいことなんだなって改めて思いました》(『SAY』2003年1月号)
対するアントニオ猪木さんは、離婚後は意気消沈した様子だったそう。
さらに、離婚後も倍賞美津子さんへの愚痴や不満を漏らすことなく、「いい女だった」「感謝している」と語るなど、未練があると感じている関係者も多かったようです。
離婚した時の落ち込みようといったらなかった。離婚届を提出した翌日に控室でドン荒川(故人)を相手に「昨日離婚届を出してきたよ。悔しい」と猪木さんは泣き出したという。「社長(当時)、泣かないでくださいよ」とレスラーたちは猪木さんを必死に慰めたそうだ。「悔しい」というのは、離婚という結果になったことについてで、猪木さんは人目もはばからず落涙するほど、離婚したくなかったわけだ。
倍賞美津子と役者・萩原健一の関係
倍賞美津子さんと役者の萩原健一さんは、前述の通り、倍賞美津子さんとアントニオ猪木さんが結婚しているさなかにその熱愛が報じられています。
当時の報道によれば、2人は1985年公開の映画「恋文」で演じた夫婦役がきっかけで仲が深まり、同年に倍賞美津子さんが萩原健一さんの自宅から出てきたところをスクープされました。
「プロレス会場にマスコミがドッと押し寄せたんです。今じゃ考えられませんが、試合直後で息があがった状態の猪木さんに『倍賞さんが浮気していますが、どうお考えですか!』と率直に質問をぶつけてね。猪木さんの反応?『知らねえよ、バカヤロー!』でした」
当の倍賞美津子さんは「お友達」と強調し交際を否定していましたが、アントニオ猪木さんと離婚後も萩原健一さんと交際。
同居すべく萩原健一さんの自宅を改装するなど結婚間近だと報じられていましたが、萩原健一さんが役者の石田えりさんとも関係を持っていたことが発覚し、破局しました。
倍賞美津子は再婚していない
倍賞美津子さんについて調べていると、「再婚」というキーワードが目につきます。
実際のところは元旦那・アントニオ猪木さんと離婚して以降、再婚はしていないようです。
恐らくアントニオ猪木さんが再婚しており、そのイメージから「倍賞美津子も再婚しているのでは?」と気になる人が数多くいたのではないでしょうか。
倍賞美津子の元旦那アントニオ猪木はその後2回再婚
ちなみに、アントニオ猪木さんはバツ3。倍賞美津子さんが2人目の妻にあたり、離婚後に2度の再婚をしています。
3度目の結婚は1989年。猪木さんが参院選に当選して史上初のプロレスラー出身国会議員となった年だった。「お相手は22才年下のキャリアウーマン。翌年長男が生まれ一家でアメリカに移住しましたが、息子が成人した2012年に離婚。猪木さんは家族の縁を切られ、後年『息子とまったく会えない』と嘆いていました」(前出・猪木さんの知人)
出典:https://decopachi.com/
その次に再婚したのは、アントニオ猪木さんのカメラマンで、議員秘書でもあった田鶴子(たづこ)さんという女性でした。
事実婚を含めて4度結婚している猪木さんの最後の伴侶が16才下の田鶴子さんだった。田鶴子さんはカメラマンとして1990年代後半から猪木さんの写真を撮り始め、2001年に猪木さんの写真集を出版。公私共に彼を支えるパートナーとなり、2013年に猪木さんが2度目の参議院議員になると議員秘書を務めた。
当初、猪木さんは結婚を渋っていたそうですが、田鶴子さんの申し入れで再婚を決意したそうです。
「2017年に入籍したとき、猪木さんは74才。本人は『もう結婚はいいや』と言っていたが、『猪木家の墓に入りたい』と懇願する田鶴子さんが喜ぶならと、婚姻届にサインしたそうです。彼女は猪木姓になったことがうれしくてしょうがないといった様子で、勲章をもらったように誇らしげにしていました」(前出・猪木さんの知人)
倍賞美津子の現在① 今も役者として第一線で活躍中
倍賞美津子さんは現在も役者として現役で活躍されています。
2016年公開の映画「あやしい彼女」では、多部未華子さんとW主演を務めて話題となりました。
20歳の姿に若返ってしまった毒舌おばあちゃんが巻き起こす騒動を描いた韓国のヒット映画「怪しい彼女」を、「謝罪の王様」「舞妓Haaaan!!!」の水田伸生監督がリメイク。ヒロインの20歳の姿を多部未華子が、73歳の姿を倍賞美津子が演じる
