戦国時代には、信じられないような強さを誇る豪傑達がひしめき合っていました。ここではそんな戦国時代に活躍した大名や武将達から、特に最強の強さを誇ったと伝わる男達を厳選し、ランキングして紹介、逸話などの解説付きでまとめました。
この記事の目次
戦国時代の大名・武将、強さ最強ランキングTOP30-26
30位:北条綱成
戦国時代の強さ最強武将第30位は、関東地方の覇者、北条家一の猛将とも言われる北条綱成です。
北条綱成は「地黄八幡」の旗印で周辺諸国に恐れられた猛将で、有名な「河越夜戦」では、扇谷上杉、山内上杉、および古川公方連合軍8万人に包囲された河越城に籠城して長期間持ち堪え、北条本隊の援軍の夜襲に呼応して城外へと打って出て、大軍を完膚なきまでに叩きのめしています。
29位:柴田勝家
第29位は、織田信長の軍団最強の猛将と言われる柴田勝家です。
信長の父・織田信秀の時代から織田家に仕えた猛将で、信長に従って数々の合戦に参陣し武功を示しました。
特に有名なのが1570年頃に発生した「長光寺城」での籠城戦で、敵に包囲された上に水の手を断たれた柴田勝家は、最後に残った水瓶を自ら叩き割り、決死の覚悟で城外へ突出。見事敵を打ち破ったとされる逸話です。(史実かどうかは疑われている)
この戦いの後、柴田勝家は「瓶割り柴田」「鬼柴田」の異名で呼ばれるようになったと伝承されています。
28位:大谷吉継
第28位は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の子飼いの武将の1人、大谷吉継がランクインです。
大谷吉継は秀吉に「100万の兵を指揮させてみたい」と言わしめたとされるほどの用兵の才覚を示したとされています。
関ヶ原の合戦では、吉継は盟友・石田三成の家康打倒の決起に加わり、家康に内応して西軍に側面から攻めかかる、小早川秀秋軍の1万5000人もの大軍を、わずか1500人ほどの兵力で支え、数度にわたって山へと押し戻したと伝えられています。
27位:島清興(島左近)
第27位は、島左近の通称で知られる名将・島清興です。
島清興は石田三成が自分の知行地4万石の内の半分2万石を割いてまで召抱えたという伝承が残る軍略家で、武略面での才覚のない石田三成を軍事面で補佐し続けたと伝わります。
何と言っても有名なのは、関ヶ原合戦での獅子奮迅の戦いぶりで、石田隊一手のみで、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明、織田長益らの軍勢を圧倒し、敗走寸前にまで追い込みました。東軍の兵士達はこの時の島清興の気迫のこもった怒声が生涯耳から離れず、恐怖に悩まされたという記録も残ります。
26位:吉川元春
第26位は、中国地方の覇者・毛利元就の次男で家中最強の猛将とも恐れられた吉川元春です。
主に山陰地方の攻略を担当し、特に尼子氏とは生涯にわたって死闘を繰り広げ、尼子氏最高を目指す名将・山中鹿之介からは「宿敵」と呼ばれています。
その一生の中で76戦し、内64戦で勝利を収め、残りの12戦でも引き分けて敗北しておらず、生涯不敗の名将として讃えられています。
戦国時代の大名・武将、強さ最強ランキングTOP25-21
25位:下間頼廉
第25位には、本願寺の坊官・下間頼廉です。織田信長の最大の敵は、武田信玄でも毛利氏でも、三好三人衆でもなく、石山本願寺でした。
その石山本願寺の軍事面での総指揮を法主顕如から任されたのが、この下間頼廉でした。同じく一向宗の中心的武将であった鈴木重秀と並んで「大坂之左右之大将」とも称されています。
優れた用兵家であり、度々織田軍の裏をかいて大敗に追い込んでいます。「天王寺合戦」では、木津の砦を守備していたともされ、織田方の大将・原田直政を討ち取る活躍を見せています。
24位:鈴木重秀(雑賀孫市)
上で紹介した下間頼廉と並んで「大坂之左右之大将」と称されるのが鈴木重秀です。大量の鉄砲を装備した傭兵集団「雑賀衆」の棟梁で、雑賀孫市の通称で知られています。
石山合戦では5000丁もの鉄砲を駆使したとされ、火力で圧倒して織田軍を大いに苦しめたとされています。
