藤間静波の生い立ち&母親など家族!藤沢市母娘ら5人殺害事件の動機と死刑執行も総まとめ【顔写真あり】

藤間静波は、1981年から1982年にかけて起きた「藤沢市母娘ら5人殺害事件」の犯人です。

 

この記事では藤間静波の藤沢市母娘ら5人殺害事件の概要と、その悲惨な生い立ち、母親などの家族やVサインで笑顔の顔写真、幼稚園でのあだ名、犯行動機や判決、現在などについてまとめました。 

 

藤間静波は藤沢市母娘ら5人殺害事件の犯人

 

出典:https://lh3.googleusercontent.com/

 

藤間静波(ふじま・せいは)は、1981年10月から1982年6月にかけて、3件の殺人事件によって合計5人が殺害された「藤沢市母娘ら5人殺害事件」の犯人です。

 

藤間静波は、その極悪非道な犯行内容と悲惨な生い立ちなどで注目され、現在も昭和の時代を代表する凶悪犯罪者として度々名前が上がっています。

 

今回はこの藤間静波についてまとめていきます。

 

 

 

藤間静波の起こした藤沢市母娘ら5人殺害事件の概要

 

 

藤間静波は3件の殺人事件で合わせて5人を殺害しており、これらの一連の殺人事件が合わせて「藤沢市母娘ら5人殺害事件」と呼称されています。

 

まずは、藤間静波の起こした藤沢市母娘ら5人殺害事件の概要を時系列順にまとめていきます。

 

 

 

第1の事件(平山勝美殺人事件)

 

藤間静波は、久里浜特別少年院に1980年春から1981年春にかけて在院していましたが、同時期に在院していた平山勝美という当時20歳の男と知り合いになっています。

 

平山勝美は藤間静波より早く少年院を1981年3月に退院し、自宅近くの空調設備会社で配管工として働き始めました。遅れて同年5月に退院した藤間静波は、平山勝美の社員寮に転がり込み、そのままこの空調設備会社で働き始めています。

 

しかし、藤間静波は、平山勝美を誘ってすぐにひったくりなどをして金を盗むようになり、5日勤務しただけでこの会社を辞めてしまいます。その後、2人はひったくりで得た金で共同でアパートを借り、同様の犯行を重ねて生活していました。

 

ところが、同年8月5日の夜、平山勝美は藤間静波の財布から現金20万円を抜き取ってそのまま行方をくらましてしまいます。

 

怒った藤間静波は血眼になって平山勝美を追い、8月下旬には自宅に押しかけて家族を脅迫して上がり込み、ちょうど帰宅して隠れていた平山勝美を脅して、働いて20万円を返すように要求しています。

 

藤間静波は、平山勝美が手を出していた覚醒剤の売上金を取り上げるなどして、いくらかを回収していますが、ある時に平山勝美が「一緒にやったひったくりの事を俺が警察に話せばお前もおしまいだな」などと言い始めたため、藤間静波は金を奪われた怒りと、口封じのために平山勝美を殺害しようと考えるようになります。

 

9月上旬から下旬にかけて、藤間静波は操り小刀や刺身包丁を購入し、犯行後の逃走場所として東京池袋にアパートを借りるなどの犯行準備を開始。また、藤間は、血が出ない殺害方法なら焼き殺すのが良いなどと考えて清涼飲料水の空き瓶にガソリンを入れる準備なども行っています。

 

そして、同年10月6日の午前3時過ぎ頃、藤間静波は逃げ回っていた平山勝美を平山の自宅近くで発見し、横浜市戸塚区中田町の周囲が畑に囲まれた場所へと連れ出しました。

 

藤間静波は平山に包丁を突きつけると、道路脇にうつ伏せにさせると、用意していたガソリンをその背中に振り撒き、点火したマッチを投げつけますが、うまく引火しませんでした。その隙をついて平山が立ち上がり逃走を試みますが、藤間静波は咄嗟に包丁を突き出し、それが平山の太腿に深く突き刺さりました。

