一時期人気を博したお笑いコンビ「フォークダンスDE成子坂」ですが、メンバーの桶田敬太郎・村田渚が2人とも死去し、病気説や自殺説など死因も話題です。
今回はフォークダンスDE成子坂の経歴や解散後、2人の死因を紹介します。
この記事の目次
フォークダンスDE成子坂とは
出典:https://twitter.com/
「フォークダンスDE成子坂(フォークダンス デ なるこざか)」は、桶田敬太郎と村田渚で構成されていた男性2人によるお笑いコンビです。
ホリプロ所属で、「ボキャブラ天国」に出演して一世を風靡し、海砂利水魚(現くりぃむしちゅー)や爆笑問題と共に時代を彩りました。
中学校の同級生同士で組まれたお笑いコンビで、圧倒的に息の合った掛け合いで桶田敬太郎がボケ、村田渚が鋭いツッコミを浴びせます。
何かすると見せかけて何もしないスカし芸や、意味不明な遊びを突然始めるシュール芸などを主な芸風に、完成度の高いネタでファンを魅了しました。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=pit7PIaRuRk]
斬新なボケと鋭いツッコミは同じお笑い芸人からも評価が高く、爆笑問題の太田光は2人を「天才」と称しています。
ますだおかだ・増田も、「東京にはこんなコンビがいるのか」と大きな衝撃を受けたことを語りました。
ダウンタウンも一目置く存在だったというフォークダンスDE成子坂ですが、現在はコンビの2人ともが死去したことで注目を集めています。
死去の詳細、病気か自殺かといった死因、そしてコンビの現在までをまとめました。
まずは「ボキャブラ天国」シリーズなどに出演していた経歴も含め、メンバーそれぞれのプロフィールを紹介します。
フォークダンスDE成子坂・桶田敬太郎のプロフィール
出典:https://twitter.com/
名前:桶田 敬太郎(おけだ けいたろう)
生年月日:1971年10月4日
出身地:三重県鈴鹿郡関町
血液型:A型
身長:177cm
桶田敬太郎は、フォークダンスDE成子坂のボケ担当です。
高校在籍時にお笑い芸人を目指し、中学時代の同級生・村田渚とコンビを組んでホリプロのオーディションに参加しました。
ホリプロお笑い勉強会に参加するために三重と東京を行き来し、高校卒業後に上京して芸人として本格的に活動を開始します。
相方である村田渚や多くの芸人から「天才」と呼ばれ、爆笑問題の太田光には「あいつは天才過ぎて売れなかった」と言わしめるほどのセンスを持った存在です。
フォークダンスDE成子坂・村田渚のプロフィール
出典:https://twitter.com/
名前:村田 渚(むらた なぎさ)
生年月日:1971年7月29日
出身地:三重県鈴鹿郡関町
血液型:O型
身長:168cm
村田渚は、フォークダンスDE成子坂のツッコミ担当です。
高校時代に桶田敬太郎とコンビを組み、同様に上京して芸人としてデビューしました。
鋭いツッコミでデビュー間もない頃から注目され、お笑いを追求する姿勢や類稀なる才能が同業者である他のお笑い芸人からも高い評価を受けていました。
フォークダンスDE成子坂の経歴
出典:https://www.youtube.com/
中学校の同級生として出会い、高校時代にコンビ結成したフォークダンスDE成子坂。
子供の頃から息の合った掛け合いでお笑いに挑戦し、本格的にお笑い芸人になるために高校在学中からホリプロのネタ見せお笑い勉強会に通い始めます。
1990年、高校卒業と同時に上京し、アルバイトをしながら毎週ホリプロお笑い勉強会に参加。
その後、ホリプロお笑いライブへのレギュラー出演が決まり、お笑い芸人として本格的に活動を開始しました。
1991年、地上波デビューを果たすとシュールな芸風が人気を呼びます。
「第14回 OWARAIゴールドラッシュ」で優勝、1993年にはテレビ朝日系「GAHAHAキング」で第2代チャンピオンになるなど、多くのタイトルを勝ち取ってきました。
若手芸人とは思えないほどのスピード出世を果たし、全国的に知名度も高まったフォークダンスDE成子坂。
人気を全国区にしたのは、1994年よりレギュラーとなった「ボキャブラ天国」シリーズへの出演でした。