23位:柿崎景家
第23位は、越後上杉軍最強の猛将とも言われる柿崎景家です。
軍神・上杉謙信をして「越後七郡に敵う者なし」と言わしめ、戦国最強と謳われた上杉軍団の中にあって、常に先陣を務め、その名前を聞いただけで敵兵は逃げ出したとも伝えられています、
22位:佐竹義重
第22位は、常陸国の大名・佐竹義重です。
南に北条家、北に伊達政宗率いる伊達家と対峙して熾烈な激戦を繰り広げ、その奮戦ぶりから「鬼義重」の名で呼ばれるようになります。
また、大名でありながら個人の武勇にも優れており、北条兵7人を瞬く間に斬り伏せ「坂東太郎」の異名で恐れられたとの逸話が残されています。
21位:黒田官兵衛
第21位は、豊臣秀吉の軍師としてその覇業を助けた黒田官兵衛です。
豊臣秀吉は黒田官兵衛の智謀を高く評価すると共に恐れていたとされ、「あの男に大禄を与えれば天下を獲られてしまうわ」といって、決して大きな領地を与えなかったとの逸話が残ります。
関ヶ原合戦が勃発した際、息子の黒田長政が主力を率いて、九州から出陣すると、黒田官兵衛は浪人達を集めて軍勢を作り上げて九州平定に乗り出しており、これは、九州を平定した兵力を、もって関ヶ原合戦の勝者と決戦におよび、天下を奪ってしまおうという野心を抱いての行動だったという説があります。
関ヶ原合戦が予想外に早く終結したため黒田官兵衛は矛を収めましたが、もし関ヶ原合戦がもう少し長く続いていれば、官兵衛は九州を平らげ、その兵を持って東に向けて進撃を開始するつもりだったのかも知れません。
戦国時代の大名・武将、強さ最強ランキングTOP20-16
20位:明智光秀
第20位には、「本能寺の変」で織田信長を討った明智光秀が登場です。
強い武将というイメージはあまりない明智光秀ですが、実は数々の武功を上げた天才的な軍略家です。その功績から、織田家中では新参者ながら破竹の勢いで出世を遂げており、実は織田の出世頭とも言われる羽柴秀吉よりも早いペースで出世を遂げています。
また、武勇にも優れ、特に鉄砲は名人級で、100発100中の腕前だったと伝わります。
19位:馬場信春
第19位は、武田信玄の重臣で、「不死身の鬼美濃」の異名で恐れられた猛将・馬場信春です。
70回以上の戦陣において一度も傷を負った事がないとされ、これが「不死身」の異名につながったとされます。
武田勝頼が織田・徳川軍に大敗を喫した長篠の合戦では、最後まで戦線に踏みとどまった後、撤退する勝頼を逃がすために殿を務め、わずか100人ほどの兵で、追撃する敵を防ぎました。
この時の活躍は、敵であった織田軍や徳川軍にも賞賛されたほどで、信頼度の高い史料である「信長公記」にも「馬場美濃守手前の働き、比類なし」という記述が見られます。
18位:前田慶次
第18位は、少年ジャンプで連載されていた大人気漫画「花の慶次」でよく知られている前田慶次です。
「花の慶次」では前田慶次は、化け物のような圧倒的な強さを持つ一方で、文化百般に通じた知識人であり、雅なものを愛する風流者、戦国一のかぶき者として描かれています。
実際の前田慶次については謎が多いのですが、実際にかなりの知識人であった事や、上杉家に仕官して武功を立てた記録などが残っているため、一廉の武将だった事は確かなようです。
17位:本多忠勝
第15位は、徳川家最強の猛将として知られる本多忠勝です。
名槍「蜻蛉切」を手に戦場を駆け回り、数々の武功を立てたとされています。出陣した合戦は57にも及びますが、かすり傷一つ負わなかったと伝わります。
その武勇は周囲から度々賞賛されており、織田信長は「花も実も兼ね備えた武将」と称し、豊臣秀吉は「日本第一、古今独歩の勇士」と激賞しています。
16位:山県昌景
第14位は、武田家の重臣で武田四天王の筆頭に数えられる山県昌景です。
武田軍の主力として活躍し、軍装を赤で統一した「赤備え」を率いたと伝えられます。
三方ヶ原の合戦では家康を瀬戸際まで追い詰め、逃げ帰った後に家康は「さても山県という者、恐ろしき武将ぞ」という言葉を漏らしたとされます。