 

足を負傷した平山は逃走を諦めて抵抗の構えを見せましたが、ここで藤間静波は「俺が悪かった医者に連れて行ってやる」などと態度を軟化させたフリをして油断させ、その言葉を信じた平山を操り小刀で滅多刺しにして殺害しました。

 

平山の遺体はその日の朝に通行人によって発見されます。藤間静波はその日の22時頃に道路交通法違反で逮捕され、金を返せと平山を追い回していたそれまでの行動などから当然容疑者としてピックアップされ、平山殺人の容疑で警察の取り調べを受けていますが、証拠が上がらずに10月17日に釈放となっています。

 

 

 

第2の事件(藤沢市母娘3人殺害事件)

 

 

藤間静波は、平山勝美殺害から約40日後の1981年11月20日に、同級生と2人で自転車で自宅へ帰宅する途中だった神奈川県立茅ヶ崎高校2年生だった畑真輝子さん(当時16歳)をナンパします。この時、畑真輝子さんは藤間静波に自宅の住所や電話番号を教えてしまっています。

 

その後、藤間静波は真輝子さんを電話で誘って、12月15日に熱海後楽園で2人で遊んでいますが、そのデート費用などは全額、藤間静波が出しています。

 

1981年12月27日、藤間静波は突然、真輝子さんの自宅にバイクで訪れます。両親も在宅していた事から、真輝子さんは「なんで急に来るのよ」と怒り、「今日はダメ」と拒絶。その後電話で約束をして1981年の大晦日に2人で会った時に、藤間静波は真輝子さんに告白をするも「他に好きな人がいる」と断られています。

 

1982年1月になると、藤間静波はストーカー行為を働くようになり、真輝子さんの自宅や通っている高校にしつこく電話をかけるようになりました。そうした異常な行動に辟易して真輝子さんは藤間静波を拒絶し始めます。

 

真輝子さんに拒絶され始めると、藤間静波は熱海後楽園に行った時のデートで支払った金を返せなどと言い出すようになり、自宅に電話をかけて真輝子さんの両親にまで「娘さんに金を貸しているから返してくれ」などと言い始めました。

 

この時、真輝子さん父親の、会社員畑光治さん(当時46歳)は、藤間静波の話を信じずに金を返す事は拒否しています。

 

同年2月に入ると、藤間静波が21時頃に自宅に押しかけてきて、真輝子さんと玄関先で言い合いになっています。この時には、畑光治さんが間に入り、これ以上の関わり合いを避けるために藤間静波がデート費用を返せと要求した金額(3千円)を渡し「娘とはこれ以上関わるな」と言って話を終わらせようとします。

 

ところが、その後も藤間静波は真輝子さんにしつこく付きまといを続け、相変わらず実家にも電話をかけてきて「金を返せ」だの「好きだから付き合わせてくれ」だのと言ってくるようになります。

 

さらに、4月になると、藤間静波は少年院時代に知り合った仲間らにも頼み、夜中にしつこく真輝子さんの自宅に無言電話をかけるようになります。その一方で、真輝子さんへの殺意が芽生え、その準備のためにその後犯行に使用される文化包丁(刃渡り18.4cm)や操り小刀(刃渡り13.3cm)などを万引きしています。

 

5月8日、藤間静波は真輝子さんの家へと押しかけて、「金を返してほしい」などと騒いだため、ついに父親の畑光治さんが110番通報。通報に気がついた藤間静波は逃走しますが、これをきっかけに真輝子さんだけでなく、畑さん一家全員に対する殺意を抱くようになったようです。

 

5月24日の深夜、新宿歌舞伎町のゲームセンターを出た藤間静波は、そこで偶然、少年院時代に知り合った岸純太郎(当時19歳)という男と再会しています。施設から脱走してきたと話す岸純太郎に「犯罪で食っていきたいから手を組もう」と持ちかけられ、その後、藤間静波はこの男と一緒に行動するようになりました。