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現在は大物芸人の域に到達し、数々の番組レギュラーを抱える若かりし頃の「爆笑問題」「海砂利水魚(現くりぃむしちゅー)」「ネプチューン」らと共に、揺るぎない人気を確立しますたのです。
1998年に開催された単独イベント「自縛」は、全10公演で全コントが新作または旧作をリメイクというハードな条件のイベントだと話題になりました。
そしてその人気の高さから、当時のお笑いビデオでは珍しくTSUTAYAのレンタルコーナーに置かれることとなりました。
順調に思われた中、それまでフォークダンスDE成子坂を支えてきたマネージャーが「自縛」の途中で新人マネージャーに変わったことで事務所への不満が生じ、引退を決意。
1999年12月、多くのファンに惜しまれながらフォークダンスDE成子坂は解散しました。
その後はピン芸人や作家として各々の活動を続けていましたが、現在は2人とも死去しています。
若くして亡くなったフォークダンスDE成子坂の2人に何があったのか、解散後の2人をまとめました。
フォークダンスDE成子坂の解散~現在
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海砂利水魚(現くりぃむしちゅー)や爆笑問題と共に時代を代表する才能を示し、「ボキャブラ天国」が放送される度に話題をさらっていたフォークダンスDE成子坂。
この番組に出演した芸人は異様なまでの人気となり、彼らのグラビアが掲載されたお笑い雑誌は飛ぶように売れ、女性ファンがお笑いライブに詰めかけ、まさにアイドル並みの存在でした。
しかし、番組が終了してから他の出演者が売れっ子路線に乗る一方、フォークダンスDE成子坂は1999年末にコンビ解散を発表します。
コンビ解散後、桶田敬太郎は芸人を引退してミュージシャン、作家としての道へ。村田渚は事務所を離れてフリーのピン芸人として再始動しました。
そして2006年、村田渚はピン芸人を経て新たにコンビを組んでお笑い芸人として活動をしていた矢先、35歳の若さで急死します。
そして2019年11月23日、桶田敬太郎も48歳の若さで亡くなっていたことが発表されました。
つまり、2020年現在、フォークダンスDE成子坂の桶田敬太郎・村田渚の2人ともが死去しています。
桶田敬太郎さんの訃報を受け、あの時代を知るお笑いファン達からネット上で追悼の言葉が続々と寄せられました。
「ボキャブラ天国」で一世を風靡したフォークダンスDE成子坂の2人はなぜ死去してしまったのでしょうか。
病気か自殺か、気になる死因をそれぞれまとめました。
フォークダンスDE成子坂・村田渚の死因とは? 【病気?自殺?】
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2006年に35歳の若さで急死した村田渚。
死因は病気・自殺のどちらだったのか、死去時の詳細と合わせてまとめます。
2006年11月12日、村田渚が東京都品川区の自宅マンションで倒れていた所を発見されました。
発見時にはすでに死去していたとのことです。
所属事務所は村田渚の死因について、数日前より周囲に頭痛などの体調不良を訴えていたことを明かし、検死により11日未明にクモ膜下出血で急死していたことが判明したと発表しました。
35歳という若さでの死去に自殺の噂も浮上しましたが、これにより死因は病気と断定されました。
生前最後のテレビ出演は「爆笑オンエアバトル」で2006年12月15日に放送予定でした。
ですが遺族との相談の結果、オンエアには乗らず、番組の最初と最後にテロップで「村田渚さんは11月11日に亡くなられました ご冥福をお祈りします」と表示されました。
村田渚は1999年に「フォークダンスDE成子坂」が解散した後、所属事務所のホリプロを離れてフリーのピン芸人として路上トークライブなどを行なっていました。
しばらくフリーで活動した後、2005年5月より元坂道コロンブスの松丘慎吾と新コンビ「鼻エンジン」を結成し、ソニー・ミュージックアーティスツに所属しています。
