静養先のタイで突然この世を去ったテレサテンさんですが、暗殺説や現在もネット上に存在する死顔画像が話題です。
今回はテレサテンさんの生い立ちや家族、波瀾万丈な経歴、暗殺説など死因の真相、死顔画像もまとめました。
この記事の目次
テレサテンのプロフィール
プロフィール
・名前: テレサテン
・繁体字: 鄧麗君(デン・リージュン)
・漢語拼音: Dèng Lìjūn
・出生名: 鄧麗筠
・別名: 小鄧
・愛称: アジアの歌姫、軍人の恋人
・生年月日: 1953年1月29日
・出生地: 中華民国(台湾), 雲林県褒忠郷田洋村
・没年月日: 1995年5月8日(42歳没)
・死没地: タイ, チエンマイ県チェンマイ
・墓地: 金宝山
・職業: 歌手
・ジャンル: 演歌、C-POP、J-POP
・レーベル: Polydor/PolyGram、EMI、Taurus Record
・活動期間: 1967年 – 1995年
現在もなお“アジアの歌姫”と呼ばれるテレサテン
台湾を代表する歌手・テレサテンさんは、母国のみならず香港やマカオなど中華文化圏全域はもとより、日本も含めた東アジア文化圏、さらに広範なアジア全域で広く人気を博しました。
テレサテンさんがリリースした楽曲の累計売上は、控え目に見積もっても1億枚を超えると言います。
そんなテレサテンさんに名付けられた愛称が…
アジアの歌姫
出典:https://twitter.com/
これは、彼女の生前はもちろん、没後25年以上が経過した現在もなお、彼女の人気っぷり、愛されっぷりを如実に表す“称号”として使われ続けています。
また、テレサテンさんの中国における影響力の大きさを揶揄するジョークとして、次のようなものがあります。
「昼は老鄧のいうことを聞き、夜は小鄧を聴く」
出典:https://teresa.amebaownd.com/
「老鄧」とは当時の中国の最高指導者・鄧小平氏のことを指し、「小鄧」とはテレサテン(鄧麗君)さんのことを指しています。
ジョークとは言え、あの鄧小平氏と並び称されるほどの人物だったわけで、中国共産党がその影響力を恐れたとも言われています。
テレサテンの家族や生い立ち・歌手としての経歴まとめ
テレサテンさんの父親は中国北省邯鄲市出身の軍人で、中国山東省出身の母親と、1949年に中国本土の内戦に敗れた国民党とともに、大陸から台湾に渡った、いわゆる“外省人”でした。
3人の兄と1人の弟という男兄弟の中で育ったテレサテンさんは、10歳の時、ラジオ局主催の歌唱コンテストで優勝。たちまち天才少女として注目を集めると、14歳にして歌手デビュー。
さらに、16歳の時には主演映画が作成され、女優デビューを果たすと、中華文化圏のみならず、シンガポールやタイ、マレーシアなどアジア全域で人気に火が点いていきました。
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そして、18歳の時には香港でもレコードをリリースするなど、10代にして既にアジアのトップスターの地位を確立しています。
日本でもトップスターの仲間入りを果たしたテレサテン
1973年、そんなテレサテンさんの活躍に目をつけた舟木稔氏が、足繁く台湾や香港に通い、テレサテンさんと両親を説得、当時勤めていた「日本ポリドール」との契約にこぎつけたのです。
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そして翌1974年、テレサテンさんが21歳の時に、遂に日本でも歌手活動を開始するんですよね。
既にアジアのスターだったテレサテンさんは、当初はアイドル路線の「今夜かしら明日かしら」で鳴り物入りの日本デビューを果たすのですが…売れ行きはあまり伸びなかったと言います。
そこで、思い切って演歌路線に転向した楽曲、「空港」をリリースしたところ、これが大ヒットを記録するんですよね。
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テレサテンさんはこの「空港」で、その年の第16回日本レコード大賞新人賞を獲得し、ようやく日本でもトップ・スターの仲間入りを果たしました。
テレサテンの影響力を恐れた中国共産党はテレサテンの歌を禁じた
その後もテレサテンさんは、香港を拠点に、台湾や日本などアジア各地を行き来する多忙な毎日を送っていました。
1980年代初めには、中華人民共和国(中国)でも、テレサテンさんのカセットテープがコピーされ、大量に出回るようになると、たちまち中国国民の心を掴んでいったと言います。
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中でも人気だったのは、1930年代に中国で大流行した「何日君再来(ホーリーチュンツァイライ)」のカバー曲でした。
中国では馴染み深い名曲を、しっとりと歌い上げるテレサテンさんの歌声に、中国の国民はメロメロに…。
1983年に香港で行われた自身のデビュー15周年を記念するツアーには、なんと10万人を動員したと言います。