また、武田勝頼が武田家を継いだ後、山県昌景は6000の兵を率いて西美濃に侵攻し、3万の兵を率いて救援した織田信長を、散々に打ち破り、信長の旗本を16騎中9騎討ち取り、後一歩のところまで追い詰めたという逸話が残っています。
戦国時代の大名・武将、強さ最強ランキングTOP15-9
15位:武田勝頼
第15位は武田信玄の跡を継ぎ武田家の棟梁となった武田勝頼です。
「長篠の合戦」で織田軍に大敗し、武田家を滅ぼした愚将というイメージを長らく持たれてきた武田勝頼ですが、近年の研究では武田勝頼はかなり強い、優秀な武将だった事が明らかにされています。
信玄の跡を継いだ武田勝頼は、積極的に攻勢策に打って出て領国を拡大し、武田家最大の版図を築き上げています。「長篠の戦い」では確かに大敗を喫しますが、その後は巧みな外交戦略を駆使して織田包囲網を構築し反撃体制を整え、一時的にとはいえ長篠の敗戦で生じた劣勢を跳ね返して見せているのです。
共に織田家に対していた上杉謙信の病死によって織田家への反撃体制は綻び、結果的に武田家も滅亡に追い込まれましたが、織田信長の好敵手として最期まで戦い抜いた武田勝頼は、十分に戦国を代表する名将だと言える存在です。
14位:伊達政宗
第14位は、欧州の独眼竜こと伊達政宗です。戦国末期に元服した伊達政宗は、家督を継ぐと瞬く間に周辺勢力を駆逐して領国を拡大し、一時は天下を狙う姿勢すら見せます。
しかし、中央ではすでに豊臣秀吉が全国のほぼ全てを平定しており、あえなく伊達政宗は豊臣秀吉に従う事となります。
その後も政宗は天下への野望を胸に抱き続けたとされ、秀吉の死後、関ヶ原や大坂の陣を経て徳川政権が成立した後もそのチャンスを密かに窺っていたとされます。
伊達政宗は、1613年にスペインへと使節団を派遣しているのですが、これが実はスペインとの同盟を画策し、艦隊を派遣してもらいその支援を受けて徳川幕府を打倒する事を策謀していたとするロマン溢れる説まで存在するのです。
13位:高橋紹運
第13位は、九州の大大名・大友家に使えた猛将・高橋紹運です。
九州の各地を転戦し、その武名を大いに轟かせました。島津家の攻撃を受け、主家の大友家が劣勢となる中、高橋紹運は領国を守るべく奮戦を続けました。
高橋紹運は島津の数万の大軍を前にわずか700名ほどの兵力で岩屋城に籠城、度重なる降伏勧告をはねつけ、半月にわたって徹底抗戦を続け、多数の島津兵を道連れにして、全城兵と共に壮絶な玉砕を遂げたのでした。
12位:立花道雪
第12位には、続いても九州大友家から猛将・立花道雪がランクインです。
立花道雪は若い頃に雷に打たれて半身不随になったとの伝承が残っています。歩行不能でありながら輿に乗って戦場に出陣し、そのまま敵陣へと突撃し敵を打ち破ったため、敵兵に大いに恐れられたと伝わります。
また、その武勇は遠く甲斐国にまで伝わり、それを聞いた武田信玄は「ぜひ一度戦ってみたい」と興味を示したとの逸話が残されています。
11位:長宗我部元親
第11位は、四国最強の戦国大名・長宗我部元親です。
長宗我部元親は幼少時代、長身ながら色白で華奢なな体格、性格も大人しくぼんやりしており、家臣らから「姫若子」などと揶揄されていました。
しかし、いざ初陣すると、獅子奮迅の活躍を見せて敵将を討ち取る活躍を見せ、それ以来家臣らは「鬼若子」とそのあだ名を変え、従うようになったという逸話が残ります。
事実、長宗我部元親は父から家督を継ぐと、瞬く間に才覚を表し、周辺の勢力を瞬く間に平らげて、四国のほとんどを平定しました。攻略あと一歩というところで、豊臣秀吉による四国攻略軍に屈して降伏。再び土佐一国の大名へと戻されたのでした。
戦国時代の大名・武将、強さ最強ランキングTOP10-6
10位:毛利元就
第10位は、権謀術数の限りを尽くし、小豪族から中国地方10カ国にまたがる一大王国を支配する戦国大名へとのし上った毛利元就です。
毛利元就の戦いで有名なのは、元就を一気に飛躍させるきっかけにもなった「厳島の戦い」です。当時、中国最大の勢力であった大内家の侍大将・陶晴賢は反乱して主君大内義隆を殺害し、その養子の大内義長を擁立して、実質的な大内家の支配権を獲得していました。
