岡本公三の生い立ち&実家の父親や兄弟!テルアビブ空港乱射事件や日本赤軍との関係・指名手配・精神崩壊とレバノンでの死去まとめ

「テルアビブ空港乱射事件」の実行犯の1人・岡本公三が死去しました。

 

この記事では岡本公三の生い立ちや実家のちとやや母親、兄弟など家族、次兄・岡本武との関係、大学や経歴、結婚など私生活と日本赤軍との関係、イスラエルでの事件と指名手配、精神崩壊とレバノンでの死去と死因についてまとめました。

岡本公三は「テルアビブ空港乱射事件」を引き起こしたテロリスト

 

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2026年7月23日、かつて世界中を震撼させた一人の日本人が、中東レバノンの首都ベイルートの南郊でひっそりと息を引き取りました

 

その男の名は、岡本公三(享年78)。1972年に中東イスラエルのテルアビブで無差別テロ「テルアビブ空港乱射事件」を引き起こした実行犯であり、半世紀以上にわたって国際指名手配を受け続けてきた元過激派メンバーです

 

パレスチナの武装勢力「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」の庇護の下、アラブ世界では「英雄」として、日本では「凶悪なテロリスト」として扱われた彼の人生は、あまりにも数奇で、多くの謎と狂気に満ちていました

 

一人の平凡な青年がなぜ過激派へと身を投じ、中東の地で無差別殺戮に手を染めたのか。そして、イスラエルの獄中でいかにして精神を崩壊させ、亡命先のレバノンでどのような最期を迎えたのか。

 

この記事では岡本公三の生い立ちや実家の父親、母親、兄弟(兄・岡本武)などの家族、大学や経歴、結婚など私生活や日本赤軍との関係、イスラエルでテルアビブ空港乱射事件の経緯とその後の指名手配や精神の崩壊、レバノンへの亡命と晩年、死去と死因などについて詳しくまとめていきます。

 

 

岡本公三の生い立ちと実家…厳格な父親と平凡な母親と6人兄弟の家族

 

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岡本公三は、1947年(昭和22年)12月7日、熊本県葦北郡芦北町に生を受けました

 

第二次世界大戦の敗戦からわずか2年後、日本中が復興に向けて貧しさと戦いながらも必死に生きていた時代です。

 

岡本家の実家は、当時としては比較的恵まれた中産階級の家庭でした。父親は地元の小学校で校長を務める厳格な教育者であり、地域でも尊敬を集める名士でした

 

一方で、母親は毎朝家族のために味噌汁を作るような、日本の伝統的で献身的な専業主婦であったと伝えられています

 

後に社会学者や心理学者が過激派のルーツを分析した際、「岡本公三の実家は、知識と規律を重んじる典型的な教育者の家庭であった」と指摘されています

 

岡本家は子だくさんであり、岡本公三は6人の兄弟姉妹の末っ子として育ちました家族の雰囲気は、校長である父親の強い威厳に包まれていました。

 

末っ子とはいえ決して甘やかされることはなく、学業に対しては高い期待とプレッシャーがかけられていたと言われています。

 

実際、昭和の過激派事件(連合赤軍事件や日本赤軍のテロ)の実行犯の多くが、教員や公務員といった真面目で厳格な中産階級の実家出身でした

 

親の期待に応えようとする重圧と、それが叶わなかった時の挫折感が、若者たちを極端なイデオロギーに走らせる一因になったという見方があります。岡本公三の生い立ちもまた、そうした時代の空気と無縁ではありませんでした。

 

 

岡本公三と次兄・岡本武との数奇な兄弟関係

 

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岡本公三の生い立ち、人生を語る上で絶対に欠かすことができないのが、2歳年上の次兄・岡本武(おかもと・たけし)の存在です

 

優秀な兄弟たちの中でも、とりわけ岡本武は神童のように頭脳明晰でした。熊本県内トップクラスの進学校である熊本県立熊本高等学校を経て、西のエリート校である京都大学農学部へと進学します

 

しかし、時代は1960年代後半の学生運動の最盛期。岡本武は東大安田講堂事件などに参加し、共産主義者同盟赤軍派の主要メンバーとなっていきました

 

そして1970年(昭和45年)、岡本武は仲間たちと共に日本航空機「よど号」をハイジャックし、世界革命の拠点を求めて北朝鮮へと亡命してしまいます(よど号ハイジャック事件)

 

岡本公三にとって、兄・岡本武は深く尊敬する対象であり、常にその背中を追いかける存在でした

 

よど号事件の報道を見た岡本公三は、兄が「革命の英雄」として歴史に名を刻んだことに強烈な衝撃を受けたと推測されます。

 

なお、兄の岡本武は北朝鮮に渡った後、1976年に高知県出身の福留貴美子さんと結婚しました

 