そんな彼女の影響力を恐れた中国共産党は、すぐにテレサテンさんの歌を「黄色歌曲」(ピンク歌曲)と位置づけて放送禁止に。音楽テープの販売・所持も禁止する強行措置を取ったのです。
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ただ、それでも中国の人々は、秘かにダビングしたカセットテープを回し聴きしたり、台湾の放送をキャッチしたりして、その後もこっそりテレサテンさんの歌声に耳を傾けていたそうです。
テレサテンが「つぐない」で日本再デビューを果たす
そんなテレサテンさんは実は、1979年2月、日本政府から旅券法違反による国外退去処分を受けており、長らく日本での音楽活動を休止していました。
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もっとも旅券法違反と言っても、偽造パスポートなどの類いではなかったようです。
当時、国交正常化して間もなかった中国政府に忖度して、日本政府は台湾出身のテレサテンさんにそのような過度に重い処分を下したに過ぎないと言われています。
しかし、1984年には日本のファンの強い要望もあり、再来日が許可されたテレサテンさんは、「つぐない」で日本再デビューを果たしました。
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「つぐない」は有線放送を通じてじわじわと人気に火が点き、日本有線大賞などその年の賞レースを総なめにします。
さらに、1985年にリリースした「愛人」も有線放送リクエストチャートで14週連続1位に輝くなどの大ヒットを記録!
テレサテンさんはこの曲で、第36回NHK紅白歌合戦に初出場を果たしています。
さらに、翌1986年にリリースした「時の流れに身をまかせ」でも2年連続の紅白出場を果たしたテレサテンさん。
「つぐない」と「愛人」がそれぞれ150万枚、「時の流れに身をまかせ」はなんと200万枚ものセールスを記録しています。
中国での活動も解禁されるも天安門事件でテレサテンの運命が急展開
日本での人気が最高潮に達していた1986年、改革開放路線を進める中国でも、テレサテンさんの歌が事実上解禁されたことで、中国でのコンサートも行われるようになっていました。
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1987年に自宅を香港に移したテレサテンさんは、1989年5月27日、中国国内で頻発していた民主化要求デモを支援する、香港ハッピーヴァレー競馬場での民主化支援コンサートに参加。
テレサテンさんは、コンサートにつめかけた約30万人の聴衆の前で、平和を願う「我的家在山的那一邊(私の家は山の向こう)」を歌い、国民の民主化の気運を高めたと言われています。
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が、しかし!
そんなテレサテンさんの願いも虚しく、その直後である1989年6月4日、北京で「天安門事件」が起きてしまうんですよね。
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中国共産党による一党独裁を否定したテレサテンさんは、イギリスから中国に返還・譲渡されることが決まっていた香港を離れ、失意の中、フランスのパリへの移住を決意しました。
しかし、テレサテンさんはこの頃には、徐々に持病の喘息が悪化していたようで、1990年以降はめっきり表舞台に姿を現すこともなくなり、日本を訪れることも稀になっていました。
テレサテンが保養先のタイで突然の死去…
そんなテレサテンさんは、1995年5月8日、静養のために訪れていたタイ・チェンマイで、突然の最期を迎えることになります。
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ちなみに…タイ・チェンマイは、生前のテレサテンさんがこよなく愛した地と言われているんですよね。
当時、彼女はチェンマイの有名ホテル「ザ・インペリアルメイピン」15階の特別室に、恋人であり専属カメラマンだったフランス人男性、ステファン・ピエール氏と長期滞在していたそう。
テレサテンの死因は?暗殺説も囁かれていた…
テレサテンの死に囁かれた暗殺説
当初、42歳という若さでの、あまりにも突然の死だったこともあり、テレサテンさんの死因については様々な憶測が飛び交いました。
中でも盛んに噂されたのが…暗殺説だったんですよね。
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というのもテレサテンさんは、天安門事件前後から突然表舞台を去っており、世間では「何か大きな陰謀に巻き込まれて暗殺されたのでは?」との噂がどこからともなく浮上したのです。
そして、あの悪夢のような天安門事件を目の当たりにした誰もが、その不吉な噂を否定することができなくなってしまったのです…。
実はテレサテンはスパイだった?