その陶晴賢と、当時は大内家傘下の豪族だった毛利元就が戦ったのがこの「厳島合戦」でした。
当時、陶晴賢が動員できる兵力3万以上に対し、毛利元就軍は数千程度でした。そこで毛利元就は、巧みな計略を駆使して陶晴賢の大軍を厳島へと誘き寄せ、狭い島内で大軍の動きが取れないところに、奇襲をかけて大混乱に陥らせ、陶晴賢を自害に追い込みました。
この戦いをきっかけにして毛利元就は大内氏の広大な領地の大半を手中に収め、強大な戦国大名となる第一歩を踏み出したのでした。
9位:島津家久
第9位は、薩摩島津家の猛将・島津家久です。名将揃いで知られる島津4兄弟の末弟で、数々の戦で武功を立てました。
特に有名なのが、肥後大名・龍造寺隆信と戦った「沖田畷の戦い」です。同盟国有馬氏が竜造寺軍6万の大軍の襲来を受けたのを救援すべく、島津家は島津家久を大将とした数千人ほどの援軍を派遣します。
圧倒的劣勢な兵力だった島津家久軍でしたが、大軍の動きが取れない狭隘な湿地帯に龍造寺軍主力を巧みに誘い込み、そこで奇襲をかけて潰走に追い込みます。混乱して撤退する龍造寺軍に徹底的な攻撃をかけた島津家久は、総大将の龍造寺隆信を討ち取り、大大名・龍造寺家を一挙に衰退に追い込んだのでした。
8位:立花宗茂
第8位は「西国無双」と評された事で知られる立花宗茂です。
実父に高橋紹運、義父に立花道雪という、ここまででも紹介した大友家を代表する猛将2人を父に持つ立花宗茂は、この2人の父に劣らぬ名将として若くからその名を知られていました。
立花宗茂は数々の合戦に参陣し、少数の兵を縦横無尽に操って緻密な戦術を駆使し、自軍の何倍もの戦力の敵を翻弄し、度々壊走させています。また、義に厚い武将であり、どんなに不利な状況に陥っても決して主家を見捨てませんでした。
こうした立花宗茂の働きを見た豊臣秀吉は「忠義も武勇も九州随一」と褒め称えています。
7位:真田信繁(幸村)
第7位は、「幸村」の通称で知られる真田信繁です。
真田信之は、信州の智将・真田昌幸の次男で、関ヶ原合戦では父の昌幸に従って居城・上田城で徳川秀忠の3万8千の大軍勢を迎え撃ち、散々に翻弄した挙句に撃退、関ヶ原本戦へ遅参させるという大戦果を上げました。
真田親子がこれほどの大戦果を上げたにも関わらず、西軍本体は関ヶ原で東軍に敗北し、真田親子はその罪を問われて、紀州九度山へと流されてしまいます。
しかし、その後、豊臣家と徳川家の対立が深まり、「大坂の陣」が勃発すると真田信繁は九度山を密かに脱出し、大坂城に入城して再び徳川軍の前に立ち塞がりました。
真田信繁は「大坂夏の陣」では、出丸「真田丸」を築いて、徳川方の大軍を完膚なきまでに叩きのめし、その後の「大坂冬の陣」では、家康本陣に向けての突撃を敢行し、一時は家康に切腹を覚悟させるほどの大激戦を展開しました。
この活躍を見た徳川家康は有名な「真田日本一の兵」の言葉を残したとされます。
6位:武田信玄
第6位は、「甲斐の虎」と恐れた戦国大名・武田信玄です。
武田信玄は、父信虎を追放して家督を継ぐと、信濃へと進出してこれを平らげ、北信濃川中島の領有をめぐって、越後の上杉謙信と死闘を繰り広げました。
その後信玄は、中央に勢力を伸ばす織田信長に対抗して西上作戦を開始し、「三方ヶ原合戦」で徳川家康軍を粉砕し敗走に追い込んでいます。武田軍のあまりの強さを目の当たりにした恐怖で家康は脱糞したとも伝わっています。
しかし、この西上作戦の途上、信玄は病を悪化させて死去してしまいます。武田信玄がこのまま上洛戦を展開していれば、織田信長と決戦して打ち破っていた可能性も指摘されており、信玄の死によって信長は生涯最大の危機を脱したとも言われています。
戦国時代の大名・武将、強さ最強ランキングTOP5-1
5位:島津義弘
戦国時代の最強武将ランキング5位は、薩摩島津最強の武将・島津義弘です。
その戦歴は華々しく、日向の大名・伊東義祐が3000人の大軍で島津領に攻め寄せた「木崎原の戦い」では、わずか300人の兵力で奇襲攻撃を仕掛けこれを打ち破っています。