しかし、後に北朝鮮の主体(チュチェ)思想やグループのリーダー格であった田宮高麿と対立するようになります1980年代後半に北朝鮮からの脱出を図って捕らえられ、強制収容所で死亡した(あるいは土砂崩れによる事故死と発表された)とされており、その最期は悲惨なものでした

 

岡本公三は、「自分も兄のように革命のために戦わなければならない」という強迫観念に近い使命感を抱くようになっていきます。「北朝鮮に渡った兄に負けたくない」——その思いが、岡本公三の目を中東へと向けさせる大きな原動力となったと考えられています。

 

 

岡本公三の大学時代…過激派への傾倒と挫折に塗れた経歴

 

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兄・岡本武の鮮やかな軌跡とは対照的に、岡本公三の青年期は挫折から始まりました。

 

高校は地元の進学校を受験するも不合格となり、私立の熊本マリスト学園高等学校に進学します

 

さらに高校卒業後、尊敬する長兄や次兄・岡本武と同じ京都大学を目指して浪人生活を送りますが、二度の受験失敗という屈辱を味わいます。厳格な教育者の父親や、京大に受かった兄たちに対する強烈な劣等感が、この時期に形成されたことは想像に難くありません。

 

1968年(昭和43年)、岡本公三は妥協の末に鹿児島大学農学部に入学します。本来であれば、そのまま地方大学で林業や農学を学び、平凡な人生を歩むはずでした

 

しかし1971年、鹿児島大学にある映画が持ち込まれます。若松孝二監督と足立正生監督がパレスチナゲリラの闘争を描いたプロパガンダ映画『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』です

 

この映画に魂を揺さぶられた岡本公三は、上映運動を展開する「赤バス隊」に参加。そして1972年3月、ついに共産主義者同盟赤軍派(後の日本赤軍の母体)に合流します

 

兄が選んだ「北朝鮮」という舞台に対し、岡本公三は「パレスチナ・中東」という、さらに過激で血生臭い最前線を選択したのです。

 

経歴としては、この時点での彼は思想的リーダーでも幹部でもなく、ただ「世界革命にお前が必要だ」という言葉を信じ切った末端の無垢な青年でした

 

レバノンのベイルートに渡り、PFLPの施設でわずか3週間の自動小銃と手榴弾の訓練を受けただけで、彼はテロの実行犯に仕立て上げられます

 

 

岡本公三の結婚など私生活について

 

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ここで岡本公三の私生活について触れておきます。

 

岡本公三について検索されることの多い「結婚」というキーワードについてですが、岡本公三は生涯を通じて一度も結婚していません(独身)

 

実兄の岡本武が北朝鮮で福留貴美子さんと結婚し、二人の娘(公三にとっては姪にあたる)をもうけたこととは対照的です

 

岡本公三は24歳という若さで中東へ渡り、そのままテロ事件を引き起こしてイスラエルで終身刑の身となりました。

 

釈放後も指名手配犯としてレバノンで逃亡・亡命生活を送っていたため、結婚をして一般的な家庭を築く機会も、愛する伴侶を見つける余裕も一切ありませんでした

 

岡本公三の人生の「パートナー」は、血塗られた自動小銃とパレスチナ解放というイデオロギーだけであり、文字通り「革命に人生の全てを捧げた(奪われた)」と言えます。

 

 

岡本公三らがイスラエルで引き起こした「テルアビブ空港乱射事件」とは

 

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1972年(昭和47年)5月30日、岡本公三の運命、そして世界のテロリズムの歴史を永遠に変える事件が発生しました。のちに「テルアビブ空港乱射事件(ロッド空港事件)」と呼ばれる凄惨な無差別テロです

 

奥平剛士、安田安之、そして岡本公三の3名は、偽造パスポートを使ってローマからエールフランス機に搭乗し、イスラエルの玄関口であるロッド国際空港(現在のベン・グリオン国際空港)に降り立ちました

 

当時、東洋人がアラブのテロに関与するとは誰も想定しておらず、彼らは全く警戒されることなく入国審査を通過しました

 

手荷物受取所でスーツケースを受け取った3人は、その中に隠し持っていたチェコ製のVz 58自動小銃と手榴弾を取り出し、突如として周囲の一般旅行者や空港職員に向けて無差別に銃弾を浴びせました

 

阿鼻叫喚の地獄絵図となった空港ロビー。この凶行により、プエルトリコ人巡礼者やイスラエル人など計26名が死亡し、約100名が重軽傷を負う大惨事となりました

 

作戦の本来の目的は、敵地イスラエルに打撃を与えた後、自爆して「華々しく散る」ことでした。実際、奥平と安田の2名は現場で命を落とします(射殺および自爆)

 