 

そして、5月26日、藤間静波はこの岸純太郎に、畑光治さん一家を殺害する計画を持ちかけました。どういった心理なのか岸純太郎はこの犯行に乗る事を承諾します。

 

仲間を得て藤間静波は殺害計画を実行に移す事を決め、翌5月27日の20時頃に、畑さんの一家に顔や声の知られていない岸純太郎に玄関のベルを鳴らさせ「新聞屋ですけど」と名乗らせました。

 

その時、父親の畑光治さんは不在で、家には真輝子さんの他、母親の畑晴子さん(当時45歳)、妹の真理子さん(当時13歳)だけでしたが、その日の昼間に偶然本物の新聞屋が集金に訪れ、その時には母親もパートで不在だった事から帰ってもらっていた事から、その新聞屋が再び来訪したのだと考えて、晴子さんは疑う事なくドアを開けてしまったようです。

 

瞬間、藤間静波と岸純太郎の2人は凶器の包丁と操り小刀を手に家の中に踏み入り、事前に計画した通りに、玄関ドアを施錠してチェーンをかけ、外部との連絡が取れないよう電話線も切断しています。

 

その上で、藤間静波と岸純太郎は母娘3人を次々と襲い、滅多刺しにして殺害しています。

 

遺体は20時半頃に帰宅した父親の畑光治さんによって発見され、同40分頃に通報されています。家の電話線は切られていたため光治さんは隣の家の電話を借りて通報されています。

 

家の中では、真輝子さんと真理子さんの遺体が見つかり、晴子さんは這って逃げ出そうとしたのか、その遺体は、裏の勝手口から出たところの隣家のフェンス横でうつ伏せの状態で見つかっています。

 

晴子さんの背中には操り小刀が、真理子さんの右腕には文化包丁がそれぞれ突き立ったまま残され、ケースに入ったままの刺身包丁(刃渡り20cm)も家の床に残されていました。これは藤間静波が証拠になるものを身につけない方が良いとの考えから計画的に現場に残していた事が後の取り調べなどで判明しています。

 

 

 

第3の事件(岸純太郎殺害事件)

 

畑真輝子さんら母娘3人を殺害した後、藤間静波と岸純太郎は、一旦タクシーで藤間の実家へと戻り、再びタクシーを使って犯行前に駐車場に置いておいたバイクを取りに戻った後、着替えを済ませてから、電車を使って逃走を開始しました。

 

藤間静波と岸純太郎は、大阪や兵庫県尼崎などに立ち寄って第2の犯行時に着ていた衣服などを処分した後、九州方面へ逃亡する事を決めて5月29日に博多駅へ移動。福岡市では旅館に宿泊したり、オールナイトの映画館でポルノ映画を観たりして潜伏していました。

 

なお、この時の逃走費用は、藤間静波が第2の事件の前に藤沢市内でひったくりをするなどして手に入れていた30万円ほどでした。

 

そして、この逃走期間中、藤間静波は共犯の岸純太郎が裏切って警察に駆け込む事を警戒し、口封じのために殺害するタイミングを図っていました。

 

しかし、結局福岡市では、殺害のタイミングがなく、藤間静波は岸純太郎を連れて、6月5日に再び関西方面へと戻っています。

 

藤間静波は岸純太郎に強盗に入る家を探すと嘘をついて阪神梅田駅から兵庫県尼崎方面へと一緒に移動し、市内のマンションへと侵入した後で、屋上へと続く階段の踊り場で突然、操り小刀を岸純太郎に突き刺して襲いかかりました。。

 

岸純太郎は階段を駆け降りて逃げようとしますが、藤間静波はそれを追って背中や脇腹を滅多刺しにして殺害しています。時刻は6月5日の21時頃でした。

 