また、豊臣の大軍が九州に襲来した「九州征伐」では、義弘は島津軍の先頭に立って前線で戦い、最終的に敗れはしたもののその勇名を轟かせました。
島津義弘は、豊臣秀吉の朝鮮出兵にも従軍し、敗色が濃くなり絶望的状況に置かれた日本軍の中にあって、20万とも言われる明・朝鮮連合軍をわずか7000人の兵力で打ち破って見せ、また、朝鮮水軍による海上封鎖を解くために発生した「露梁海戦」では、朝鮮水軍の英雄・李舜臣を打ち取る大戦果を示して敵を壊走させ日本軍全軍の退路を切り開きました。これらの戦果により、明・朝鮮軍の将兵は島津義弘を「鬼石曼子」と言って恐れたとも伝わります。
極め付けは「関ヶ原合戦」での敵中突破で、味方が壊滅状態に陥る中、10万近い敵に取り囲まれる形で戦場に孤立した島津義弘率いる1500人ほどの島津軍は、何と敵側に向かって突撃を開始、敵の大軍を切り裂いて敵中を突破し、見事戦場から離脱して見せたのでした。
4位:真田昌幸
戦国最強ランキング4位は、2016年の大河ドラマ「真田丸」でも人気が爆発した智将・真田昌幸です。
この真田昌幸は若い頃、武田信玄に見出されて奥近習として仕えていた事があり、その武略を間近で学びました。その信玄は昌幸の事を「我が両眼の如き者」とも評しています。
兄が戦死した事で真田家の家督を継いだ昌幸は、小豪族に過ぎない立場にありながら、織田家(羽柴家)、徳川家、北条家、上杉家という戦国屈指の大大名に囲まれた状況を巧みに渡り歩いて生き延び、徳川の大軍勢を居城・上田城で翻弄した挙句2度にわたって撃退。
天下人・徳川家康をも恐れさせた真田昌幸は、戦国時代を代表する最強武将の1人でしょう。
3位:羽柴秀吉(豊臣秀吉)
戦国最強ランキング第3位は、織田信長の後を継ぐ形で天下を統一した、羽柴秀吉(豊臣秀吉)です。
低い身分の出でありながら、織田家に仕官すると瞬く間に頭角を現し、織田信長に中国地方攻略の軍団長を任されるまでに抜擢されます。
その活躍はしばしば英雄譚として語られ「墨俣の一夜城」「金ヶ崎の退き口」「中国大返し」など、ド派手なエピソードが目白押しです。
こうしたエピソードから、秀吉はド派手な演出によって周囲を魅了し、次々と味方を増やして勢力を拡大していったように見えます。最終的に勝利するのは、こういった圧倒的カリスマ性を持つ人物だと言う事かもしれません。
2位:織田信長
戦国最強第2位は、天下統一の一歩手前で「本能寺の変」でこの世を去った、戦国の革命児織田信長です。
織田信長は、流通経済の重要性にいち早く着目し、圧倒的な経済基盤を築き上げる事で、他勢力を圧倒する戦力を作り上げ、局地的に何度敗れようとも戦力を素早く回復して反撃し、それに対応仕切れない旧来の勢力を次々と打ち倒しました。
戦国時代の群雄達が最終的には誰も敵わなかったと言う意味で、戦国最強ランキング2位はこの織田信長で決まりでしょう。
1位:上杉謙信
戦国時代最強ランキング1位は「軍神」とも「越後の龍」とも恐れられた戦国大名・上杉謙信です。
武田信玄と死闘を繰り広げた「川中島合戦」が有名ですが、それ以外にも、関東一帯に巨大な王国を築いていた北条家を本城・小田原城にまで追い詰めた関東出兵での戦いや、柴田勝家、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀といった織田軍オールスターともいうべき顔ぶれを完膚なきまでに粉砕した「手取川合戦」など、まさに無敵の強さを誇りました。
上杉謙信があと5年長く生きていれば、武田、北条、毛利の支援を受けながら上洛戦を成功させ、織田信長の天下統一を阻止していたかも知れないという説を唱える研究者もいるほどです。
まとめ
戦国時代の大名・武将の強さ最強ランキングについてまとめてみました。
何を持って「強い」と言うかについては難しいところですが、今回紹介した30名は少なくとも、戦国時代を彩る武将達の中でも特に目覚ましい活躍をし、後世にまでその武名が轟く武将ばかりです。
今回紹介した意外にも、戦国時代には、信じられないような強さを誇る豪傑がひしめき合っているので、興味を持たれた方は是非深く調べてみてはいかがでしょうか?