しかし、岡本公三の手榴弾は不発だったのか、あるいはパニックの中で自決のタイミングを逸したのか、彼は生き残ったままイスラエル治安部隊に取り押さえられてしまいました

 

「死んで英雄になる」はずが、ただ一人捕虜となってしまった岡本公三。法廷に引きずり出された彼は、自らの職業を堂々と「赤軍兵士」と名乗り、アラブの同志に向けて高らかに連帯を叫びました。世界中継されたその異様な姿は、その後誕生した「日本赤軍」という名とともに狂気のテロリストとして世界中に記憶されることになったのです。

 

 

岡本公三が引き起こした「テルアビブ事件」は「日本赤軍」誕生の契機

 

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実は、1972年5月にテルアビブ空港乱射事件が起きた時点では、正式な「日本赤軍」という組織はまだ存在していませんでした。

 

当時、最高幹部となる重信房子や彼女の夫(偽装結婚)であった奥平剛士らは、日本の「共産主義者同盟赤軍派」の海外拠点として中東に渡り、「アラブ赤軍(赤軍派アラブ委員会)」と名乗ってパレスチナ解放人民戦線(PFLP)と共闘していました。

 

岡本公三は、このアラブ赤軍の「兵士」としてレバノンに呼び寄せられた若者にすぎませんでした。

 

しかし、奥平、安田安之、岡本の3名がテルアビブ事件を決行し、世界に壊滅的な衝撃を与えたことで事態は一変します。奥平と安田が死亡し、岡本が唯一生き残って逮捕されたこの事件により、彼らはアラブ世界で「英雄」として熱狂的に支持されるようになりました。


この圧倒的な国際的知名度とアラブ側からの支援を背景に、重信房子は日本の国内組織(後に凄惨なリンチ殺人「連合赤軍事件」を起こして自滅)と完全に決別し、独立した国際テロ組織としての「日本赤軍」を正式に結成(1974年)することになります。

 

つまり、岡本公三の凶行が「日本赤軍」のブランドを確立させた原点となったのです。

 

 

岡本公三のイスラエル獄中での精神の崩壊と自己喪失

 

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1972年7月、イスラエルの軍事法廷は岡本公三に対して終身刑を言い渡しました。ここから、彼にとって想像を絶する過酷な獄中生活が始まります。

 

イスラエルの刑務所に収監された岡本公三は、同胞を惨殺されたイスラエル側から厳しい報復的処遇を受けました。

 

長期間にわたる完全な独房拘禁、アラビア語もヘブライ語も分からない完全な孤立状態、そして何より「自分だけが生き残ってしまった」という強烈な罪悪感とトラウマが、彼の精神を内側から蝕んでいきました。

 

数年が経過する頃には、岡本公三は深刻な統合失調症(拘禁反応)を発症し、精神は完全に崩壊してしまいました。

 

壁に向かって一日中意味不明な言葉を呟き続けたり、食事を手でかき回したり、さらには自分の排泄物を顔に塗ったり、犬の真似をして四つん這いで歩き回るなど、人間としての尊厳を完全に喪失した奇行が報告されるようになりました。

 

アラブ世界からは「パレスチナのために戦った偉大なる英雄」として神格化されていましたが、実際の岡本公三は、現実と妄想の区別すらつかない「壊れた人間」へと成り果てていたのです。

 

この強烈なギャップは、テロリズムという行為がいかに人間の精神を根本から破壊するものであるかを物語っています。

 

 

岡本公三のレバノンへの政治亡命と国際指名手配

 

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獄中生活が13年目に突入した1985年、中東情勢の激変により岡本公三に転機が訪れます。パレスチナの過激派組織(PFLP-GC)とイスラエル軍との間で、捕虜交換協定(ジブリル協定)が結ばれたのです

 

この協定により、岡本公三は他のアラブ人捕虜らと共に奇跡的に釈放され、リビアを経由して再び中東の地へと帰還しましたしかし、釈放後も彼の精神状態は一向に回復しませんでした。

 

日本政府および警察庁は、彼を殺人と爆発物取締罰則違反の容疑で国際刑事警察機構(ICPO)を通じて国際指名手配しました

 

以降、岡本公三には逮捕状が出続けており、日本領事館に駆け込んだり帰国しようものなら即座に逮捕される状況でした。

 

そのため彼は、かつて共に戦った仲間である重信房子率いる日本赤軍のメンバーたちと共に、中東のシリアやレバノンを転々としながら潜伏生活を送ることになります

 

しかし、冷戦が終結し、中東和平プロセスが進むと、日本赤軍はシリアやレバノンから厄介者扱いされるようになっていきます。そして1997年、レバノン当局によって、偽造パスポートを使用していた日本赤軍メンバー5名(岡本公三、和光晴生、足立正生、山本万里子、戸平和夫)が一斉に逮捕されます。

 