以降も、2019年公開の映画「母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。」、2020年公開の映画「糸」などに出演。2022年は映画「異動辞令は音楽隊!」に出演しました。
また、ドラマにおいては2022年、フジテレビ系列で放送された「やんごとなき一族」や、テレビ朝日系列の「六本木クラス」第7・10話に出演。
さらに、2023年にNHKBSプレミアムで放送されるドラマ「犬神家の一族」にも出演します。
倍賞美津子の現在② 姉・倍賞千恵子が海外の映画祭で受賞
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=vU-XO6Bxx8g]
倍賞美津子さんの姉・倍賞千恵子さんは2023年、世界最大のアジア映画祭「第25回ウディネ・ファーイースト映画祭」で「ゴールデン・マルベリー(生涯功労賞)」を授与。
イタリアで開催される世界最大のアジア映画祭、第25回ウディネ・ファーイースト映画祭にて、『PLAN 75』の主演でも話題を呼んだ倍賞千恵子にゴールデン・マルベリー(生涯功労賞)が授与されることが決まった。
同賞は、倍賞千恵子さんがスクリーンデビューを果たしてからこれまでの功績に対しての授与となるそう。
倍賞千恵子さんは同賞受賞に対して、以下のようにコメントしています。
「日本で仕事していた私を、外国の方が見ていて下さった事に大変驚き、感謝し、うれしく思っています。映画って素晴らしいですヨネ。ウディネ・ファーイースト映画祭の皆さん本当にありがとうございました。私、これからも精進してまいります」と改めて意気込みを語った。
倍賞美津子の現在③ 2022年にアントニオ猪木が死去、死因は心不全
倍賞美津子さんの元旦那・アントニオ猪木さんは、2022年10月に亡くなっています。
元プロレスラーで参議院議員も務めたアントニオ猪木さんが1日午前7時40分、都内の自宅で心不全のため亡くなった。79歳だった。
アントニオ猪木さんは早くから重度の糖尿病を患っていたことがわかっていますが、近年は腰の不調・腸の病気なども続いていたそうです。
また、SNSでは難病を患っていたことも告白していました。
猪木さんは2020年に自身のSNSで、難病の「心アミロイドーシス」と診断されて闘病を続けていることを公表していましたが、所属事務所によりますと猪木さんは1日午前7時40分、心不全のため、自宅で亡くなったということです。
心アミロイドーシス(心臓アミロイドーシス)とは、アミロイドと呼ばれる異常なタンパク質が心臓に沈着する病気です。アミロイドは全身のさまざまな臓器に沈着する異常なタンパク質であり、現在では30種類以上のタンパク質が発症に関わっていることが分かっています。アミロイドの種類によって沈着する臓器や重症度などは異なり、特に心臓にアミロイドが沈着する病気を心アミロイドーシスと呼びます。
まとめ
倍賞美津子さんは役者で、姉が役者の倍賞千恵子さん、結婚していた元旦那がプロレスラーのアントニオ猪木さんです。
そんな倍賞美津子さんは「松竹歌劇団」を経て、1967年公開の映画「純情二重奏」でスクリーンデビュー。以降、松竹の看板女優として活躍しました。
プライベートでは、プロレスラーのアントニオ猪木さんと結婚し、プロレス団体「新日本プロレス」の旗揚げにも尽力。
誕生した娘も、ミュージカル「アニー」で主人公・アニーを務めるなど、子役として活躍していました。
順風満帆かのように見えた倍賞美津子さんでしたが、1980年代後半になると役者・萩原健一さんとの不倫が報じられるなど、夫婦関係に陰りが。
結果としてアントニオ猪木さんと離婚し、萩原健一さんと交際していますが、その関係も長くは続かなかったようです。
その一方で、役者としては今日に至るまで第一線で活躍。姉の倍賞千恵子さんも現役で、2023年には海外の国際映画祭で「生涯功労賞」を受賞しています。
元旦那・アントニオ猪木さんが亡くなるなどショックな出来事もありましたが、まだまだ出演作の放送・公開が控えている倍賞美津子さん。
これからも姉妹で末永く活躍していただきたいですね。