岸純太郎の遺体は、このマンションの住人によって21時45分頃に発見し警察に通報しています。また、岸純太郎の遺体には操り小刀が突き立ったままになっており、刺し傷は25ヶ所にも上りました。

 

 

 

藤間静波の逮捕まで

 

この岸純太郎殺害事件は、すぐに藤沢市内で発生した母娘3人殺害事件と結びつけられ、合同捜査本部が設置されました。

 

藤間静波は岸純太郎を殺害した後、タクシーを使って6月6日に名古屋市へと移動し、その後は電車で7日に静岡市へと移動して1泊し、7日に東京駅で降りています。そして8日、池袋西口公園で手配師に声をかけられた藤間静波は、埼玉県大宮市三橋町の作業員宿舎に滞在しながら、建設現場で働き始めました。

 

藤間静波はこの間、警察の動向を探ったり、金を貸してくれる存在を探すために、両親や少年院時代の知り合いに公衆電話から何度も電話をかけていました。その少年院仲間の1人が、藤間静波から埼玉県内にいると聞いた事を警察に明かしたため、警察は特別捜査班を編成して埼玉県全域に聞き込み捜査を行わせました。

 

そしてついに、6月14日、警察の特別捜査班の1つが、藤間静波の滞在していた作業員宿舎の近くの菓子店に、藤間によく似た男が連日訪れている事を突き止めます。

 

捜査員はこの菓子店に張り込み、その日の15時35分に菓子店にやってきた藤間静波を脅迫容疑で逮捕(いわゆる別件逮捕)しました。藤沢市の母娘3人殺害事件の発生から18日目での逮捕でした。

 

 

 

藤間静波の生い立ち① 幼少期から小学校時代

 

続けて、「藤沢市母娘ら5人殺害事件」の犯人・藤間静波の生い立ちについてもまとめていきます。

 

藤間静波は、1960年8月21日に、神奈川県茅ヶ崎市で生まれ平塚市で育ちました。

 

藤間静波が小学1年生の頃に、家族で平塚市の長屋に引っ越してきました。この家には畳敷の部屋が二間(6畳と4畳半)しかありませんでしたが、6畳間は6歳下の妹に与えられ、藤間静波は4畳半で両親と一緒に生活していました。

 

藤間静波は、幼少期は母親の愛情を受けて育ち、それなりに幸せな生活を送っていたようです。しかし6歳の時に妹が生まれると、母親が、藤間静波の教育は父親が担当し、自分は妹の教育を担当するという意味不明な取り決めをしてしまいます。

 

それ以来、藤間静波は母親からの愛情を十分に受ける事が出来ずに成長したと見られています。藤間静波は妹が生まれた直後の1967年4月に平塚市立富士見小学校に入学しているのですが、当時の担任教師の証言によると、小学校ではニコリともせずに黙りこくり、友達の輪にも入らずにいつも独りぼっちで過ごしていたという事です。

 

さらに、担任教師が小学1年生の頃にクラスの全生徒に「好きな生徒」と「嫌いな生徒」を調査するアンケートを行ったところ、なんと全員が「嫌いな生徒」に藤間静波の名前を書いたという事で、当時からかなり性格に歪みが生じていたという事かも知れません。

 

また、勉強への意欲が低く、成績はかなり悪く、性格は異常に喧嘩っ早く、体の大きな上級生に対しても喧嘩をふっかけていくようなところもあったという事です。

 

小学3年に上がる頃には学校を抜け出すようになり、何度か万引き事件も起こしています。

 

小学4年生の頃には同級生の女子の頬に鉛筆を突き刺す事件を起こし、母親が学校へと呼び出されています。この時、担任教師は呼び出された母親が藤間静波に対して全く愛情を持っていないのではないかという印象を抱いています。

 

この頃には、藤間静波は勝手な振る舞いを繰り返す事から、周囲の子供らから疎外されるようようになり、さらに孤立を深めたようです。5年生の頃にはいじめに遭うようになり、母親に「いじめられるから、死にたい」と助けを求めた事もあったようです。