この事件が、事実上の日本赤軍の崩壊を決定づけました。2000年にレバノン政府は、岡本公三を除く4名を日本へ強制送還しました。この同時逮捕と強制送還によって中東の拠点を完全に失った日本赤軍は、2000年に最高幹部の重信房子も大阪で潜伏中に逮捕され、翌2001年に獄中から「日本赤軍の解散」を宣言することになります。

 

しかし、この時、岡本公三のみが「過去の拷問に対する人道的配慮」としてレバノンでの政治亡命を認められています。

 

岡本公三だけがレバノンに残ることを認められた背景には、アラブの民衆が立ち上がった事があります。「イスラエルと戦ってくれた英雄を日本に売り渡すな」という大規模なデモがレバノンの首都ベイルート等で連日巻き起こったのです。

 

250人ものパレスチナ人弁護士が無償の弁護団を結成する事態に発展し、レバノン政府も国内世論を無視できなくなります。

 

レバノン政府は岡本公三ただ一人に対し、「かつてイスラエルの拷問によって身体的・精神的な迫害を受けた」という人道的配慮を理由に、特例中の特例として政治亡命を認めたのです。これにより岡本公三は、アラブ世界で公式に保護される身となりました。

 

 

岡本公三の晩年…アラブの英雄「アフマド」と死去と死因

 

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亡命が認められた2000年以降、岡本公三はレバノンの首都ベイルート南郊にあるパレスチナ難民キャンプ周辺などで、PFLPの庇護のもと静かな晩年を送りました

 

組織内では「アハマド・アル・ヤバニ(日本人アフマド)」というアラブ名で呼ばれ、日本赤軍という過去のしがらみから切り離され、一人のパレスチナの闘士として扱われました。

 

イスラム教に改宗し、支援者の介助を受けながら隠遁生活を続けていましたが、長きにわたる過酷な収監生活と高齢による衰えは隠せませんでした近年では車椅子姿で、毎年5月30日に行われる「ロッド空港事件記念集会」に時折姿を見せる程度になっていました

 

2022年の50周年集会では支援者に抱えられながらVサインをする姿が報じられましたが、彼の目にどこまで現実が映っていたのかは誰にもわかりません

 

そして、2026年7月23日正午ごろ(日本時間午後6時)、ついにその波乱の人生に幕が下ろされました享年78。レバノンのベイルート南郊の潜伏先での最期でした


PFLPの幹部が発表した死因は「長期間にわたる病床の末の肺の合併症」ならびに「高齢に伴う体調悪化」でした。1972年の事件以来、ずっと精神と肉体の病に苦しめられ続けた末の病死でした。

 

翌24日、ベイルートのパレスチナ人墓地で執り行われた葬儀には、PFLPの指導部やレバノンの関係者らが大勢参列しましたPFLPは声明で「パレスチナの大義と共に闘争の場で多大な犠牲を払った戦闘的同志」として哀悼の意を表しました

 

日本ではテロリストとして現在も指名手配中の身であったにもかかわらず、中東の一部では最後まで「同志アフマド」として英雄のまま土に還ったのです

 

 

まとめ

 

今回は「テルアビブ空港乱射事件」を引き起こしたテロリスト・岡本公三についてまとめてみました。

 

「岡本公三の人生は、1972年、26人の死者を出した時点で終わるはずだった」——ある中東メディアは彼の生涯をそう評しました

 

熊本の厳格な教育者の家に生まれ、優秀な兄弟たちへの劣等感に苛まれながら居場所を探した一人の青年。彼は「世界革命」という時代の熱狂に酔いしれ、パレスチナ問題の真の複雑さを理解する間もなく、ただ命じられるままに引き金を引きました。

 

彼が引き起こしたテルアビブ空港乱射事件は、無関係な民間人を狙った現代の無差別テロの「原点」とも言われ、その後の世界の安全保障体制(空港での厳重な手荷物検査など)を根本から変えてしまうほどの影響を与えました

 

彼が理想とした革命はついに実現することなく、後に残ったのは、理不尽に命を奪われた遺族たちの深い悲しみと、彼自身の崩壊した精神だけでした。

 

2022年には日本赤軍の最高幹部だった重信房子が刑期を満了して出所し、そして2026年、最後まで国際手配されていた岡本公三がレバノンの地で死去しました。この死をもって、テルアビブ空港乱射事件の実行犯は全員がこの世を去ったことになります

 

冷戦下の昭和という時代が生み出した狂気と悲劇の象徴・岡本公三。この男が中東の地で散らした大量の血と、自らが支払った精神と孤独という代償は、イデオロギーに憑りつかれた人間の恐ろしさと哀れさを、今の時代にも痛烈に突きつけています。

 

彼の死により一つの時代が終わりましたが、彼が残した「テロリズムの爪痕」が消え去ることは永遠にないでしょう。

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