鼻エンジンは結成したばかりにも関わらず「M-1グランプリ2005」の準決勝に進出するなど、村田渚のお笑いセンスは健在と言われていました。
新コンビを結成したばかりでこれからという時の突然の死に、当時の相方の松丘慎吾はもちろん、元相方の桶田敬太郎をはじめ多くのお笑い芸人が突然の死去を悼みました。
フォークダンスDE成子坂・桶田敬太郎の死因とは? 【病気?自殺?】
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2006年に元相方の村田渚が死去し、後を追うように2019年11月23日に48歳の若さで死去した桶田敬太郎。
桶田敬太郎が所属し、代表取締役も務めていた芸能事務所「MR」が、死去から3ヶ月後の2020年2月23日にホームページ上で死去を発表しました。
当初桶田敬太郎の死因は公表されておらず、死去から時間が経っての公表だったことから自殺の噂が浮上しました。
しかし「ボキャブラ天国」でしのぎを削った爆笑問題の太田光が、発表から6日後に放送されたTBSラジオ「爆笑問題カーボーイ」内で、桶田敬太郎の死因を明かしました。
出典:https://thetv.jp/
太田光は番組内で、桶田敬太郎は元相方の村田渚の急死直後に癌を患っていることが判明したと明かしました。
癌で死期を悟った桶田敬太郎は、「フォークダンスは2人とも早死って、悲劇のコンビに見られたくない。自分の死のことは5年後まで隠しておいてほしい」と妻に伝えていたそうです。
そのため、死去から遅れての発表となりました。
太田光は「実はずっとガンだった。10年以上。だけど誰にも言わなかった」と語っています。
太田光と桶田敬太郎が最後に会ったのは2年ほど前で、普段から交流があったわけではないもののかつて同じ番組で共にしのぎを削った戦友の死に、胸を痛めている様子が見られました。
桶田敬太郎はコンビ解散後、バンド「The 3cm〜」のボーカルTaroとして音楽活動を開始しました。
2004年からは放送作家・構成作家としてバラエティ番組を中心に企画・構成を担当し、テレビのみならずイベントや舞台、CMなども手掛けていたようです。
ますだおかだ、三原じゅん子などのライブの裏方・プロデューサーとして参加し、ウェブ事業やタレントの企画演出など、高い発想力で幅広いエンターテイメント業務を行なっていました。
近年はピン芸人としても活動を再開し、YouTubeに自身のチャンネルを開設して新ネタを公開するなど、昨今のニーズに合わせた活動も行なっています。
舞台、ウェブ番組、イベントでのネタ披露など自らの活動をするかたわら、後進育成のために若手芸人や芸人の卵を対象に監督・コーチを行い、ネタ提供やプロデュースも手掛けていました。
溢れる才能を開花させてコンビ解散後もずっとエンターテイメントの世界に生き続けてきた桶田敬太郎。
2019年、48歳という若さで病気によって死去したことで、かつて共にお笑い界を引っ張った同世代、「フォークダンスDE成子坂」に憧れた後輩芸人から死を悼む声が多数挙がりました。
「サンドウィッチマン」の富澤たけしは死去発表後に更新したブログで、
「若い頃は成子坂さんの単独ライブのお手伝いに行ったこともあったので寂しいですが、また二人で天国でふざけあってくれていたらいいなぁと思います。心よりご冥福をお祈り致します」
「流れ星」の瀧上伸一郎はツイッターで、
「桶田さんに可愛がってもらったあの頃の思い出は僕の一生の宝です」
「ダイノジ」の大谷ノブ彦も、以下のようにと尊敬する先輩の死を悼みました。
「尊敬してる人が亡くなられてました。亡くなる数か月前にご飯誘ってもらって嬉しくて嬉しくてLINEだけどちょっとだけ会話できて夢みたいだなって」
戦友・太田光から「天才」と称されるほどの才能に溢れた「フォークダンスDE成子坂」桶田敬太郎、そして村田渚。
多くのファン、多くの芸人仲間に愛されていた2人に哀悼の意を表します。
まとめ
「ボキャブラ天国」で絶大な人気を博したお笑いコンビ「フォークダンスDE成子坂」の桶田敬太郎・村田渚。
2人とも若くして亡くなってしまったものの、お笑い界に残した功績は色褪せることがありません。
今後も2人に憧れたお笑い芸人達がエンタメの世界を盛り上げてくれることに期待です!