 

6年生の時には、同級生にモップで頭を叩かれてワックスが目に入る怪我を負った事もあったという事です。

 

 

 

藤間静波の生い立ち② 中学時代

 

藤間静波は小学校を卒業後、1973年4月に平塚市立春日野中学へと進学しています。

 

中学に上がっても藤間静波は同級生からのいじめを受けており、1年になってすぐの頃に「藤間を殺す会」などという物騒なグループができており、弁当に白墨の粉をかけられるなどの嫌がらせを受けたようです。

 

中学2年になる頃には、学校でいじめられる鬱憤を家族を攻撃して晴らすようになり、妹をいじめたり母親に暴力を振るったりするようになっています。

 

この頃に、妹にはピアノが買い与えられ、2間しかない家の6畳間を丸々自室として与えられています。この事も、藤間静波の親への反抗心を掻き立てたようです。

 

学校の成績も非常に悪く、中学2年生と3年生の時の通知表は全て「1」でした。

 

藤間静波はまともに中学に通わないまま1976年3月に卒業しています。卒業文集の寄せ書きには「ぼくのことをわすれないでほしい」と書いています。

 

 

 

藤間静波の生い立ち③ 中学卒業後は就職するもすぐに辞め犯罪を繰り返す

 

藤間静波は、1976年の3月に中学校を卒業した後、学校の紹介で自宅近くの自動車部品工場に就職しますが、3ヶ月ですぐに辞めてしまいその後は、父親が勤めていた鉄工会社に入ったのの、ここも1週間で辞めています。

 

以降、藤間静波は仕事を転々とし、新聞販売店、ラーメン店、工場などを転々としますが、いずれも長続きせずに定職につく事はありませんでした。

 

そして、それから藤間静波は犯罪を繰り返すようになります。最初の逮捕は17歳だった1977年10月で、平塚市内の事務所に侵入して2000円を盗み平塚署に逮捕されています。

 

その後も藤間静波の窃盗癖はエスカレートし、平塚市内の高校へ侵入して音響機器や現金を盗んでいます。これらの犯罪行為に対する処分は在宅での試験観察という軽いものでした。

 

1978年6月30日にはひったくり事件を起こして逮捕され、中等少年院への送致が決まっています。両親は藤間静波に少年院にいてほしいと願っていたようで、引き取りを頑なに拒否したため、仮退院の申請が認められるのに4ヶ月近くもかかっています。

 

藤間静波は1979年10月5日に仮退院となりますが、その後もひったくりを繰り返し、1980年3月9日に再び逮捕され、2度目の少年院送致処分となり久里浜特別少年院送りになっています。

 

藤間静波は10代後半から成人するまでの間の大半を少年院で過ごし、18歳から20歳までの誕生日はいずれも少年院で迎えています。少年院の通算の在院期間は2年3ヶ月に及びました。

 

また、藤間静波は1981年5月8日に久里浜特別少年院を退院していますが、この時はすでに21歳でした。こ成人を迎えても少年院を出る事を許されないというのはかなり厳しい措置でした。

 

そしてこの久里浜特別少年院を出てからおよそ半年後に、藤間静波は藤沢市母娘5人殺害事件を起こしています。

 

 

 

藤間静波の家族① 母親

 

藤間静波の家族について観ていきます。藤間静波の母親は1930年3月21日、富山県高岡市の生まれで、高等女学校を卒業しているので、当時としてはかなりレベルの高い教育を受けた女性でした。

 

一方で親戚筋の話によるとかなり気の強い女性で、そのために藤間静波の父親の実家の家族とはうまくいかなかったようです。

 

藤間静波の母親は25歳だった1955年9月に家族で神奈川県平塚市へと移り住み、当時実家が営んでいた自転車店で働いていた藤間静波の父親と知り合って1957年12月12日に結婚しています。藤間家の反対を押し切っての結婚だったようです。