また、テレサテンさんが「実はスパイだったのでは?」との噂もあるようです。
その根拠として挙げられるのが…普通の歌手では考えられない卓越した言語能力にあります。
と言うのも、テレサテンさんは、ネイティブである台湾語に加え、北京語に広東語、山東語だけでなく、日本語や英語、マレー語、フランス語まで流暢だったと言われているんですよね。
これは特殊諜報員として特別な訓練を受けたに違いないぞ!ってのが、スパイ説の根拠になっているようです。
実際、テレサテンさんは生前、“アジアの歌姫”として世界中を飛びまわることができたので、現地に潜伏する諜報員との連絡役を務めていたとも言われています。
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スパイを辞めたかったテレサテンさんは、最後の任務としてタイに派遣されたところ、辞められては困るとある機関によって口封じで暗殺された…とまことしやかに囁かれていたようです。
しかし、どうやらテレサテンさんの死の真相は、もっと単純なところにあったようです。
テレサテンの死因はぜん息の発作だった
テレサテンさんの兄のフランク・テン氏は、テレサテンさんが9歳頃からぜん息を患っており、テレサテンさんの死因は“ぜん息による発作”だと断言し、暗殺説などの疑惑を一蹴しました。
また、関係者によると、テレサテンさんは、1994年12月にも激しいぜん息の発作に襲われ、一時は危篤状態にまで陥っていたとも言われています。
幸い、その時にはすぐに危篤状態から脱することができたのですが、1995年に入っても咳の症状が残っていたのだとか。
そこで、恋人のステファン・ピエール氏と、「どこか空気の良いところで保養しよう」と保養先に選んだのが、以前よりテレサテンさんがこよなく愛していたチェンマイだったわけです。
ところが、滞在先のホテルで再び激しい発作に襲われたテレサテンさん。
すぐに救急車を呼んだのですが、運悪く渋滞に巻き込まれてしまい、30分後になんとか病院に到着するも…その時にはすでに息を引き取った後だったそうです。
ちなみに、体調が思わしくなかったテレサテンさんを献身的に支えていたというピエール氏は、実は、テレサテンさんの日本復帰を後押ししていたのだとか。
そして、彼の支えもあり再び日本で歌手活動すべく、既に「泣かないで」という新曲も出来上がっており、近々日本でお披露目する予定だったのだとか…。
テレサテンの衝撃の死顔画像が現在もネット上に…【閲覧注意】
そんなテレサテンさんの最期の姿である“死顔”を捉えた画像が、現在もネット上に存在していることをご存知ですか?
今回、何枚か入手できたので紹介しておきますが、かなりショッキングな画像ですし、恐らくテレサテンさんご本人も望まないことでしょうから、くれぐれも閲覧注意でお願いします。
まずは軽めのものから…
出典:https://kknews.cc/
恐らく、棺に入ったテレサテンさんの画像ですね。とても安らかな死顔に見えます。
出典:https://www.sohu.com/
遺体の状態を調べているシーンでしょうか…。右の男性が指さしている場所が気になりますね。
で、さらに探してみたところ…
出典:https://www.youtube.com/
首筋にあるシミのような跡を指さしていたのでしょうか。
いずれにしても、まだまだ脳裏には生前のとっても愛らしいテレサテンさんの面影が鮮明に残っているだけに、胸が痛くなるような画像ですね。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
1995年に静養先のタイで突然この世を去った、「アジアの歌姫」テレサテンさんの生い立ちや家族関係、そして波瀾万丈なその経歴について振り返ってみました。
また、そんなテレサテンさんの死因として、亡くなる数年前に起きた天安門事件に関連づけて囁かれている暗殺説や現在もネット上に存在する死顔画像についてもまとめてみました。
もしもあの時、ぜん息の発作で亡くなっていなければ、「アジアの歌姫」は果たして今頃どのような存在になっていたでしょう?
もしかすると、ここのところ話題になっている香港の民主化デモ騒動にも、何らかの形で関わっていたかも知れませんね。
最後になりましたが、そんなテレサテンさんのご冥福を心よりお祈りいたします。