 

その後、31歳の時に最初の子供である藤間静波を出産しています。「静波」という名前をつけたのはこの母親で、好きだった古典文学からヒントを得て名付けたという事なのでかなり知的レベルの高い女性だったようです。

 

ただ、この母親は、藤間静波の妹が生まれてすぐ、藤間静波の教育を父親に全て任せ、自分は妹の教育を担当するという取り決めをしています。

 

この意味不明な取り決めが、藤間静波の性格を歪ませた可能性は高いのではないかと感じられます。

 

また、この母親は、藤間静波が小学2年生に上がる頃から「寝ている妹を起こすから躾のためだ」などと言って、藤間静波の手を縛って押し入れに閉じ込めるなどの虐待行為を行っていたようです。

 

そんな反面、藤間静波の母親は、藤間静波がいじめられたと訴えると、すぐに飛び出していって抗議をし周囲とトラブルを起こしていたようです。ほとんどの場合、藤間静波の方から何か悪さをして、同級生に反撃されたり、周囲の大人に注意をされたりといった内容だったようですが、母親は藤間静波の訴えを全て信じ込んで凄い剣幕で抗議に行っていたそうです。

 

藤間静波も、当時は母親に言えば何でもしてくれると思い込んでいたようですが、小学4年生の時に藤間静波が同級生の女子の頬に鉛筆を突き刺す事件を起こした頃から、突然母親は藤間静波のいう事を信じなくなり、藤間のした事で周囲からクレームがついても「もう手に負えないから、煮るなり焼くなり好きにしてください」と言って息子を放り出していたそうです。

 

この母親のかなり異常な教育方法が、藤間静波が藤沢市母娘ら5人殺害事件を起こした事と無関係とは言い切れないように感じます。

 

 

 

藤間静波の家族② 父親

 

1926年10月7日、平塚市西北部の神奈川県中郡の金目村という場所で長男として生まれました。

 

実家は豪農で商店も経営していて裕福でしたが、妻(藤間静波の母親)と実家との折り合いが悪く実家を飛び出し、平塚市内でアパート住まいを始めています。

 

その後は親戚筋の会社で働いていましたが、競輪やパチンコにハマり、藤間静波の母親が金を出し渋ると暴力を振るう事もあったようです。

 

ただその一方で、この父親は幼い頃の藤間静波には愛情を示していたようです。

 

小学2年生の頃に藤間静波は学校のジャングルジムから落ちて大怪我をしているのですが、この時には、この父親が寝ずに看病をしています。後に藤間静波は少年院で「これまでに最も嬉しかった事」と質問された時、この時の事を真っ先に挙げていたそうです。

 

ただ、藤間静波が中学を卒業した頃からは腕力で勝てなくなり、藤間静波の家庭内暴力を抑える事ができなくなり、ほとんど匙を投げたような状態だったようです。

 

 

 

藤間静波のカメラに向けてVサインを出した顔写真も注目された

 

出典:https://lh3.googleusercontent.com/

 

藤間静波の顔写真は当時の報道で公開されています。藤間静波は護送される際に何故かカメラに向かって笑顔でピースサインを作った事があり、この時の顔画像は現在もかなりネットでも話題になっています。

 

実は、藤間静波は、現場の検証に立ち会った際や裁判でもVサインを見せつけるなどしています。どんな意味があるのかはよくわかりませんが、このVサインの顔写真を見ていると何故か無性に腹が立ってきます。

 

 

 

藤間静波のあだ名はとんませいはく

 

藤間静波は、幼稚園時代に他の園児に「藤間静波」という名前をなじって「とんませいはく」というあだ名をつけられからかわれた事があったようです。

 

これは当時は藤間の苗字が「ふじま」ではなく「とうま」という読みだったためで、藤間静波の母親は息子があだ名をつけられてからかわれた事にショックを受けて幼稚園に「改姓手続き」をして苗字の読みを変更しています。

 

藤間静波は、中学に上がってからもいじめを受けていますが、この時も「とんま」というあだ名で呼ばれていたという事です。

 

 

 

藤間静波が藤沢市母娘ら5人殺害事件を起こした動機

 

藤間静波の「藤沢市母娘ら5人殺害事件」を起こした動機についても見ていきます。

 

まず、平山勝美を殺害した第1の事件の最大の動機は、平山に藤間静波がひったくりなどで得た20万円を盗まれた事への復讐です。また、藤間静波は金を取り返す目的で平山勝美を追い回していましたが、平山が開き直るような素振りを見せたため、ひったくりの共犯だった平山が警察にタレ込む事を警戒し、口封じをするという事も動機になっています。

 

藤沢市の母娘3人を殺害した第2の事件での藤間静波の動機は、交際したいと思っていた畑真輝子さんにしつこくつきまとった結果拒絶され、その家族にも敵対的な態度を取られた事から自分が馬鹿にされたと感じ、その怒りから一家への殺意を持った事でした。

 

藤沢市の母娘を殺害した時の共犯だった岸純太郎を殺害した第3の事件の動機は、現場には同行したものの自分では殺害に手を染めていない岸純太郎が警察に駆け込むのではないかと疑い、口封じに殺害しようと考えた事でした。

 

いずれの事件も極めて身勝手な動機で引き起こされています。この事からも藤間静波の異常性が際立ちます。

 

 

 

 

藤間静波の藤沢市母娘ら5人殺害事件での判決は死刑

 

 

藤間静波の藤沢市母娘ら5人殺害事件の裁判では、1988年3月10日に第1審の死刑判決が下されました。死刑判決が下された際、藤間静波は突然傍聴席の方を向いて両手でVサインを作り、「自分が世界で好きな人は稲川聖城(暴力団組長)さん」などと意味不明な発言しています。

 

藤間静波の弁護側は死刑判決を不服として控訴しますが、藤間静波は「早く死刑になって楽になりたいから控訴をやめる」などと言って騒いでいます。藤間静波は自ら控訴取下書を作成し提出し、色々とあって死刑判決が確定する事になりましたが、弁護側が決定を不服として特別抗告した結果、控訴審が行われる事になりました。

 

しかし、控訴審でも2000年1月24日に死刑判決が下されています。

 

弁護側はこの判決も不服として上告しますが、2004年3月23日に再び死刑判決が下され、藤間静波の死刑判決が確定しています。

 

 

 

藤間静波の現在…既に死刑執行

 

 

死刑判決が確定した藤間静波は、東京拘置所の独居房に収監されていましたが、確定から3年後の2007年12月7日に死刑が執行されています。享年は47歳でした。

 

なお、藤間静波が収監されている時、面会に訪れたのは母親だけでした。

 

また、逮捕以降26年もの間独居房に収監されていた藤間静波は痩せ衰え、自分の足で立つ事ができずに移動する時には代車が必要だったという噂もあるようですが真偽不明です。

 

 

 

まとめ

 

今回は、「藤沢市母娘ら5人殺害事件」の犯人の藤間静波についてまとめてみました。

 

藤間静波は少年院時代の知り合い2人と、藤沢市に住む当時高校生と中学生の姉妹とその母親を殺害した凶悪犯です。裁判での傍聴席や、報道のカメラに向かって笑顔でVサインを作るポーズで知られており、Vサインを作った顔写真は現在もネットで見る事ができます。

 

藤間静波は両親と妹の4人家族で育ちましたが、母親の愛情を受けられずに育ち、小学生時代からおかしな行動が目立つようになって、中学を卒業してからは犯罪を繰り返し、大半を少年院で過ごした生い立ちを持ちます。

 

藤間静波は2004年に死刑判決を受けて2007年に執行されており、現在はすでに死亡しています。

 

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